まだ昼過ぎだと言うのに夏の空は厚い灰色の雲に覆われ、今にも泣き出しそうだった。


「それでも、もう…」


 ラキアの書斎は一階にあり、庭に面する壁は大部分がガラス張りになっている。
 もちろんカーテンは取り付けてあるが、そこの庭を通る人は全くと言って良いほどいないので大体開けっ放しだ。
 嵐になるな…、とリディスは外を見ながら思った。
 一面灰色に覆われていても、良く目を凝らせばそれらの雲は猛スピードで視界から消え失せるのが分かる。そしてまた新たな雲が押し寄せられて来る。
 ガラスの窓が嵐の来訪を告げるように先程から小刻みにガタガタ揺れていた。そのまま視線を、窓を背に仕事机に向かっている彼女の主へと移す。
 部屋の中が暗い。
 光が足りない、というわけではない。確かに憂鬱な天気が全く関係していないわけでもないが。そうではなくて部屋の「雰囲気」が暗いのだ。
 二人の周りは静寂に包まれていた。ここにはラキアが書類にペンを走らせている音しかない。
 その静寂もただ静かなだけではなく、お互いがお互いに渦巻くような感情を抱き、それでも必死に押さえているような静寂だ。しかし二人にそれを知る術は無い。
 鬼気迫るものが二人を包んでいた。
 沈黙を破って要らぬ関心を買わぬよう、心の中だけでリディスは盛大な溜息をつく。先日の夜会騒動の時から一週間、ずっとこの調子である。
 あの一件のせいで認めたくもない自分の心の変化に気付いてしまった。多分、気づかないでいられた前のようには振舞えないから、正直ただ立っているだけで良いこの状況はありがたい。
 俯き加減で書類に目を通しサインをしているラキアに気取られないよう、その横顔を覗き見る。

 あの日の少年は泣きたくなるくらい良い人だった。
 遠くから見た時はあんなに幸せそうに見えたのに、近くで見てみるとそうでもない。むしろ毎日毎日辛そうだった。まるで何かに追われるように、時々自虐的なようにさえリディスの目には映った。
 何が彼をそうまでさせているのだろう? 追われるような忙しい日々? それとも……いや、ありえない。
 彼があの事故のことを覚えていて未だに罪悪感に駆られているなんてありえない。
 あってはいけない。
 そんな事知ってしまったら……私は、彼を、憎めなくなる。
 憎めなくなることが怖いのではない、そのせいで自分の生きる意味や居場所をなくすことが怖い。八歳のあの日「復讐」を決意して、その為に生きてきて、今の私がいる。
 その根本の「復讐」の精神が無くなったら……それでも私は今の私でいられるのだろうか?
 やっと存在意義を見つけたのに、自らそれを手放すことは出来ない。そのせいで人一人の命が失われることになろうとも………。

「リディス……」
 意識の濁流に身を流されるままにしていたリディスは、不意に呼ばれた自分の名前にすぐには反応出来なかった。
「リディス?」
 不審を少し含みつつ、ラキアがもう一度呼ぶ。
「え!? あ、はい。……っ」
 不意にあの日の少年の残像が目の前の青年と重なった。リディスはぶんぶんと頭を振って慌ててそれを打ち消す。
「……どうした?」
「いえ……何でも、ありません」
 何とも歯切れの悪い返答。彼女にしては珍しい。
「まぁ、良い。これから少し俺に付き合ってくれないか?」
「わざわざ断らなくともそれが仕事ですから」
「……仕事とは関係ない。俺の個人的な用件だ」
 またあの瞳だ。リディスは自分に真っ直ぐ向けられる紫紺の瞳を見て思った。この瞳には逆らえない。
「いいですよ。」






