「Shall we dance?」
確かに女性たちはみんな着飾っていた。だが先刻のドレスはこの中でも一際目立ったであろう。
あのまま着て来なくて良かったと、リディスは自分の選択の正しさにうなづく。
「似合ってたのに」
挨拶に来た男との世間話を終え彼女の側に立つと、いかにも残念そうにラキアが呟いた。
「百歩譲って似合ってたとしても、ここであんな格好したら目立ちます」
「綺麗なものが目立って何が悪い」
反射的に口をついて出て来てしまった言葉に、ラキアはしまったと思ったがもう遅かった。「ドレスが」と意味もなく心の中で呟く。
彼女がいつも通りに切り返してくれればと期待混じりに左を見れば、リディスは顔を真っ赤にして差し出されたお菓子をほお張っているところだった。
やはりこういう所は普通の女の子だ。むしろさらりとかわせない分、貴族の女性より初々しい。
先刻のドレス程ではないが、今着ているドレスもなかなか似合っていた。青に統一されたドレスは派手すぎず、かと言って地味でもない。彼女の魅力を引き出すのに充分な役割を果たしている。
ふと、他の女性たちと違って、隣の少女のドレスにおよそ広がりといえるものがないのに気付く。
「……なんでお前のドレスだけ…」
その先の言葉をどう表現して良いか考えあぐねていると、こちらに背を向けていた少女がくるりと振り返る。今しがた食べ終わったばかりの菓子のくずが、口元についていた。取ってやろうと無意識に伸ばしかけた手を、すんでの所でラキアの理性が押し留めた。少女が気付いてないのに内心ほっとする。
「これですか? パニエ・ダブルってご存知ですか? それ使うとあんな風にふわってなるみたいですよ。でも、動きにくいので私は使ってないですけど」
よく知っているように少女は語ったが、その名称を知ったのは実はついさっきで、教えてくれたのはセラフィーだった。
「……変ですか?」
何かに思い至ったように、不安げにリディスが訊ねる。その様子にラキアは慌てて
「いや、いや違うんだ。あー……似あってる、よく」
我ながら、なぜこんな時に限って気の利いた一言が出てこないのか不思議だった。「似合っている」、その言葉は本心なのだが、リディスはそうは捉えなかったようで、苦笑を浮かべて再びラキアに背を向けた。
しまったと思いながらもそれ以上どうすることも出来ずに、ラキアはリディスの後姿を見やる。似合っているのは本当で、腰から足首まですとんと落ちた青いドレスは、むしろ彼女の細い腰やすらりと伸びた長い足をよく際立たせていた。
肩口までしかない袖から出る白い腕も、開いた胸元に見える鎖骨も男を魅了するには充分すぎるものである。それに加えて見事な銀髪。触れればさらさらと音を立てて指の間を流れていくのが容易に想像できた。
でもラキアが魅せられたのはそのどれでもなかった。吸い込まれるような真紅の瞳が、彼を捕らえて離さない。
その瞳が自分に向けられはしないかと、いつの間にか彼女を目で追ってしまっている。彼女に熱い視線を向ける男たちに殺意を覚え、自分も同じじゃないかと……いや彼ら以下だと自嘲気味に笑った。
この時もし、彼の目が彼女から離れ、もう少し広間を見渡していたら……、あるいはこれから起こることは避けられたかも知れない。
だがあいにく彼はセラフィーに声を掛けられるまで、その瞳にリディスしか映していなかった。
「どうかしましたか? ラキア様」
耳元でささやかれた声に心ここにあらずだったラキアは心底驚く。振り返って見て見ればセラフィーが意味あり気に微笑をたたえていた。
「別に……見てたわけじゃ――」
「誰もそんなこと訊いてませんが。そうですか、見てたんですね」
いかにも初めて知ったという風にセラフィーが驚いてみせる。
「お前……」
眉間にしわを寄せたままラキアは絶句した。こういう奴だったろうかと、過去の記憶と照合する。
――あぁ……そういえばこういう奴だったか。
導き出した結論に妙な納得を覚え、どこかで違えてしまった彼への評価を修正した。
「何か用があるんじゃないのか?」
「あ、そうでした。そろそろご挨拶を」
リディスから目を離してセラフィーは自分の懐中時計を指差した。もう夜会に出席するべき者たちのほとんどが揃ったはずだ。主催者であるラキアは挨拶をしなければならない。
