楽しくなかったわけじゃない。
あんまり表情に出ないだけで、楽しくなかったわけじゃない。
華やかな喧騒に包まれた教室の中、窓際の席に座って静かに本を読んでいるその時間が好きだった。
隣りの松本祐が同じく静かに、ぼんやりと空を見ていたりするその空間が、好きだった。
あなたの証明 〜4「雨は止まない」〜
「オレも祐も、口数が多い方じゃなかった。一緒にいても、ほとんど何も話さない日もあった。他の人から見たらおかしいと思われるかも知れないけど、オレたちは楽しかったんだ」
「……うん、知ってる」
知っていた。弟が、萩野章吾と一緒にいるときは安心した表情を浮かべていることは知っていた。
萩野が小さく笑う。
「中学の時は、それで上手くいってたんだ。オレも祐も、大人しいなら大人しいらしくクラスに溶け込んでた。だけど……」
言葉が喉の奥に詰まる。
恵は先を急かすことはせずに、ただ静かに続きを待っていた。
「だけど、高校入って……祐とクラス離れて…オレ、それでも大丈夫だと思ってた。けど、四月の初めに、クラスでも派手なグループが、気に食わない先生一人無視しだしたんだ」
きっかけは本当に些細なことだった。
リーダー的な存在の一人の男子生徒が、一人の教師を無視しだした。クラスメイトにもそれを強いた。みんなそれに従った。面白半分の生徒もいれば、いやいやながら従う生徒もいた。
教師は女性で、なかなか気が強く、決して自分を無視しようとする生徒たちに屈することはなかった。他の教師に泣きつくこともしなかった。それがまた生徒達の反感と興味を煽った。
「オレ、本当はそんな下らないことに加担したくなかった。でも『やめろよ』って言う勇気はなかった。それに、オレ直接先生を無視する機会があるほど、先生と接点なかった」
だけどある日、その接点が訪れた。
その教師が担当する授業は古典。彼女は答えを求めて生徒をあてるけれど、答える生徒は誰一人いなかった。あてられた生徒は皆俯いて寝ている振りをしたり、笑いをかみ殺したりしていた。
そして、順番は萩野章吾に回ってきたのだ。
「寝ぼけてたんだ。でも、寝ぼけてなくてもオレそうしたと思う」
萩野は自嘲気味に呟いた。
その言葉の響きに混じる棘が、恵の心を突き刺していく。先を聞きたくなかったが、聞かなくてはいけないのも分かっていた。
「オレには、『やめろ』って言う勇気もなければ、誰かを面と向かって無視する勇気もなかった」
萩野は教師に答えた。
寝ぼけた頭で教師の問いに答えた直後、瞬時に睡魔は去って頭が異様に冴え始めた。
その時の感覚は忘れられない。
クラス全体が自分を見ていた。
ずっと無視されていた教師も、面白がって苛めに便乗していた生徒も、嫌々ながら仕方なく加担していた生徒も、首謀者の生徒も。皆、その瞬間だけは萩野章吾を見ていた。
さっと血の気の引いていく音が聞こえた。
何とも言えない、表現し得ない感情が教室に渦を巻いていた。萩野章吾を中心に、その渦は回っていた。
「次の日からだよ、対象が、先生からオレに移ったのは……」
地獄だった。
先の見えない闇に放り込まれたようだった。
積極的な悪意も、消極的な悪意も、向けられる感情は一様に陰湿さを帯びていた。金を要求されたこともあったし、およそ耐えられなさそうな屈辱を味わわされたこともあった。
いつも、相手は出来るか出来ないかのギリギリのところを強いてきた。最初は出来ないと思っていても、全てを……大事なものを全部捨ててしまえば結局何でも出来てしまうことにも気付いた。
「でも思ったんだ。そうやって、大事なものを一つずつ捨てていったら、最後に残ってるものって一体なんなんだろう。自分は、何のために生きてるんだろうって……」