「何なんですか、一体……?」
 促されるまま彼の後に付いて来て、今すぐにでも大雨になりそうな空を見上げる。生ぬるい風が身体にまとわり付いて来て気持ち悪い。
 なぜよりによってこんな天気の日に外に出ようと言い始めたのだろう。リディスは先を行く返答のない背中を見ながら小首を傾げた。
 滅多に人の来ない宰相の書斎に面している庭である。普段から人はいないが、この天気では絶対に自分たち以外の人間は来ないと考えてまず間違いないだろう。
 少し開けた場所に出て、ラキアの足が止まった。
「何なんですか?」
 不審も露にリディスは問いかける。
 いつもの彼じゃない。
 いや、時折見せる物憂げな表情の彼が本当で、飄々ひょうひょうと振舞っているのが嘘かも知れない。
 しかし例えそれが真実だったとしても、今目の前にいる彼は度を越していた。立っているだけで精一杯な感じで、今にも消えそうだった。
「勝負をしよう」
 簡潔に、だがはっきりとそれだけ言うと、ラキアは珍しく腰に下げていた鞘から剣を抜いた。
「何を考えているんですか……?」
 この間の夜会の件をまだ根に持っているのだろうか。守られていれば良いのだと言ったことを……。
 あの時言ったことは全て本心だった。彼を失うかも知れないと思った時怖かった。だから余計なことをしないで守られていて欲しいと思ったことも事実。
 でも別の感情も確かに含まれていた。守られたくない。それは自分の最後の砦を崩すのに充分すぎる行為だったから。
 もしまたあんな優しさを持った行為をされたら……自分がどうなるか分からない。だから、貴方は守られていれば良いのだと、言った。
「勝負をしよう。真剣勝負。相手から一本取れるまで」
「私に……勝てるとお思いですか………」
「さぁね」
 俯き加減に軽く言って、ラキアは自分の剣を構えた。どうやら本気らしい。
 仕方ないとばかりに小さく溜息をつくと、リディスも鞘から剣を抜く。その洗練された仕草だけで絵になった。
「手加減はするな。俺もしない」
「仰せのままに」

 二人が剣を構え相手をその視界の中央に据える。構えだけ見れば、なるほど彼もなかなかいい腕をしている。
 目が合った。
 そしてリディスは焦る。彼を見ている自分の心に、以前のような激情が湧き起こらない。ただ静かに心臓は鼓動を打っていた。
 青白い光が亀裂のように空に走る。音も無く光ったそれが、始まりの合図だった。
 視界が真っ白になり、再び元の光景が目に入るまではたった一瞬、その一瞬の間にリディスの姿が消えていた。
 次の瞬間ラキアの足元から唸りを上げ迫ってくる剣を辛うじてかわす。びゅんとすさまじい音がして剣風が顔を掠める。
 ラキアの全身に冷や汗がどっとふき出した。リディスが本気なのは剣において素人の彼にもすぐ分かった。
 わずかな隙が出来たリディスの正面にラキアの剣が飛び込む。
 それを弾き、リディスはがら空きになった相手の脇を狙う。
 反転して剣の軌道上から身を引いたラキアが、視界の端で捕らえた閃光を辛うじて剣身で止めた。
 ガキンと重みを感じさせる音が鈍く響く。
 ラキアの剣には確かにまだまだ技術が足りない。だが剣の軌道を読む冷静さが彼にはあった。リディスは最初の一撃から当てる気で剣を繰り出した。だからそれがかわされること自体が驚きだった。
 まともに剣を重ねていればそこは男と女。持って生まれた力の差がある。力で押し返してくるラキアの剣を弾いて少女は後方へ飛びずさり、体勢を立て直す。
 ゆっくりしている暇は無い。振り下ろされるラキアの剣を後転して交わす。
 と、着地地点をラキアの剣がいだ。
 チリッと胸元に軽い痛みを感じる。
 丁度その時、ラキアは視界の端で月明かりを反射しながら、何かが弧を描くように舞うのが見えた気がした。
 だが生憎彼は、不意に訪れたかすかな首の痛みでそれどころではない。

