ハッシュアバイ、赤ちゃん
木の上で
風が吹いたら
ゆりかご ゆれる
枝が折れたら
ゆりかご落ちる
赤ちゃん、ゆりかご、みな落ちる


 あの日のゾルディック夫妻は、いつもののほほんとした雰囲気を微塵も見せずに酷く焦っていたのを、当時七歳だったリディスは記憶している。


「赤い記憶」


 まるで何かに追われているようだった。
 家財道具はもちろん、着る物や貴重品さえも持たずに家を出た。
「おとうさん、どこに行くの?」
 事情は飲み込めないが、両親の焦る様子に自分も不安になった少女が心細そうに呟く。
「ちょっと旅行に出掛けるよ。リディ、前に海を見たいと言ってただろう?」
 男と言うには少し細身過ぎる体に、黒い長髪を無造作に結わえているゾルディック氏は、悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
 父親のいつもの笑顔に少女の可愛らしい緊張はたやすくほぐれ、満面の笑みでまだ見ぬ「海」を心に描く。
 そんな娘を少し哀しそうに見つめていた彼は、妻の呼ぶ声に我にかえり、荷物を馬車に積む作業を再開した。
「リディ、ちょっと来て」
 夫人は努めて冷静にいつも通りの声音を装い、少女を手招きする。栗色の髪を結い上げ質素な服に身を包んだ彼女は、ぎこちない笑みを必死で顔に貼り付けた。
「なぁに? おかあさん」
 無邪気な笑顔で少女は母親に駆け寄る。
「リディ、リディ、良く聞いてちょうだい。今から大切なことを話すの。とっても大切なことなのよ?」
 その滅多に見せない真剣な表情に、幼い少女もその小さな顔に真面目な表情を浮かべる。それを見とめた夫人が唇の端をわずかに持ち上げた。
「リディ、これを見て。これはすっごく大切な物なの。今からこれをリディに預けるわ。誰にも見せちゃだめ、誰にも言っちゃだめ。私とお父さんとリディだけの内緒にしてちょうだい、約束よ。リディなら出来るわよね?」
 開かれた手のひらに光る青い綺麗な指輪を見て、少女はほうと溜息をついた。それからすぐにまた真面目な顔になると、「出来るよ」と自信を持って答える。
「じゃぁ、リディ。これを首から掛けて……そう。いい? 絶対に誰にも見せちゃだめよ? 約束よ? これは内緒の指輪なんだからね」
 母親は少女の首に紐を通した指輪を掛けてやりながら、まだ不安を隠せずに小さな顔を覗き込む。
「リディ、出来るよ。もう一人で夜トイレに行けるし、おつかいにも行けるし、………それにピーマンも食べれるもん! リディ、やくそくも出来るよ」
 「出来る」と言ったのに何度も確認して来る母親に少しむっとしながら、少女は小さな体で精いっぱい主張した。
「そうね、リディなら大丈夫ね。……でも嘘はいけないわ。ピーマンはまだ食べられないでしょう?」
「食べれるもん!!」
「じゃあ、今日の夕飯はピーマン料理にしちゃおっと」
「えぇーっ!? やだやだ」
「あれれ? リディはピーマン好きなんじゃなかったっけ?」
「嫌いだもんっ!」
 顔を真っ赤にして自分の後を付いて来る娘を、どうかその災厄からお救い下さいと、夫人は切実にこの帝国の守護神、女神イシスに祈った。
 そう、たった今少女の細い首に掛けられたばかりの青い指輪に刻まれている、女神イシスに。
「準備が出来た、行くぞ! 早く乗らないと追いてっちゃうぞー!」
「追いてっちゃったら何のための……旅行だか分からないでしょう」
 夫人は呆れて笑いながら、質素なその馬車に少女を先に入れてやる。
 ゾルディック氏は二人が乗ったのを確認し、馬を走らせた。あと四時間ほどでこの辺は暗闇に包まれるだろう。日が落ちてからの馬車は危ない。その前に少しでも遠くへ行かなければならなかった。
 馬の手綱を握る手にじわっと汗が滲んだ。


 三時間ほど経った頃だろうか。猛スピードで走る馬車の雰囲気にはどうあっても似合わないような、のどかな田舎のあぜ道に差し掛かった。
 周りには全く人影がない。あるのはボロボロのかかしくらいだった。
「ちょっと揺れるからなー。振り落とされないように何かにつかまってろよ」
 焦燥を必死に抑えているのが夫人には分かった。かれこれ十四年の付き合いである、お互いのことは大体お見通しだ。
 夫人は傍らで自分の膝を枕にして寝ている少女の頭を撫でながら、その襟元からはみ出ていた指輪を服の中に入れてやる。かすかに震える唇から、毎夜唄ってやったお決まりの子守唄がこぼれる。か細い音が、少しでも緊張を和らげてくれるのを期待しながら、彼女は唄う。

