オレを追い詰めたものが絶望だったとしても、フェンスまで歩いたのはオレの足だ。
見返してやりたかった。
後悔させてやりたかった。
一生忘れられない傷にしてやろうと思った。
そんなことのために、そんな下らない動機に、オレは自分の命を懸けてしまったんだ。
後悔したのはオレだった。
忘れられないのはオレだった。
連中は、きっと数年経てばオレのことなんて忘れてしまう。
負けたのはオレだった。
だから、せめて、最後の最後は誰かのために、生きたかった。
あなたの証明 〜6「もう、いない」〜
二人で大泣きした日の翌日、萩野は「具合が悪い」と言って学校を休んだ。心配する両親に、恵は自分も休むからと言って共働きの二人を家から追い出した。
「で、あなたは学校を休んで一体なにをしてるのよ」
「本を読んでる」
「バカ! そんなの見れば分かるわよ」
本気で心配したのが馬鹿馬鹿しくなるほど、萩野はすっきりした表情で本を読んでいる。それは祐が気に入って読んでいる本だった。
「これ、祐から貸してもらって読んでたんだけど、続き借りる前に自殺しちゃったから。……って言っても、これ完結してないんですよねー……先輩、続き出たらオレのお墓に持ってきてくださいね。絶対読むからさ、このままじゃ気になって成仏できやしない」
そう言って小さく笑う彼には、「後悔ばっかりだ」と泣いた昨日の面影は残っていなかった。力も抜け、自然体になった彼を見て嬉しい反面、言いようのない不安な風がざわざわと恵の心を撫でている。
再び本に視線を落とした萩野を置いて、恵は部屋を出る。静かに扉を閉め、彼女はもう一度ベッドに身を沈めた。
結局、萩野章吾が部屋を出てきたのは夕陽の名残が空を紫に染めたころだった。
萩野が目覚めてから八日が経った土曜日の朝。
ちょっと遠出しよう、と言って萩野に導かれるままついていき、気がつくと恵は鬱蒼とした森を後ろに背負った吊り橋の前にいた。
「ここ、どこ?」
「新潟のとある田舎です」
「そういうこと訊いてるんじゃなくて……」
「オレの好きな本の舞台になった場所。一度、行って……じゃないや来てみたかったんだ」
萩野はその本の説明もしていたようだが、それは恵の耳を素通りしてさらさらと鳴る葉の音に紛れていった。
さあ、と手を伸ばして恵の手を取ると、萩野はぐんぐん吊り橋を渡ってゆく。
「ちょっと! これっ、グラグラしてる!グラグラしてるってば!!」
「人二人渡ったくらいで落ちるような吊り橋なら、もうとっくの昔に落ちてますって。先輩は映画や漫画の見すぎですよ」
「あんたは本の読みすぎだよ!」
ぎゃあぎゃあ言いながら渡りきった二人は、肩で息をしながら渡った崖の底をしばらく見ていた。それほど急ではない川の流れが、でこぼこした岩の間をすくうように流れている。
「本では、もっと水が流れてるはずなんだ。ここから主人公が落ちるんだよ」
「落ちたら死ぬよ」
「この浅さじゃね」
「深くても死ぬってば」
「そうかな」
「そうだよ。やっぱり萩野クンは本の読みすぎ」
他愛ない話をしながら、森林の中の道とも言えないような道を歩いた。空を覆い尽くすほどの葉と葉のわずかなすき間から、ちらちらと日の光が降ってきて湿った地面をまだらに染める。
木々の息づく音が聴こえてきそうなほど静かだった。ときおりどこかで鳥のさえずる高い音が聞こえるほかは、自分たちの足音と呼吸、葉のこすれ合う音しか聞こえなかった。
ふと、前を行く萩野が立ち止まる。
つられて恵も立ち止まって彼の視線を追った。
「馬鹿だなあ」
「……え?」
「馬鹿だなあ。こういうの全部、自分で投げ捨てたなんて……馬鹿だなあ。もっと見たいものが、きっとあったのに」
「……………」
振り返った萩野は少し寂しそうに笑うと、恵の手を引っ張って再び歩き始めた。
