「手放せないもの」


「綺麗な花ですね」
 テーブルの上に飾られている花を見ながら、アシュハルトの第一王子アゼルが言った。
 いかにも付け足したような感情を見せない口調に、部屋の雰囲気はより一層暗いものになっていく。
「ありがとうございます。貴方に誉めて頂けるなんて、花たちも喜ぶでしょう」
 向かいに座るラキアの言葉にしても、その笑顔とは裏腹に、到底心がこもっているとは思えない。

 二人の懇談の様子を細部にわたって記すことは可能だが、始終この調子であったので今回は省く。
 とにかく双方当たり障りのないことを話し、奥底にある敵意を惜しげもなく撒き散らしながら、地獄の二時間は終わりを告げた。

「セラフィー、アゼル様がお帰りになる。城門までお送りしろ」

 ドアを開け、外に控えていた執事のセラフィーに言いつける。「お帰りになる」の部分だけ少々誇張されていたように聞こえたのは、気のせいではないだろう。
 この執事の仕事は家の中のことだけに留まらず、宰相の秘書としての公務も果たしていた。剣の腕もなかなかなもので、リディスが来る前は護衛の役も兼ねていたというつわものである。
 いかにも無口そうな外見は他の者に恐れられていたが、ラキアは彼を怖いと感じたことは一度もない。
 セラフィーはラキアより二つ年上で、幼い頃から一緒にいたということもある。小さい頃から言葉数は少なかったが、こうまで無口になったのは執事という役を務め始めてからだったと思う。話す内容もいつしか公務のことばかりになってしまった。
 昔はもっと他愛のないことを話していたはずなのに、今ではそれさえ思い出せない。

「ラキア様、私がお送りしてもよろしいですか?」
 一瞬遠くへ行っていた思考を再び呼び起こしたのは、リディスの良く通る声であった。
「……ああ、構わないが」
 「なぜ?」と問おうとした言葉をすんでの所で飲み込む。理由なんてどうだっていいじゃないかと、問おうとした自分に言い聞かせた。粗相のないように注意をすれば、リディスは素直にうなずいた。
「ではアゼル王子、こちらへ」
 そう言うとリディスはアゼル王子を伴い、廊下の先へと姿を消す。
 すでに見えなくなったその姿の残像を、ラキアはしばらく見つめ続ける。「なぜ?」というどうでも良い疑問が頭から離れない。今まで彼女がこんな風に自分に口を出すことはなかったのだ。

「気になりますか?」
「え!?……いや、別に。女性はああいうのが好きなんだろ」
 滅多に私語をしないセラフィーの突然の問いにも驚いたが、それより自分で言った言葉に軽い嫉妬を覚えたことに焦る。
「どうだって良いさ、関係ない」
 わざと突き放すように呟くと、そのままラキアは緊急会議の開かれる場所へと足を向けた。





「で?」
「何が『で?』なんです?」
「……何か収穫はあったのか?」
「別に何も。……一瞬の不覚ならありましたけれど」
「何だそれは」
 その問いには答えずにリディスは歩き続けた。隣を歩く彼も別に答えを待っているわけではなさそうである。
 そのまま沈黙が二人の間を支配する。しかしそれは別段居心地の悪いものではなく、ごく自然なものであった。
 中郭を抜け城門までやって来ると、傍らの厩舎から厩番が一頭の馬を引き連れてくるのが見えた。馬はリディスの姿を見止めるとゆっくり寄ってきて彼女の胸に鼻をよせる。
「元気そうだね、ルヴィス」
 風にさらわれるほど小さな声で囁いてから、リディスは青年に向き直った。
「それではここで失礼します、気をつけてお帰り下さい」
「あぁ……リディス、お前も」
 門を守る衛兵が不審がらない程度の会話。言い終えるや否やアゼルはさっと馬に飛び乗りその場を後にした。馬を走らせるその姿はまたたく間に遠ざかる。
 もちろん一国の王子がたった一人で来たわけではない。馬車や従者は城門を抜けた所に停めてあるそうだ。馬に乗りたかったのだと言っていたが、この一時の会話の為にそうしたのではないかとリディスは思う。自惚れじゃないほんの少しの自信がある。
 馬車が来ていたらその従者達にはばかられて、きっと自分と言葉を交わすことは出来なかっただろう。
「さようなら、兄上」
 彼女もまた誰にも聞かれないようささやく。

 アゼルの後ろ姿がどんどん小さくなってゆく。彼は一度も振り返らない。
 やがて点となって消えてしまった空間をじっと見つめて、リディスは「さようなら」と呟いた。
 彼がこのタイミングで訪れたのが偶然には思えなかった。思いもかけず揺らいでしまった自分の心を戒めるためにアゼルは来たのではないだろうか。
 十一年。十一年だ。その間ずっと胸に秘めていた激しい想い。それがたった一瞬でも揺らぐなんて信じられなかった。それはつまり自分の存在意義の消失につながる。
 もう揺らぐわけにはいかなかった。

 ただ一つの、決して希望など見えることのない決意を抱え、リディスは守るべき主の元へと引き返した。






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