「追憶の中で君は」
ここはどこだろう。
のどかな田舎のあぜ道、舗装されていない砂利道が続いている。ふと足元に可愛らしい小さな花が咲いているのに気付き、何気なく手を伸ばす。
急に目の前がかげった。顔を上げるとそこには十歳過ぎ頃の少年が、こちらに背中を向けて立っている。
少年の目線を追うと馬車があった。いや……馬車だったものがあった。
車輪は外れて転がり、扉もひしゃげ、天井や側面は大破している。繋がれていた馬は馬車と一緒に横倒れになり、恐慌をきたしていた。あの分ではやがて死ぬだろう。冷静な頭がそう判断する。
目の前の少年は、自分の馬の手綱を震える手で握り締め、その惨状を大きく見開いた瞳で凝視していた。
馬車には人が乗っていたはずだ。
助けなくてはと足を前に出した時、ビチャッと嫌な音がした。
足元を見て、辺り一面に真赤な水溜りが出来ているのに気がつく。水溜りはどんどん広がっていく。馬車に近付くほど深さを増すそれに、反射的に歩みが止まった。
助けなくては……、そう思うのに足が進まない。鉛のように両足が重たい。
少女がいた。まだ幼い少女。血溜まりの中にポツンと所在無げに座っている。
少女がこちらを振り返る。自分を見ている。
さっと小さな瞳に深い深い憎しみが宿った。
――なぜ? なぜそんな目で俺を見る?
一瞬の瞬きの間に少年も少女も消え、辺りが闇におおわれた。
「死んでちょうだい」
いきなり触れ合うほど近くに現れた顔が、狂気の笑みを浮かべる。腹部にどこか鈍い痛みを感じて視線を移すと、女の白い手にしっかりと握られた短剣が自分の腹に刺さっていた。
――なぜ?
「『なぜ』ですって? まさか貴方が私にしたことを忘れたなんて言わないわよね。ねぇ……ラキア宰相殿?」
妖しい笑みを浮かべたまま、女は短剣を更に奥へと抉るようにして突き出す。そのあまりの激痛にラキアは呻いた。
「俺は…、俺は君に―――」
「―――っ!!」
がばっと上体を起こし、今まで寝ていたとは思えないほどの荒い呼吸を繰り返す。大きく見開いた目が見慣れた壁や調度品の数々を映し、自覚する。
そう、ここは自分の寝室だ。自分の寝室の、自分の寝台に寝ているのだ。
まるで呪文のように繰り返し、ドクドクと脈打つ鼓動を鎮めようとした。
すがれる何かを求めるように視線は宙をさ迷い、やがて部屋の隅の扉に注がれる。その扉の向こうには彼女が……リディスが眠っているはずだ。見てはいけないものを見てしまった者のように、ラキアはすぐに目を伏せた。
彼女がここに来てからというもの、ろくに寝られない日が続いている。毎夜のように悪夢が彼を襲い、鍵をかけて閉じ込めていた罪の意識を解き放つ。
忘れることは許されない。
ようやく落ち着いてきた呼吸と鼓動を確かめ、もう一度寝台に深く身を沈めた。
夢に出てきた女の顔と、隣の部屋で寝ているはずのリディスの顔を重ね合わせる。夢の女はリディスの顔をしていた。
「彼女はあんな顔はすまい……」
時折見せる少女らしい表情を思い出し、自らの罪悪感が見せたリディスの幻影を否定する。だが彼女にはあんな顔をする権利はある。あんな風に自分を殺す権利もある。
夢に見たのどかな風景は帝国の昔の姿。あのあぜ道は自分が初めて馬で遠出をした時の道。
そしてあの馬車は…あの血は……。
あの少女は―――。
ラキアは寝返りを打って襲ってくる睡魔に身を任せた。
――あの少女は……君だ…。