そうやってさんざん歩き通してから、帰路に着いた新幹線の中で二人は眠りこけた。降りる駅を寝過ごしたのは当然の結果だった。
翌日、萩野は遅くまで部屋にこもっていた。
心配になってのぞきに行こうとした恵はちょうど部屋を出てきたところの萩野にぶつかり、気まずい気持ちで小さく謝った。
「先輩、行きたいとこあるんだけど、オレ一人じゃ心細いから……付き添い頼めます?」
「……そんなの、頼まれなくたってついてくよ。どこ行きたいの?」
「オレんち……っていうか、萩野章吾の家」
本当は、ずっと問いたかった。
「家族に会わなくていいのか」と、恵は萩野に聞こうとして、何度もその言葉を呑みこんだのだ。
不安だった。家族に会ってしまえば、萩野がこの世界に留まる理由がなにもなくなってしまう気がしたのだ。もちろん、祐には会いたい。目覚めて欲しい。だけど、萩野がいなくなるのも考えたくない。でも、二つの魂が同時に存在することは、もう、二度とできないことなのだ。
そしてふと、気づいてしまった。
この二日間、萩野はまるで心残りを一つでも消していこうとしているようだった。読みかけの本を読み、行きたかった場所に行き、そして最後に、自分の家族に会う。
「は、萩野クン……あした…私の行きたいとこ付き合ってよ」
「……先輩ワルだなあ。あしたは月曜日ですよ?」
「萩野クンだってこのまえサボったでしょ!? だから――」
「良いですよ。どこへでも付き合いますよ」
「約束だからね。破ったらダメだからね」
「分かってますよ。破ったら先輩怖いもん」
「ちょっと、それどういう意味よ!!」
言いながら、気づいていた。
この約束が、きっと破られるだろうってことを。
それでも、恵はあしたどこに行こうかと、考えずにはいられなかった。
萩野の家は一軒家で、兄と姉は家を出て行ってしばらくたつのだという。姉のほうは結婚して近くに住んでいて今でもちょくちょく帰ってくるらしいが、二階建ての一軒家に二人だけで住む萩野の両親のことを思うと、恵は少し切なくなった。
萩野が押した呼び鈴が、家の中で鳴っているのがかすかに聞こえる。ついでインターホンに出た声は落ち着いた女の声で、松岡だと名乗るとほどなくして玄関が開かれた。
「祐君、久しぶりね」
「……お久しぶりです」
上がって、と萩野の母親は二人を招く。
「目を覚ましたと聞いて安心したのよ。きっと……章吾も会いに来てくれて喜んでるわ」
「お線香、あげさせていただいてもよろしいですか?」
「ええ、その奥にあるの。ありがとうね」
開かれた障子。六畳ほどの畳の部屋は薄暗い。ひっそりと隠れるように仏壇が萩野の遺影をおさめている。おそらく高校の入学式のときに祐と一緒に撮った写真だ。写真のなかで、萩野少年は恥ずかしそうに笑っている。
火をつけた線香の香りが恵の鼻孔をくすぐって、白いすじが立ちのぼった。
――ああ、萩野は死んだのだ。
唐突に、当たり前のことを今さらながらに自覚して、本当は自分がなにも分かっていなかったのが分かってしまった。
萩野は死んだのだ。
一ヶ月前、学校の屋上から飛び降りて、萩野は死んだのだ。
今となりにいる彼は松岡祐の体を借りたなかば幻のような存在で、そこに萩野の存在は確かに感じるけれども、完全な「萩野章吾」ではあり得なくて……。
恵にとって萩野章吾とはあくまでも「弟の親友」という位置であり、会えば挨拶や他愛もない世間話はすれどけっして親しい間柄ではなかった。良い子だとは思っていたけれど、一ヶ月前の萩野の死より、恵は弟の昏睡状態のほうが重大な事件だった。
もし萩野が祐の体を借りてふたたび目の前に現れなければ、そうすればこんなに切なくなることも、こんなに悲しくなることもなかったはずなのに……。
もう、恵にはこみあげるものを押しとどめるだけの力は残ってはいなかった。とめどなく溢れる涙をどうすることもできず、嗚咽が声を奪い去ってゆく。