ハッシュアバイ、赤ちゃん
お前のゆりかご緑色
お父さんは王様
お母さんはお妃様
お姉さんは金の指輪をして、
お兄さんは王様の……

 「あ」と呟くような、勝手に口から漏れ出てしまったような短い一言が御者台から聞こえ、ゾルディック夫人は夫の後ろ姿を見た。
 彼女が自分の夫を見たのはそれが最後だった。死後の世界が本当に存在し、ゾルディック氏と会えるならまた別の話だが………。
 とにかく夫人は一瞬にして嵐の海へ投げ出されたような馬車の中で訳の分からぬ恐怖に怯えながらも、その腕でしっかりと少女を抱きしめた。
 馬車が横倒しになり、車輪が外れ、扉や天井などが襲ってきても、夫人の腕が少女から離れることはなかった。


 大きな物音と、押し潰されそうな強い圧迫感で少女は目覚めた。
 最初に感じたのは嗅いだことがないむせ返るようなにおい。続いて辺りが真っ暗なことを不審に思う。
 鼻をくんくん言わせたが何のにおいだかは分からない。
 仕方なく隣にいたはずの母親にきこうと思ったのだが、……見つからない。
 それどころか自分がどこにいるのかさえ分からなかった。
 確か馬車の中にいたはずなのだ。隣には母親がいたはずなのだ。そして今は夕方のはずで、外はまだ明るいはずで………。
 とうとう圧迫に耐えられなくなり、少女はもぞもぞと動き出した。取り合えず「ここ」から出よう。
 一つやる事が決まればあとは簡単だった。手と足を使って自分に被さっていた「何か」をどけ、目の端に捉えた光の方へ移動する。
 狭いトンネルを小さい体で器用にくぐると光の中へ少女は出た。
 地面に立って今しがた自分が出てきた所を振り返ってみると、どうも扉じゃないらしい。
 屋根だった。
 そう、でこぼこになった屋根と馬車との隙間から出てきたのだ。
 ふと視線を足元に移せば、人間の足――父親と同じ靴を履いている足だ――が馬車の下から伸びている。
 父親と同じ靴を履いているその足をじっと見ていると、やがて馬車の下から赤い液体が広がりたちまち赤い水溜りが出来る。
 そこまで来てやっと、少女は今自分が置かれている状況と、両親の置かれている状況を自覚した。
 その置かれている状況が自分と両親とでは全く違うことも自覚する。
「おとうさん? ねぇ、たいへんだよ。馬車が……たおれちゃった。早くおかあさんを助けないと………ねぇ、おとうさんっ!」
 母親がどこにいるかも少女には既に分かっていた。
 そして先程の圧迫感の正体も分かっていた。
 何もかも分かっていた。
 それでも何もかも認めることは出来なかった。
 母親を救うため、自分が這い出てきた隙間からもう一度馬車の中に入ろうとした時、馬車を引いていた二頭の馬が暴れ出す。
 本当はさっきから暴れていたのだが、少女に気付く余裕はなかったのだから仕方ない。
 暴れ出した馬はかろうじてあぜ道に留まっていた馬車を道連れにして田んぼに落ちた。
 馬車の屋根は田んぼに埋まった。
 少女は呆然とそこに立っていた。
 そして遥か地平線に日が落ちようとした時に初めて、背後にいる少年の存在に気付く。
 少年も同じように立ち尽くしている。自分の馬の手綱を握り締めて立ち尽くしている。  違うのはその体が酷く震えていることと、恐怖に怯えた表情だけ。
 少女と目が合うと、少年は二歩、三歩と後ずさり、蒼白な顔からますます血の気が引いていった。
「ねぇ……おとうさんとおかあさんを助けるの、手伝ってよ」
 掠れて上手く出てこない声で少女が言う。
 少年はまた一歩後ずさり、危うく田んぼに落ちそうになった。
「ねぇ…お願い。このままじゃ……」
 蛇に睨まれた蛙のように、いやそれ以上に恐怖に引きつった顔でになりながらも、少年は少女から目が離せないでいた。
「僕の……僕のせいじゃ…僕のせいじゃ……」
 しかし少年は最後まで言わずに無我夢中で自分の馬に跨ると、言葉にならない何かを叫びながら馬車が元来た方角へと猛然と疾駆して行って、やがて消えた。
「へんな子」
 少女は父親の方へ歩み寄った。足元で赤い液体がぴちゃぴちゃ耳障りな音を立てる。
 父親の傍らの水溜りに腰を下ろし、深呼吸をする。
 何か困ったことがあっても深呼吸をすれば落ち着くんだと、昔父親が言っていた。深呼吸し過ぎてむせてしまった父親の照れ笑いを思い出す。
 少女はもう何をすればいいのかも、どこに行けばいいのかも、今どんな顔をするべきなのかも分からなかった。

