「じゃあ、じゃあっ、祐は死んだわけじゃないのね。ちゃんと生きてるのね!?」
 松岡恵はもう何度も繰り返した問いを、これを最後とばかりに念を押す。
「だから何度同じこと言わせるつもりですか、先輩。祐はまだ眠ってるだけで、消えちゃいないんです」
 気だるそうに髪をかき上げながら彼女の弟は答える。その仕草が弟のものではなくて、松岡恵は再度いまの事態を納得するしかなかった。
「……なんで、キミが祐の体に入ってんの。萩野クン」
「さあ」
「『さあ』じゃないよッ! だってキミ……キミ…」
 恵は人差し指を自分の弟の顔をした少年に突きつける。指の先が微かに震えた。
「だって、キミ、一ヶ月前死んだよね!?」
「はあ……まあ…」
 覇気のない様子で少年は再び頭をかいた。どうやらそれは彼の癖のようだった。やんわりと、自分に向けられた人差し指を下ろさせながら、萩野少年は「そのはずですけどね」と呟いた。
 恵の口が言葉を探してだらしなく開く。開いた口が塞がらないというのはこのことだ。
 ジリジリという音が頭上で聞こえる。次いで蛍光灯の白い光が病室を照らし出す。そしてもう一度、恵は目の前の人物をじっくりと確かめざるを得なかった。

 そう、一ヶ月前に飛び降り自殺したはずの少年、萩野章吾がどういうわけか今、目の前に弟の姿をして立っていた。



あなたの証明 〜2「見えない人」〜




 もう退院しても大丈夫だ、という待ちに待った医師の言葉さえ、恵の耳にはどこか遠く聞こえてくる。ぼんやりと説明を聞いていた彼女の横で、駆けつけた両親が涙を流して喜んでいた。
 そんな彼らに、実は彼は祐ではないのだと誠心誠意説いたとしても、逆に自分が精神科へ連れて行かれるだけだろう。ぼんやりと恵は考える。
 流れていく景色全部がまどろみの中で見る夢のようで、一昨日までの非情な現実はどこかへ消えてしまっていた。
 病室の扉を開ければ退屈そうな弟の背中が目に飛び込んできて、一昨日目覚めてからの怒涛のように襲った検査が再び彼を衰弱させていた。
 結局どこにも異常が見られなかった松岡祐は一日様子を見て晴れて今日退院となったのである。
 大人しそうな印象はそのままだったが、全体的な雰囲気が少し変わった弟を前にしても、両親は事故の後遺症という判断で片付けてしまっている。中身が違うことに全く気付かない彼らを前にして、恵は良かったような哀しいようなごちゃまぜな気分で自分のベッドに寝転んだ。
 帰る車の中でも彼女は一言も口をきかなかった。それに違和感を感じるほど今の両親達に余裕はなかった。
 嬉しそうな表情で弟と話をしている彼らに、「それは本当は弟じゃない」などとは言えない。しかし、いつか、もしずっとこんな状態が続くようだったら彼らも異常に感づくはずで、感づかないならそれはもはや「親」とは呼べない。
 こみ上げるよく分からない感情が苦しくて、恵はグッと顔をクッションに押し付けた。退院したての弟より自分の方が参っている。喉がつまって声が上手くでなかった。
 唐突に、コン、と鳴るか鳴らないかの瀬戸際のような力でドアが叩かれて、全ての思考が一瞬でどこかへ行ってしまう
 よく、祐がするノックの音だった。
 バッと勢いよく体を起こすと、さして広くない部屋をひとっ飛びにしてノブを捻る。
「祐!?」
「………せ、先輩?」
 びっくりして後ずさった弟の口から出た言葉。その一言が、状況は何も変わっていないことを告げた。
 弟が事故に遭ってからこのかた、一度だって泣かなかった。泣いたってどうしようもないのが分かっていた。それなのに、一ヶ月もの間ひたすら耐えてきたものが、音を立てて脆くも崩れ去っていく。
 ぼろぼろと大粒の涙が後から後から堰を切ったように流れるのを止める術などなかった。階下の両親に気付かれないよう声を抑えたぶん、それは涙となって外に出て行った。