 ドサっと剣が草むらに落ちる音がした。無論落ちたのはリディスの剣ではない。彼女の剣は相変わらず相手の首に当てられ、確実に少しずつその奥へと向かっていた。
 紅い瞳はラキアを捉えておらず、もっと遠い何かを見るように焦点が合っていない。
 音の無い青白い光がまた世界を真っ白に染め上げ、始まりを告げたそれは今度は終わりを彩り、時に押さえきれなくなった雨が溢れ返るように天から降って来る。
 数秒遅れてこだまする壮絶な破壊音で我に返っても、無意識の内に相手の首へと当てられ、更に血を求めようとする剣をリディスは手放せなかった。

「なぜ引かない……」
 もう少し自分の手が横へ動けば……確実に命は無いというのに、それなのに目の前の青年は微動だにしない。その表情にいささかの動揺も見られなかった。リディスは唇を噛みしめながらもう一度聞いた。
「なぜ止めないんです?」
「…………。」
 問われたその瞳はしかし答えることはせずに、あと一歩のところまで近付いている死への恐怖は見て取れない。
 リディスの真紅の瞳は睨むようにラキアの紫紺の瞳を捉え、彼はただ静かにそれを見返している。
 彼女はふと、自分がその剣の切っ先を向けた人物の目に、確かな確信を色を見つけた。何もかも知っているのではないかと。膨大な時が過ぎても尚、脳裏にいまでも鮮明に蘇えるあの光景、セピア色に彩られたあの夕焼けの中の、後悔だけが残るあの場所での幼い自分を、彼は知っているのではないかと。その上で、今ここにいるのではないかと。でもそう考えると、矛盾が生まれる。
 何故自分を憎んでいる者を側に置いたのか。なおかつ自分の命もかえりみずに相手をかばうなんて有り得ない。
 この剣をもう少しずらすだけだと、もう一人の自分が激しく叫んでいるのに、どうしても手が動かない。
 自分より高い位置にあるラキアの首に当てられた切っ先から、赤い血が雨と混じって剣身をゆっくりと伝ってきた。
 あと少しなのに、あと少しで全てが終わるのに。
 ――全てが終わる?
 終わったら自分はどうすれば良いのだろう?
 この一瞬のために生きてきた。目の前の人間の命を、父と母を奪った人間の命を、自分もまた彼から奪おうと。たったそれだけのために生きてきた。
 じゃあ、奪ったあとは? そのあと自分はどうやって生きていけば良い?
 何も持っていないのに。復讐以外何も持ってやしないのに。それが無くなったら……また、虚無の中に帰るしかない。
「…………っ!」
 鈍い金属音が響いた。
 ラキアの剣の上に重なり合うようにしてリディスの剣が草むらに落ちる。
 苦々しそうに、それでいて悲痛なまでの殺気を隠そうともせず、彼女はラキアに背を向けた。
「……なぜ…殺さなかった?」
 呆然とうわ言のように紡がれた言葉に、リディスははっとして振り返る。
「何を言っ……まさか……始めから殺されるつもりで………?」
 愕然とした口調で問うリディスの目に、無表情で立ちすくんでいるラキアが映った。
 何かが彼女の中で崩れていく音がした。
 この人が一体何を考えているか分からない。分かりたくない。
 一番考えたくない事実に行き当たり、必死でその事実から目をそむけた。

「……帰りましょう。雨が……じきにもっと酷くなります」
 あの紫の瞳にこれ以上見つめられていたくは無かった。投げ捨てた剣を素早く拾うと、一振りして血と雨を振り払う。払ったそばから新たに大粒の雨が剣身を流れるが、構わずそれを鞘へと納めて元来た方へ踵を返した。
 考えたくない。
 その逃げとも取れる思考が、今の彼女の行動を支えている唯一のもの。
 背中に人の動く気配はとうとう感じられなかった。






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