辛かった。苦しかった。
どんどん自分が汚くなっていく気がした。
萩野は自分が受けた数々の行為について具体的には話さなかった。
恵も聞こうとは思わなかった。
聞いてしまえば、この脆くて繊細な少年の心が、いとも簡単に砕けてしまうのが分かっていた。
萩野は喉の奥から絞り出すように話していた。
それは体に溜まった毒を少しずつ吐き出す儀式のように思えた。吐き出された毒は空気中を昇ってゆき、青い透明な空に吸い込まれて消えるのだ。
「オレ一ヶ月前のあの日まで、誰かを『憎い』と思ったことなかった。誰かに対して強いマイナスな感情なんて抱いたことなかった」
誰かが嫌いだとかうざいだとか、そんなことを話しているクラスメイトのことがよく分からなかった。萩野の中にはそんな感情は存在しなかった。
苦手な人間とあえて接触することがなかったのも一因だし、生来穏やかな気質だったというのも原因だった。
「だけどオレ、あの日、初めて人が憎く思えた。………祐のことを、オレ、憎んだ」
ひゅっと恵の喉が引きつって音を立てた。言われた言葉の意味がよく分からなかった。
「……祐も、祐も、萩野クンを――」
「違う」
言いかけた恵の言葉を、萩野は思いのほか強い調子で遮った。
「祐はオレの味方だった。クラスが離れてたからいつも一緒じゃなかったけど、祐は、いつだってオレの味方だった……」
「じゃあ――」
「でも最後に見捨てるならッ! 最初から味方なんか欲しくなかった!!」
萩野のこんな声音など、過去の記憶のどこにもない。
本が好きな大人しい少年は、それ以上の過去を吐露しようとはしなかった。出来なかったのかしなかったのかは判断できなかったが、俯いたまま膝に顔を埋める萩野はまるで風景に溶け込んでしまった静物のようだった。
生きた存在が自分しかいないような錯覚に陥って、恵はぶるぶると頭を振る。
午後の授業をそうして二人してさぼって、放課後荷物を取って連れ立って家路を辿る。家では静かにいつも通りを装い、早々にベッドに横たわり寝てしまって目が覚めた次の日の朝。
萩野章吾は昨日のことなど夢だったと思えるほどの爽やかさで「おはよう」と言うので、恵もつられていつも通り「おはよう」と答えたのだった。
「先輩、多分オレ分かったよ」
食事を済ませて二階へ上がった恵の背に、弟の頼りない声が掛かる。振り向いたそこには松岡祐の姿があって、彼は片手で髪をかき上げた。
「何で戻って来ちゃったか、多分、分かった」
黙って先を促した恵の傍に、萩野は静かに音もなく近寄った。耳元に、萩野の吐息が掛かる。
「ファーストキス、まだだったんですよね、オレ」
「……………え?」
硬直した恵の頬を、萩野の……いや弟の髪が掠めていく。
やっと見ることの出来た萩野はにんまりと笑っていた。悪戯を成功させた時の子供のような「してやったり」という笑みに、恵は自分がからかわれたことを悟る。
「ちょっと! アンタねえ!!」
「わっ、暴力反対! 遅刻しますよ遅刻ッ!」
少女の振り下ろした拳を慌てて避けて、萩野は松岡祐の部屋に飛び込んだ。勢いよく閉められたドアを一睨みしてから恵も自分の部屋へ入っていく。
遠ざかる気配がドア越しに背中に伝わる。
萩野はドアに背を預けたまま、ずるりと床に座り込んだ。
「雨が、止まないんだ」
掠れた声は言葉にもならない。外に放たれることのない声は口の中で吐息に混じる。
あの日は、一日中雨が降っていた。
あの日からずっと、雨は降り続けている。
このままでは、やがて足元のぬかるみに沈んでしまう。
どろどろにぬかるんだ地面では、いくら前を目指しても下へ沈むばかりでちっとも先へ進まない。
「雨が……止まないんだ。先輩」