「ある夏の昼下がり」


「なぜ貴方は、一所にじっとしていられないんですか」
 問いかけではなく、責めるような口調でリディスは言った。
 彼女の目の前にはこの国の宰相ラキアが木陰に横たわり、静かに寝息を立てている。
「起きて下さい」
「起きている」
 リディスの催促に驚くほどの速さで応答したということは、本当に寝ていなかったのだろう。「ならばなぜ」と続く言葉を心の中にしまったが、溜息は彼女の口から勝手に漏れてしまった。
 リディスがこの青年の護衛役に就いてから二週間ほどが経過していた。が、彼はたびたび護衛役であるはずのリディスの前から姿を消す。最初は自分の落ち度だと反省したリディスだったが、ここまでくると故意に姿を消しているとしか思えなかった。
 服に付いた葉やほこりをはたいているラキアを横目に、少女はあずかってきた伝言を抑揚の無い声で告げる。
「セラフィーさんから伝言です。まもなくアシュハルトの第一王子がお見えになるので、早く準備をしてくださいと」
「もてなしがいがない相手だがな」
 吐き捨てるようにラキアは言う。
 近頃アシュハルトには不穏な動きが見られる。それを民衆が肌で感じるほど、アシュハルトの動きは派手だった。

 このバベル帝国に王はいない。
 歴代皇帝とその血縁者は、神の血を受け継ぐ者達であるとされ人々に崇拝されていた。それが、ラキアの父が宰相の時に起こった内乱に巻き込まれ、神聖な皇家の血は途絶えてしまった。
 亡骸を発見できないほど王宮も荒れ果ててしまったあとで、民衆の心の支えになるはずの王の不在ははっきりいって致命的だった。
 だから王不在の帝国の新たな象徴とされたのが、代々宰相を務めているバシリスク家のラキアだったのだ。
 元をたどればこの一族も王家の遠縁ということもあり、大した民衆の反発も受けず現在の政治体制に至っている。つまり今回隣国アシュハルトの王子を迎えるのは、ラキア本人でなければならない。

 ふと、強い視線を感じて、ラキアはリディスを見上げた。
「……何だ?」
 目が合った途端リディスはきびすを返す。「時間がありません」と呟いて足早に歩き始めた。
「待て。何をそんなにじっと見てた?」
 ラキアは彼女を追いかける形で居心地の良い木陰を後にする。
「待てってば……リディス」
 名前を呼ばれてリディスは思わず立ち止まる。思えばラキアがリディスのことを名前で呼ぶのは初めてだったのだ。
 くるっと彼女が振り返ると、その銀色の髪が光に反射してキラキラ光った。
「大したことではありません。ただ、髪に葉っぱが付いていたので」
 最初から言っていれば何でもないことだったのにと、リディスは改めて自分の不器用さに嫌気がさす思いだった。面倒だからと黙っていたのが、さらに面倒な事態を引き起こしてしまったのだ。
「ああなんだ、そんなことか。…………取れたか?」
 適当に髪の毛をはたいたラキアが、視線を上げ確認する。とかしてあった髪が台無しになってしまったが、彼はあまり気にする様子はなかった。王子との会談前にもう一度とかし直さなければならないだろう。
「いいえ、もう少し右です。……ああ、私から見て右ということです」
「取れたか?」
「……い、―――はい、取れました。さあ、行きましょう」
「ちょっと待て! 今言いかけたのは何だ」
 ラキアにしても、いかにもサボってましたという姿で城に戻りたくはなかった。そんなことをしようものなら、執事のセラフィーの遠まわしな説教を食らう羽目になるのは目に見えていた。
 今にも歩き出しそうだったリディスの動作が止まり、一瞬の逡巡ののちに溜息まじりに振り向くと、諦めたような表情でラキアの目の前まで歩み寄る。
「取りますから、じっとしていて下さい」
 大人しく身をかがめたラキアの黒髪に、背伸びしたリディスがゆっくり手を伸ばした。見た目からは想像できない柔らかさに、思わず引っ込めそうになった手を何とか抑える。
 恐る恐る髪に手を触れ、すぐそこに見える緑の葉を取ろうとするのだが、どうも上手くいかなかった。どんな風に引っ掻き回せばここまで絡まることが出来るのかと、内心の文句をなんとか抑えてリディスは髪の毛をほどいていく。葉に手が届いてもなかなか取り除くことができず、そのうえこの沈黙に耐えられなかった彼女はとうとう口を開いた。
「先ほど変な風にいじくるから……取れないじゃないですかっ! どうしたらこんなに絡まるんです!?」
 初めて聞く焦った声の調子に違和感を覚え、ラキアが少し顔を上げる。
「あっ! いっ、今取れる所だったのに、……じっとしてて下さいと言ったじゃないですか!!」
 心なしかリディスの白い顔が赤く染まっているのを垣間見た気がして、ラキアの胸が妙にうずいた。額にかかる彼女の吐息になぜか動揺してしまう。そんな自分に気付き、彼は尚更あせった。
「取れましたよ!」
「本当に?」
「本当です! ほら」
 ラキアの手のひらに水気に欠けた葉っぱを押し付けると、リディスは今度こそ城へ向かって歩き出す。手渡された葉っぱをなぜか捨てる気になれず、胸のポケットに静かに入れると、ラキアも後を追った。


 ラキアの存在などまるきり無視した速さでリディスはずんずん先へ進んでいく。怒ったような、逃げるようなその背中を追いながら、ラキアは不意にたどり着いた答えに自分で苦笑した。
 どうやら彼女も「年頃の女の子」らしい。
 そんな当たり前の事実にいまさら気づく。


 彼女を護衛役に迎えたとき、ラキアはある覚悟を決めたはずだった。
 だというのに弱い心が知らず知らずの内に彼女を避けている。夜も眠れず、逃げたいという欲望は日に日にいや増している。
 我ながら情けないと思う。それでも彼女を、リディスを遠ざけることは自分には許されないのだ。

 彼の覚悟とは――――過去に犯した自らの報いを受ける覚悟だったのだから……。






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