 やがて辺りが闇に包まれて何も見えなくなったというのに、その闇よりも暗い漆黒の服を着た男が現れた。男はしばらく何も言わず、ただ視線だけを無残な馬車の残骸に向けていた。とうとう地面にへたり込んでいる少女に目を移して、静かに言った。
「私と一緒に来なさい。キースは死んだ。アンも死んだ。生き残ったのは君だけだ、リディス嬢」
 少女の頭が弾かれたように上へ向き、男の目と合う。
 呼ばれた二つの名前は両親が互いを呼ぶ時に使っていたものだった。
「……おとうさんとおかあさんを知ってるの?」
 赤い瞳が大きく見開き、疑いを知らない純粋な輝きを放つ。
「あぁ、ずいぶん前から良く知ってるよ。友達だった……」
「じゃあ、おとうさんとおかあさんを助けてあげて」
「残念だがそれは出来ない。キースもアンも遠くへいってしまったから」
 黒い男は深い悔しさの中に悲しみの色を滲ませる。
 とても演技には聞こえなかった。歪んだ眉や、悲痛な色をたたえた瞳が少女を安心させた。信じても大丈夫だと。そして信じるということは両親が遠くへいったことを認めることでもあった。
「そう……じゃあ私も連れて行ってよ。一人はいや、寂しいもの」
「それも出来ない。なぜなら私は、彼らに何かあったら君を代わりに守るとお父さんと約束してしまったんだ」
「おとうさんと? そう……『やくそく』は…守らないとだめなのよ」
 首から掛けられた物の異物感を確かめながら、少女は言った。
「私に約束を守らせてもらえるかな?」
「…………うん」
 安心したように男は大きく息を吐き出すと、その無骨な手を少女へと伸ばした。
 少女のまだ小さな手が、その手に音もなく重ねられた。



 夜もふけて、月明かりだけが照らすあぜ道を一匹の馬が主人を乗せて静かに走ってきた。
 少年は馬から降り、震える手でランプに明かりを灯す。
 悪い夢だと思いたかったのに、目の前にある黒い塊と赤い水溜りがそれをさせない。
 明かりをかざして少年は「少女」を探した。
 しかしどこを見回しても少女はいない。それに……死体も、ない。
 馬車の扉が壊されているのを見つけ、むせ返るような血の臭いを我慢し覗き込む。
 何もなかった。
 少女は「お父さんとお母さん」と言ったはず。
 「お父さん」は自分が飛び出したときに御者台に座っていた男の人だろう。
 彼は急に飛び出した自分を避けようとして………。
 そうだ、確かに「お母さん」は馬車の中にいたはずだ。
 でも今視界で捉えられるものの中に「お母さん」はいない。加えて貴重品と思しきものも一切なかった。
 ―――誰かが連れて行った?………それとも。
 死者を侮辱する様々な行為が一瞬で頭に巡り、かき消える。
 少年はただ後悔した。自分の今日の行い全てを後悔した。
 もし今日、馬で遠乗りするなんて言い出さなければ、
 そしてそれが初めてでなければ。
 もしこの道を通らなければ。
 もしあんなに速く走っていなければ。
 もしもっと早く方向転換できてれば。
 もしあの時少女だけでも助けてれば。
 ………もし、自らの保身を考えていなければ――。
 もう遅い、もう遅い。何もかも遅すぎるぞ、ラキア・バシリスク。
 お前は一生後悔しながら生きるんだ。
 一生あの子の赤い瞳に責められながら生きるんだ。
 毎日夢に見るだろう。毎日罪悪感にさいなまれるだろう。
 だがそれはお前が引き起こしたことだ。お前のせいであの子の両親は死んだ。
 そしてあの時逃げ出さずにあの少女だけでも助けていれば……、そうすれば彼女に恨まれて行き場のないこの後悔の気持ちを向ける相手を得られたのに。
 あるいは償うことだって出来たかもしれないのに。
 もう遅い、……もう遅い………。
 少年は今すぐ罰せられたかった。
 罰してくれる存在がないのなら自分で罰しても構わなかった。
 今すぐこの心臓を腰にある剣で貫いてしまいたかった。
 だけどそれは出来ない。
 なぜなら彼の肩には「バベル帝国」という巨大な重荷が掛かっていたから。
 今ラキア・バシリスクという存在をなくすわけにはいかなかった。
 鉛のような足取りで、少年は馬へと向かった。


 彼が心から望んだ存在、罰を与えてくれる赤い瞳とは、これから十一年後に再会する。





ハッシュアバイ、赤ちゃん
ゆりかごゆれても
大丈夫よ
ママがそばにいるからね
あっちへゆらゆら こっちへゆらゆら
ハッシュアバイ、赤ちゃん






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