 祐はどこへ行ったのだろう。
 自分の弟の「祐」は。
 あの子は一体どこへ行ってしまったのだろう。
 体だけこちらへ置いて、心はもうとっくに手の届かないところへ行ってしまったのではないか。
 なぜ、弟以外の存在が、その体を動かしているのだろう。
 その体を動かせるのは弟だけのはずなのに。「祐」だけが、その体の持ち主のはずなのに。
 弟は事故で、目の前の存在は自殺なのだ。自分で自分の命を絶ったのだ。それなのに。
 それなのに、自殺した人間が甦って、弟は未だ目覚めない。
 そんな理不尽なことがあるだろうか。
 祐はどこへ行ったのだろう。
 祐は――……

「祐は……ちゃんと、います」
 不意に落とされた呟きは掠れていた。恵は静かに顔を上げる。弟の目が真っ直ぐ自分を見下ろしていた。確かにそれは弟の目だったが、たたえた静かな感情は弟のそれではなかった。
「祐は、まだ眠ってるだけだって……オレ、言ったのに。先輩、オレの話、何も聞いてない」
 少し責めるように、拗ねるように彼は言った。そのまま視線を落として、彼は続ける。
「大丈夫。祐はそのうち目を覚ますよ。そしたら……オレは、この体から出てくから。大丈夫だよ、先輩。祐は、まだ眠ってるんだ。アイツ、ちょっと落ち込んでて、それで、先輩が心配してんのも知らないで、ぐーすか寝てんだよ。起きたくないって、駄々こねてるだけなんだ」
 最後にもう一度「大丈夫だよ」と繰り返して、彼はそっと恵の頭を撫でた。追いつかれた背は、それでもまだ追い抜かされてはいないけれど、ちょうど同じくらいの位置にある彼の目は伏せられてて見えなかった。
「…………ごめん」
 恵の目から、止まったはずの涙が再び溢れてくる。その涙は自分の弟のために流した涙じゃなかった。
 頭を優しくいたわるように撫でている彼の手が、かすかに震えているのに気付いてしまった。
 ああなんて自分は愚かなんだろう。
 目の前の彼がどんな気持ちで自分の前に立っているか、どうして考えなかったんだろう。
「ごめん、ごめん……ごめん、萩野クン」
 萩野章吾の手が止まる。
 震えはもう隠しようがなくて。何かを求めるように宙を彷徨った彼の手を、恵は強く掴んで自分の方へ引き寄せた。崩れるように倒れかけた彼を、よろめきながらも必死で抱きとめる。
「……ッ、なんで…」
 耳元で、弟の声が小さく叫んだ。
 もつれるように一緒に床へ座り込んで、萩野章吾は恵の肩を掴む。鈍い痛みが彼女に萩野の心を伝えてくる。
「なんで……オレ、こんな事になってんだろう……。祐は、どうして…眠ったままなんだろうッ。なんで、オレ、祐の体の中にいるんだろう……ッ、死んだはずなのに……オレ、自殺、した…はずなのに………オレ――……」
 言葉は途中で嗚咽に呑まれて掠れて消えた。
 声を立てずに泣く彼を、ただ抱きしめるしか出来ない自分が悔しかった。

 萩野章吾。
 弟の中学からの友達。
 本が大好きで、二人してよく静かに本を読んでいた。
 目が悪くて、分厚い眼鏡をしてた男の子。
 一ヶ月前、学校で飛び降り自殺した男の子。

「大丈夫……大丈夫だよ………」
 何が大丈夫なのか自分でも聞きたかったが、恵はずっと呪文のようにそれを繰り返した。
 萩野章吾は答えるでもなく、ただ彼女に抱かれて静かに泣いた。

 それが、その年の七月のことだった。
 もうすぐ、夏休みなるというその年のその月の、たった九日間このことを、私はきっと、一生忘れない。






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