今夜の夜会の目的。それはこの帝国の守護女神イシスを祝うことである。
元々帝国の歴代王族とその血縁者は女神イシスの血を受け継ぐ者たちであるとされて来た。今ではその言い伝えを鵜呑みにしている者はごく少数となったが、その血を汲む者は依然として強い崇拝を集めている。
いや、崇拝というより畏怖かも知れない。その盲目の信仰心のせいで、先の内戦で皇族がことごとく殺された際、民衆の不安は最高潮に高まった。
この時まだラキアは五歳で記憶はおぼろげであるが、「災害が訪れる」「帝国は滅びる」「疫病が流行る」、そういった噂が後を立たなかったらしい。
実際その中の一つは当たっていた。
その年は降水量が膨大で、しかも森を切り開いて木を切り倒しすぎていたこともあり、彼に言わせれば「当然のこと」だったのだが当時の大洪水を民衆は天罰だと大いに恐れた。
とにかくそういう理由から、元をたどれば皇族の血縁者であるバシリスク家に白羽の矢が立つ。
代々バシリスク家は帝国の宰相を務めていた。バベルは能力主義だったのだが、期待を裏切らない働きをするバシリスク一族を代々登用してきた。
だが既にラキアの父もその内戦で死んでいて、目ぼしい者はラキアとその叔父しかいない。この叔父は欲目のない人で、自分では駄目だと頑として受け入れなかった。確かに外見上その皇族の血が多大に影響しているのはどう見てもラキアのほうだったし、成長するまでは叔父が後見人になるということで話はまとまる。
「皇族の血縁者ラキア」、その存在を与えられ民衆は鎮まった。五歳の少年のほんの少しの自由と引き換えに。
さて、その偉大で頼れる叔父も九年前に四十一歳の若さで亡くなる。毒殺であった。当時十四歳になっていたラキアは名実ともに宰相として国王の役割を果たすことになり、今に至る。
今年は女神イシスがこの世に生誕して五千年目だそうで――誰が決めたかは定かではないが――国民のムードを高めるためにも大規模な祝典が用意されていた。
この夜会は一般民衆の上に立つ貴族たちに、その旨を理解してもらうために開かれたのだ。
ラキアが大広間の階段をゆっくり上り始めると、賑わっていた人々が水を打ったように静まり返る。リディスは階段の下に控えながら、彼の後ろ姿をじっと見つめていた。
女たちの(男もいるかも知れない)うっとりしたような感嘆の溜息が重なり合い、一つの楽器のように音を奏でる。
ラキアが赤絨毯のひかれた階段の中途で歩みを止め、振り返ったその時だった。
絹を切り裂くような甲高い女性の悲鳴が一つ。
続いて二度三度、そして金切り声は何重にも重なって不協和音を奏で始める。
言いようのない正体不明の不安が伝染し、意味も分からず人々が慌てる。
リディスの両目が騒ぎの中心を鋭く捉えた。
中心は台風の目のようにそこだけ人を近付けずに真っ直ぐラキアのいる階段へ向かっている。
「ラキア様! このドレス、大切なものですか?」
ついには男性の低い声まで混ざり始めた不協和音に負けないように、リディスは声を張り上げて言った。その声は少しも焦っておらず、その目は向かってくる台風の目に注がれていた。
リディスの質問に一瞬思考が停止したラキアも、すぐに了解したとばかりに笑う。
「思う存分汚してくれて構わない!」
もう台風の目は人の群れが途切れるすぐそこまで迫っている。
リディスはスカートの裾を両手で掴んで思いきり裂いた。
裂け目の端がかなり上まで来た所で手を離し、裂け目から見えたベルトの鞘から細身のナイフを取り、逆手に握る。
次の瞬間、人垣が割れた。
―――五人。
リディスが飛び出す。
先頭を長剣を持って駆けて来ていた男がリディスを見た―――と思った。
人々は青い塊が宙を飛んでいるのを見た。
リディスは空中でナイフを構える。
男が背後に寒気を感じた時にはもう遅かった。
右肩に激痛が走り刀を取り落とす。
拾おうとして手を伸ばした時に、今度は意識を取り落とした。
たった今男を蹴った足が床につくや否やリディスは後ろを振り返る。銀の髪が光を反射して見る者の目を刺した。
―――あと四人。
続けて二人の男が飛び出る。