萩野の遺影がぼやけて涙と一緒に流されてゆく。
ふと、肩にかすかな重みを感じて恵みは顔をあげた。
祐の体をした萩野が恵の肩に手をおいて、写真の笑顔とおなじ笑みを浮かべていた。
「……ありがとう、先輩」
「萩野クンのバカ……」
「うん、ごめん、ありがとう」
聞き分けのないこどものようにひとしきり泣いたあと、バツの悪い気持ちでリビングへもどった恵を迎えたのが写真の萩野によく似た母親の笑顔だったので、彼女はふたたび出てくる涙をおさえるのが大変だった。
「ありがとうね、恵ちゃん、祐君も」
萩野の母親はそう言って、音をたてずに二人の前にお茶をおいた。
「こちらこそ、すみませんでした。……あんなに、泣いちゃって」
「いいえ。ありがとうね」
何度も何度も、「ありがとう」とくり返す母親は痛々しかった。となりでうつむく萩野がなにを考えているのか、恵にはまったく分からなかった。
居心地が悪くて席を立ちかけた恵を、萩野の手がきつく押しとどめる。
「母さ………おばさん、一つ、伝えたいことがあって、今日きたんです」
祐の顔だった。だが、瞳は萩野の瞳だった。
持ち上げかけた腰を、恵はふたたび椅子へおろした。静かに、萩野の手を握ると、思いのほか強い力で彼は握り返してきた。
「おばさん、章吾は……おばさんとおじさんのこどもに生まれてきたこと、後悔してなかったよ」
お茶菓子を出していた母親の手が、ピクリと震えてそのまま止まる。
「ほんの少しだって、章吾は二人のこと恨んでたりしなかったよ」
「……祐君…、でも、でもね、章吾の――」
「そりゃ、いじめられてたこと気づいてくれなかったのには、少し、哀しくなったりしただろうけど……でも、恨むのとは違うよ。自殺なんかしたことには後悔しても、生きてきたことには後悔してなかったよ。生まれてきたことには、後悔してなかったよ。それだけは……信じてあげてよ」
母親は力なく座りこむ。うずめた両手の向こうで、ひどく静かに涙を流しているのがわかった。
「楽しかった思い出を、もっと思い出してやってよ。あいつ、本当に馬鹿だったんだ。これからさき、なんだって出来たはずなのに全部投げ出しちゃったんだから。だから、おばさんだけは、あいつの楽しかったこと思い出してやってよ」
日曜日だというのに、父親は家にはいないのだろうか。
目の前で、自分よりずっと年上の女の人が音もなく泣いているのを見るのは辛かった。かすかに震える肩に、切なくなる。
それでも、萩野は母親にかけ寄るなんてことはしなかった。ただ、なにかを耐えるように彼は恵の手を握っていた。
「幸せだったよ。二人のこどもに生まれてきて」
萩野の家を出たときには、すでに霧のように細かい雨がコンクリートの地面を黒く染めていた。
「このぶんだと、家に着くころには服がびしょびしょになってるだろうね」
恵がぼんやりとつぶやく。
萩野の返事はなかった。
「家まで走る? あ、でもその体じゃきついかな。ちょっと運動がてら小走りで行く? それとも競歩で行く?」
たたみかけるように問いがあとからあとから口をついて出てくる。さらさらと、無音の雨がほおを撫でる。
「ねえ、思い出したんだけど、明日じゃない? あの、祐が買ってる本の新刊の発売日。だから明日は買い物に行かない? 好きな本なんでも買ってあげるからさ」
「先輩、これから、学校行こう」
やっと返ってきた萩野の声は頼りないか細いものだった。恵の心臓が警鐘を鳴らし始める。
「それなら、明日……学校行ってから早退して買い物でも――」
「今日行きたいんだ」
「じゃあ、一回家にもどって傘――」
「先輩、このまま行ったほうが近いんだ。行こう、松岡先輩」
なんの反論もできない恵の手をとって萩野は小走りに歩き始める。
