弟の目が覚めてから四日目の朝、彼は制服姿でリビングへ降りてきた。
両親はまだ休んでいた方が良いのではないかと口を揃えて言う。「これ以上授業に遅れたくないから」と同意を求める視線を向けてくる弟に、恵は早々に根を上げた。一緒に両親を説得すると二階へ上がって、
「くれぐれも、学校の人たちには気付かれないようにしてよ?」
と念を押すと、萩野章吾は静かに笑って、
「オレもこんなお姉さんが欲しかったな」
と脈略のない答えを返して松岡祐の部屋へ消えていった。
恵の胸にざわざわと気持ちの悪い焦燥が広がっていくが、それがどうすれば治まるのか、彼女に見当のつくはずもなかった。
あなたの証明 〜3「白昼夢」〜
「どうしたの? ボーっとしちゃってさ」
軽く肩を叩かれて振り返ってみれば朗らかに笑う友人と目が合って、「悩みがなさそうで良いわね」と嫌味を思った自分の心に恵はげんなりとした。
「……別に、ちょっと疲れただけだよ」
「そう……。弟退院したばっかだもんね。でも良かったね、無事に退院できて」
気遣わしげに言葉を連ねる友人に、恵は答えることはできなかった。用事があると言ってうやむやにその場を離れた自分のことを、彼女はきっと不審に思ってるだろう。だが、今はどんな優しい言葉をかけられても刺々しい気持ちになってしまう。だったら、お互いのためにも離れた方がいいのだ。
足早に階段を下りていく恵の横を、同じ制服を着た幾人もの生徒たちが通り過ぎる。一ヶ月前の事件と事故などまるでなかったことのように時間は過ぎていく。
こん睡状態から目が覚めた松岡祐の噂は学校中に広がっていたが、さして目立つわけでもなかった祐の話題がそうそう長く続くわけはない。しばらくすれば再び日常を取り戻していくのだ。
弟の体に、異常が起きていることなど誰も知らずに。
恵は目当ての教室の扉まで行くと、中を覗き込んで小さく手を振った。
「はぎ………、祐!」
呼びかけに少年はゆっくりと反応する。一瞬教室が静まり返る。静寂が体中に突き刺さるようで、恵は肩を竦ませた。はやくこの場から立ち去りたかった。
「どうしたんですか?」
「わっ、わ! ……きゅ、急に近づかないでよ!」
「急に近づいた覚えはないんですけど。先輩がボーっとしてるからですよ」
「ボーっとなんて――……」
してない、と言いかけた恵の口が、瞬時に固まる。
辺りの視線という視線が、これでもかというほど自分たち姉弟に集まっているのを肌で感じる。それはそうだ。普通の姉弟がするような会話じゃない。弟が姉に敬語で、なおかつ姉のことを「先輩」なんて言う姉弟聞いたことない。
「は…祐、祐。ちょっと、来て! 話が、あんたに話があるのよ」
しどろもどろで弟の手を引っつかみ、恵はその場から逃げるように走り出す。人の少ない方を目指して行き着いたところはお約束の体育館裏。
もつれるように座り込んで、二人はずいぶん長い間呼吸が整うのを待った。
「……一体、どうしたって言うんですか。松岡先輩。オレ、まだ弁当食べてないんですけど」
話せるようになるまでに、萩野は結構な時間を要した。それもそうだろう。つい先日まで寝たきり生活を送っていたのだ。本当はこんな激しい運動は医師に止められていた。
しかし、恵は心を鬼にして言う。
「……『一体、どうしたの。恵ちゃん。僕、まだお弁当食べてないんだけど』」
「え、何ですか? 先輩?」
「良いから! さっさと繰り返す!!」
その剣幕に萩野少年は反射的に口を開いた。
「一体、どうしたの。……め、恵…ちゃん。僕……弁当食べてないんだけど……。何なんですか?」
「『弁当』じゃない、『お弁当』って言って!」
「……お弁当?」
「祐はそう言うの」
「あ………」
やっと合点がいったのか、萩野章吾は押し黙った。
恵はいくらか落ち着いた心で呟くように言う。
「あなたが、『祐はまだ眠ってるだけ』って言うなら……信じる。あんたの言ったこと、全部信じる。このまま、祐の目が覚めるまでずっと家に引きこもってるのが良いとは私も思わない。だけど、朝、私言ったよね? 『くれぐれも気付かれないように』って」
コンクリートの地面に、萩野は黙ったまま座っていた。俯いた彼が、今どんな表情を浮かべているかなんて想像がつかない。恵はつとめて優しい声で続けた。
「さっきは、私もうっかりしててごめん。これから気をつけてくれれば良いから」
緩慢な動作で少年は面を上げた。その目が、自分を通り越してどこか遠いところを見ているのに気付いて、恵は言葉を失った。
「松岡先輩」
「だからっ――」
「何も、変わってなかった」
遮られた言葉の先が霧散する。何も言えずに、恵は弟の姿をした少年を見つめた。
「何も、変わってない。一ヶ月前、オレが、死ぬ前から……何も変わってない」
「………萩野クン…」
「世界は、オレがいてもいなくても、何も変わらず回り続けるんだ」
それだけ言うと、後は何を言っても少年は反応を返さなかった。
昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴ったあとも、二人はじっと座ったまま、何も話さなかった。
空は澄み切った青色に染まっていて、巨大な入道雲がほんの少しずつ動きながら水色の空を白く抜き取っている。
そんな夏の空を見るともなしに見ていると、ここ最近忘れていた素直な気持ちになれる気がした。不安も恐怖も怒りも卑屈な気持ちも、何もかも一緒くたになってこの青い空に吸い込まれていくような、そんな気がした。
恵の口が、ごく自然に言葉を紡ぐ。
「萩野クン、一ヶ月前……何があったの?」
本当なら、最初にこれを聞くべきだったのだ。
隣りの少年は、弟ではなく、萩野章吾なのだから。
思えば、自分は「萩野章吾」をまだそんなに知らないのだ。弟の親友だった彼だけど、弟も彼もそんなに口数が多い方ではなかったから。
萩野章吾。
弟の中学からの友達。
本が大好きで、二人してよく静かに本を読んでいた。
目が悪くて、分厚い眼鏡をしてた男の子。
一ヶ月前、学校で飛び降り自殺した男の子。
今、恵は初めて「萩野章吾」自身のことを知りたいと、本当に思った。
彼を屋上のフェンスへ追い詰めたのが何だったのか。どうして心だけ戻ってきてしまったのか。
祐は大丈夫だ、という萩野の言葉に、もうなんの偽りも感じられない。彼がそう言うなら大丈夫なのだ。だから、今は、今、心配すべきなのは、隣りで声を出さずに泣いている萩野なのだ。
恵はそっと、自分の手を傍らの少年の手に重ねた。
伝わる熱が、確かに彼が生きていることを感じさせた。
雲がゆっくり、空を歩いてゆく。