倒れている最初の男を見、次にリディスを見て片方がにたりと下卑た笑いを浮かべる。
もう一方の男に目配せし、彼女をゆっくりと囲む。
一本の剣が大きく振り上げられた。
リディスは「遅い」と呟いて男の剣を持つ腕を掌底で突き上げる。
と同時に身を落とすと、勢いの乗った回し蹴りが男の首の付け根に入った。
男が倒れる。
その間後ろに迫っていた男が剣を振り下ろす時にはリディスはそこにいなかった。
横へ飛びのいた彼女の手刀が男のうなじを狙い、男は声も無く沈んだ。
―――あと二人。
背後に殺気を感じてリディスは飛びずさる。
いかにも武人といった様子の男が、一瞬前までリディスがいたところに剣を突き立てていた。
視界の隅にもう一人の男の存在を見止める。
こっちのは後だ。
男は剣を持ち直してリディスと向き合う。
リディスもナイフを構え直す。
男が駆けた。
リディスも駆ける。
相手が剣を振り下ろすより一瞬速く、リディスが横へ体を反らす。
男は止まれない。
彼女の蹴りが男のうなじに勢い良く振り下ろされ、彼は床に沈んだ。
―――あと……。
沈んだはずの男は、辛うじて立ち上がりその剣を大上段に構え、振り下ろした。
それを見てリディスはナイフを捨てた。
ガキンッと剣がぶつかり合う音がする。
男の剣が宙を舞う。
リディスの手には敵の男の剣が握られていた。
それを相手の右肩に深く突き刺す。
剣が刺さったまま男は床に倒れる。
―――あと一人。
ただ一人残され、怯えきった表情の男は、リディスの手に何も握られてないことに余裕を取り戻す。
剣を振りかぶったまま駆けてくる。
あと一歩で彼の間合いに少女を捕らえることが出来た。
だが男はその一歩を踏み出せなかった。
額に汗がにじむ。
「終わりですよ」
リディスの手には先ほど宙に舞ったはずの剣があり、切っ先は男の喉にかすかに触れていた。
全ての招かれざる客を倒すのに要した時間は一分にも満たなかった。
しばらく沈黙が続いた。その沈黙はラキアが現れた時のものとは明らかに違うもの。
やがて男が剣を取り落とし、床に転がるその音が大広間全体に響き渡る。
「ラキア様、お怪我は?」
怪我も何も無いだろう。そこにたどり着く前に彼女が全て片付けてしまったのだから。
だがその一言は沈黙の呪縛を解く鍵となる。
大広間が異様な雰囲気に包まれる。歓声、賞賛、恐怖、非難……。どの意味にも取れ、どの意味にも当てはまらないざわめきが波紋のように広がった。
あまりのことに手出し出来ずにいた衛兵たちが、騒ぎを起こした男たちを引き立てて行く。両手があいたリディスは乱れた呼吸を整えると、まるで何事もなかったように自らのナイフを鞘に納めた。
大広間に集ったどの顔にも、リディスへのいささかぶしつけな興味の色が見て取れる。
引き裂かれた藍のドレスから垣間見える白くすらっと伸びた足。返り血に濡れる手、あれだけ動き回ったとは思えない、元のまま流れる銀の髪。
そして敵と呼ばれる者がいなくなった今も、その鋭さを失っていない血の様に真っ赤な瞳。
それはラキアが最終試験のとき見た彼女とはまた違っていた。
あの時彼女はさながら死神だった。自分の命を狩りにきた死神にしか見えなかった。
でも今は違う。さながらその姿は闘神、闘いの女神のよう。ちょうど女神イシスを称えた夜会だったためか、「イシスの生まれ変わり」だと言う者まで現れる始末。
リディスに注がれる好奇の視線に真っ先に耐えられなくなったのは、当の本人ではなくラキアだった。上った時には想像できないほど足早に階段を駆け下りていたその時――……
「リディ………っ!!」
最初に倒した男だった。おそらく衛兵の誰かの剣だろう。それを掴んで真っ直ぐリディスに切りかかる。
気付いたら体が動いていた。振り下ろされるはずの剣の軌道には、リディスではなくラキアの体があった。
背後でリディスの叫ぶ声が鼓膜に痛い。
キンッと剣が弾かれる音がした。
男の剣はラキアの体に触れる前に弾き飛ぶ。
セラフィーの剣だった。
ラキアの背後にいたはずのリディスが弾かれた剣を空中で手に取り、男の首めがけて剣を横薙ぐ。
「やめろ!!」
「…………。」
ラキアの声が静かな大広間にこだます。
刃が首に触れ、プツリという嫌な音とともに紅い血が細く流れ出した。