雨が体温を奪ってゆく。体温と同時に、なにか大切なものまで一緒にもっていってしまう気がして、恵はぎゅっと萩野の手を握り返した。
「あの日、祐はオレが飛び降りる瞬間を見ちゃったんだよ」
萩野章吾は誰もいない学校の廊下を歩きながら呟いた。
「祐は、あのとおり気弱だから、表立ってオレをかばうなんてできっこなかった。同じクラスだったらまだしも、クラスが分かれて、それでも守れるほど、祐は強くなかったし、オレも同じ立場だったらきっとできなかった。
それでも良かったんだ。良かったはずなんだ。祐は、二人のときちゃんとオレと話してくれたし、学校でもオレのこと無視なんてしなかった。それだけでも、あいつにはどれだけ勇気がいったかわからない」
湿った服がぺたりとはりついて、歩くたびに冷たい風が肌を刺す。
「あの日、オレほんともう限界で、飛び降りて、死んでやったら、あいつら少しは反省するんじゃないかなんて馬鹿なこと考えて……、屋上へ上がったオレを、祐は止めようとして……でもオレひどいこと言っちゃったんだ。
祐が、精いっぱいの力で追いかけてきてくれたことなんか分かってたはずなのに、オレは、自分があいつらに言われたようなことを、こんどは祐に言ったんだよ。
『本当はお前も影でオレのこと嗤ってたんだろう。オレの味方のふりして、本当はオレのこと疎んでたんだろう』……オレもあいつらとおんなじだ。祐のこと、オレ、見下したんだ。先に裏切ったのは……オレのほうだ」
屋上へ続く扉は、あの日からずっと厳重に鍵がかけられている。その重厚な扉に、萩野は力なくもたれかかった。
「前に、祐がオレのこと裏切ったみたいに言ったのは……あんなの被害妄想なんだ。屋上で、オレ祐にひどいこと言って、祐のやつ、ひるんだんだ。それでオレ、そのときのオレ、どうかしてたんだ。そんな祐を見て、図星かよ……って思ったんだ。でも、違うよな。あいつびっくりしちゃっただけなんだよな。それなのにオレは、ああもう世界の終わりだみたいな気持ちになって……気づいたら、足が床を離れてた」
ずるずると、背中を扉にあずけたまま、萩野章吾は床に座りこんだ。
「先輩、すみません。オレ、約束守れそうにありません」
「……は、ぎのくん」
「なんか、夢見たいな九日間だったなあ」
「ばっ、馬鹿! 夢じゃない、幻じゃない。ちょっと! 約束破るなんて許さないから!!」
「……買い物、行けないけど、本は……買ってくださ、いね………きっと、読むからさ」
「待って、待ってよ萩野クン!!」
手荒くゆさぶった萩野の肩が人形のように揺れる。
離れていこうとする萩野の意識はもはや止めることはできなかった。
揺さぶる手をとめて、恵はそっと顔を近づけた。ほんのかすかに、唇が触れる。
「……びっくり、した……先輩、近親相姦って…知ってる?」
「この期におよんで馬鹿じゃないの!! まだ、してないことがあるって言うからしてやったのよ、ありがたく思いなさいよ私のキスは高いんだからね!!」
「……じゃあ、お礼にオレの部屋にある本、全部先輩にあげます」
「足りないっ、そんなんじゃ全然足りない……」
「我がままだなあ………ありがとう、先輩」
ぷつんと、糸が切れたように、松岡祐の体が力をうしなって床へ崩れ落ちた。
思えば、最初から今まで、二人して泣かなかった日はないというほど大泣きしていたように思う。こんなに泣いても、まだ涙は枯れないのか。
「馬鹿。萩野クンの馬鹿」
出会わなければ良かったなんて思わない。絶対に思わない。
この痛みも、悲しみも、出会わなかったら味わわなくてすんだのだとしても、決して出会わなければ良かったなんて思わない。
「……忘れないから」
痛みも、悲しみも、辛さも、喜びも楽しかったことも嬉しかったことも全部決して忘れない。
遠くに、雷のかすかな音が聞こえた気がした。