忘れていた。世界がこんなに輝いてるってこと。
忘れていた。夜はいつか終わるってこと。



あなたの証明 〜5「罪と罰」〜




 一ヶ月のブランクがある勉強は、はっきり言って全く未知の領域に近かった。
 祐には悪いが、期末テストは得意の国語を除いてことごとく赤点を取る覚悟だ。
「まあ、祐だって同じようなもんか……」
 少年はそう一人ごちて、ぼんやりと窓の外を見やる。青い空は変わらずそこにあって、真っ白な雲がのんびりと流れていた。
 雲の構成物質がチリと水だと知った今でも、こんな綺麗に浮かんでいれば食べられそうな気がしてしまう。
 あと数分でチャイムが鳴る。
 そしたらこの記号の羅列……もとい化学から解放されて昼休みに入る。
(祐…お前、そろそろ起きないと本気でやばいぞ)
 心の中で呼びかけてみるが、当然のごとく答えなど返ってこない。
 一ヶ月休み続けた松岡祐の筋肉は衰え、階段の昇り降りさえきつい状態だった。あのまま眠り続けていたらと思うと……ぞっとする。
 松岡祐は呼びかけに答えない。
 いつまでも、この異様な現状が続くとは思えない。いつかは自分も祐も、在るべき場所へ帰るしかないのだ。
 その前に、やりたいことが残っていた。しなくてはいけないことが残っていた。
 意識のない友人の体を借りることには少々の罪悪感があるが、祐はきっと静かに笑って許してくれるだろう。
 「ごめんな」と心の奥に謝って、萩野少年は昼休みに沸く教室から抜け出した。
 目指す場所は、もう決まっていた。




「お前の弟が、喧嘩してるって」
 恵はクラスメイトのその言葉を、しばらくの間理解できずにいた。ぼーっとしたままの恵に向けて、少年はもう一度心配するように首を傾げた。
「確か、退院したばっかじゃないのか? 体、大丈夫なのか?」
 重ねて問われて、やっと恵は立ち上がる。
 「喧嘩」などと無縁の存在だった自分の弟だ。彼が喧嘩している姿など想像できないが、中身が別人なのだ。
 しかし、萩野少年が喧嘩をしている所もまた、想像の範疇外であった。
「松岡、いいのか? 体の心配が要らないんだったら、俺だって別に放っておくけど」
「ダメ!!」
 弾かれたように立ち上がった彼女はその勢いのまま教室を飛び出した。

「萩野クン、萩野クン……一体どうしたってーのよ!?」

 一年の教室は二階分の階段の向こうにある。いつもならのろのろと上る階段を、恵は一段飛ばしに駆け上がる。動悸が胸騒ぎを強くする。
 やっとで四階へ辿り着いたときには既に疲れ果てていたが、止まることはせずに目指す教室へ飛び込んだ。
「はぎ……祐は!? 松岡祐はどこ!?」
 突然の上級生の訪問に、一年生達の動きが止まる。恵は構わず一人の生徒に詰め寄るともう一度同じ事を訊いた。
「三組に……」
 言い終わるより先に、恵はもう飛び出していた。三組の教室に近づいたとき、不穏な音が鼓膜を打った。机がいくつも倒れるような、そんな音が……。
 教室に駆け込んだ恵の目に映ったのは、殴りかかる萩野の拳と、それとは裏腹にひどく傷ついた萩野の瞳だった。
「ふざけるな!!」
 聞いたことのない祐の……萩野の怒鳴り声。
 恵の体が硬直する。
 その視線の先で、萩野はぐいっと相手の胸倉をつかんだ。
「ふざけるなふざけるなふざけるな! 覚えてないだと!? オレがっ、どれだけ……どれだけ…。お前がしたこと、オレは絶対忘れない。お前のことは絶対許さない」
 相手は怒りにわずかな戸惑いを乗せた表情で、じっと萩野を見下ろしている。やがて、自らをつかんでいた萩野の腕に手を伸ばし、言った。
「……お前だって、あいつを見捨てたじゃないか。松岡祐」
 瞬間、弾かれたように萩野の手が胸倉から離れていった。
 少年は表情を変えず、力を失った萩野の手を追って、音がしそうなほど強く握った。
「あいつがクラス中にシカトされてる時、お前が何してやったってんだよ。同罪だよ、どーざい」
 まるで鋭利な刃物で刺されたように、恵は体中が悲鳴を上げるのを感じた。祐が目覚めない理由が、唐突に解かってしまった気がしてた。もし予想が当たっているなら、萩野の言葉以外で、祐を目覚めさせる鍵になるものなんて存在しない気がした。
 どんなに必死に自分が呼びかけても。どんなに強く願っていても、萩野以外に祐を目覚めさせる存在はない。
 声を上げようとして、恵は自分の喉が思っていたより乾いていたのを知った。声が、喉につまって出てこない。
 萩野がゆっくり顔を上げた。
 彼の瞳に、さっきの痛みは残っていなかった。
「祐は……オレは、いてやるだけで良かったんだ。表立って何かしてくれることを、あいつは望んでなんかいなかったんだ。ただ、いてくれるだけで……松岡祐が生きているってだけで良かったんだ!! 心の中で、オレを裏切らないでいてくれれば、それだけで良かったんだ………」
 呆気に取られて誰一人口がきけない教室の中を、恵はすたすたと進んで行くと、萩野をつかんでいた手をパシッと叩き払った。
「――……何しやが」
「あんたが萩野クンにしたこと、私は忘れない」
 鋭い恵の声が飛ぶ。
 教室中が再び静寂に包まれる中、恵は強引に萩野の手を引いていった。最後に、もう一度彼女は教室中を見渡した。目が合った瞬間、皆一様に居心地悪そうに視線を漂わせる。
「あんた達が、萩野クンにしたこと、私も……祐も、絶対に忘れない」
 言って教室を後にする。
 無言の萩野を引っ張ってどんどん進んでいく。行くあてなんて何もなかった。ただ、じっとしている事はどうしても出来ない恵の心が、何か求めるように先を急がせた。
 突然、後ろへ強い力で引き寄せられ、恵の足が止まった。
「――………りだ…」
「……え?」
 萩野の声はあまりにも小さく弱く、かすかに漂うざわめきに掠れて消えた。

「どうしよう……、後悔ばっかりだ」

 松岡祐の……萩野の片目から、音もなく静かに一滴の涙が零れ落ちた。
「後悔ばっかりだ、オレ」
 恵の手が握り返される。最初は弱く、だがしだいに痛いほど強く握られたが、手より心が痛かった。
「もっと出来たことが、たくさんあったはずなのに……、全部、投げ出してきちゃったんだ。きっとオレ、この世界に何も残せなかった。家族が死んだら、オレがこの世界に生きてた証拠なんて……何も残らない」
「私がいる! 私と祐がいる」
 必死だった。今にも消えそうなこの存在をなんとか繋ぎとめようと、恵は必死で言葉を紡ぐ。
「私が、あなたを覚えてる。私は忘れない。私が……」
 あとはもう言葉にならなかった。泣きながら叫ぶように言った言葉は、きっと聞き取れなかったに違いないのに、萩野章吾は黙って頷いてくれていた。
 「これじゃ、どっちが慰められてるのか分からない」と、拗ねるようにぼそりと呟いた彼の言葉が、何だか無性におかしかった。






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