「やめろ」
もう一度、今度は有無を言わさぬ厳しい声音。
「……………っ」
ゴキッと骨に当たる音がして男が倒れる。リディスの拳が男の顔から離れた。
宰相の身が直接危険に晒されたことで、招待客の不安が一気に巻き上がる。
「皆さん!」
ラキアのたった一言に騒ぎ始めた大広間が静まり返った。それを確認して彼は言葉を続ける。背後にリディスをかばいながら、ラキアの余裕のある声が広間に響いた。
「皆さん、余興は楽しんで頂けましたか? 彼女は私の護衛をしてくれているリディス・ゾルディック。今ので私も充分彼女の強さが分かり、頼もしい限りです。ですが、さすがにこの格好では礼に欠けますので、今から少々着替えて参ります。どうぞ先に夜会を楽しんでいて下さい」
ラキアは仕上げににっこりと男女共に魅了するような完璧な微笑を残し、リディスを引っ張り扉の向こうに消えた。
当然これが余興ではないことくらい皆分かっている。それでも、ここまでにこやかにラキアに言われては、詮索する者もさすがにいない。
「セラフィー」
去る前に執事に小声でささやき、言われた相手も小さくうなづく。それだけでお互い何が言いたいかが分かった。
「さぁ、皆さん。お騒がせしまして申し訳ありませんでした。我らが宰相ラキア様がお戻りになるまでダンスでもいかがですか?」
セラフィーが言うと同時に曲が始まり、大広間はたちまち「夜会」に戻った。
「リディス、怪我は? いや、取り合えずそのドレスを何とかするか……」
大広間で流れる曲を遠くに聞きながら、二人はリディスがドレスを選んだあの部屋に取り合えず落ち着いた。
「これでいいか?」
言いながら適当なドレスをラキアは広げて見せた。だが、彼女はそっちを見てはいない。
「リディス?」
不審に思って出しかけた手を、リディスがパシッと払った。ラキアがその紫の目を見開く。
「ドレスは………もう着ませんから。いつもの服で充分です!」
声を荒げて言う、その怒ったような苦しそうな口調は、彼が初めて見る「リディス」だった。
「何を……怒っているんだ? 大事に至らなかったのは君のおか――」
「えぇ! そうですよ!! 護るべき人にかばわれて、挙句にその人の身を敵の剣に晒した馬鹿な護衛役の私のおかげです!!」
キッとその瞳に涙を滲ませながらリディスは叫んだ。責める口調とは裏腹に、その声音には悲痛なものが含まれている。
あの時自分がかばわなくとも、リディス自身かあるいはセラフィーにかかれば、あんな男一人どうとでもなっただろう。自分でも馬鹿なことをしたと思う。ただ足手まといになっただけで、その上彼女を苦しませてしまった。
だけどあの時は体が勝手に動いてしまったのだ。彼女を失うかも知れないと頭によぎった瞬間には体が勝手に動いてしまっていた。
「……悪かった。でも――」
「でも、も何もありませんっ。今度私を護ろうと何かしたらただじゃおきませんからね!!」
「…しっ、仕方ないじゃないか! 体が勝手に動いたんだ。身近にいる者を守りたいと思って何が悪い!!」
「えぇ、悪いですよ! 貴方は宰相で、私は護衛役なんだから、貴方はただ護られてれば良いんです!」
「なっ……、それで君が大怪我したりするのを黙って見てろと言うのか!?」
「そうですよ! それが貴方の義務なんだから」
「義務だとか今はそんな話をしているわけじゃないだろ。一人の男としてそんな事は出来ない!!」
「一人の男? 何を我がまま言ってるんです!?………この…馬鹿宰相!!!」
「ばっ……馬鹿宰相だと? ……こっの分からず屋っ!!」
「何ですって!? 分からず屋は貴方の方です!!」
燃えるような真っ赤な瞳と、深い深い紫の瞳が、相手を射殺しそうなほどの気迫で睨み合う。
二人とも相手には言えない秘密を抱え、それゆえに上手く伝わらない想いに歯噛みする気持ちだけは同じだが、それを知るよしはない。
互いが互いの瞳から目を離せずに戸惑いの色が見え始めた時だった。
「何をしてるんです? 皆さんお待ちかねですよ、バベル帝国の宰相と、女神イシスの生まれ変わりを」
弾かれるように開けっ放しの戸口を見れば、セラフィーが意味ありげな笑いを浮かべて二人を待っていた。