「止まらないから、この想いは。」
最初はゆっくりとしていた歩調は、やがて早歩きになり小走りになり、ついには駆け足になっていた。
振り返る人の視線も、びしょ濡れの服も髪も、何も気にせずただ走った。そうしてやっと自分にあてがわれた自室に飛び込み、鍵を閉める。
扉一枚を挟み隣はラキアの書斎になっているが、まだ彼は戻ってはいないだろう。息切れなど滅多にしない彼女が、今は肩を上下させて荒い呼吸を繰り返していた。
「……助けて………っ」
小さく呟くような救済を望むその声は、誰の耳に入ることもなく真っ暗な部屋に吸い込まれる。その手が何かを求めるように胸元へ伸び、次の瞬間元々白い彼女の顔は血の気が引いて青白く染まった。
求めたモノが無かった。十一年間片時も手放さず、誰にも知られること無く彼女の胸元に光っていたはずの――。
「指輪……」
伸ばした手が胸元の傷に触れ、わずかな痛みを与えた。その痛みが彼女に伝える。さっきの切り合いの時に落としたのだと。完全には避け切れなかったラキアの剣が胸元を掠った時、多分あの時に指輪を繋ぎとめていた鎖が切れたのだろう。
飛び込んできた時とは全く違う切羽詰った形相で廊下へ出ると、人にぶつかることも構わずにリディスは全速力で駆けた。
「なぜ殺さなかった……?」
絶好のチャンスだったはずだ。あと少しで彼女の目的は達成されるはずではなかったのか。それとももっと苦しみを与えてから自分を殺す気だろうか。
今しがた戻ってきた書斎でラキアは自問自答する。目線が自然に部屋の隅の扉へ釘付けになってしまう。どこにも寄らずに帰ったのであれば、彼女は物音一つしないその扉の向こう側にいるはずである。
「なぜ動かない」とたずねた彼女の歪んだ顔が頭によぎる。待ち望んだ瞬間だったろうに彼女は全くそんな様子ではなく、むしろ苦しそうだった。
「どうしてそんな顔をする……」
あんな顔をさせたくて「勝負」を持ちかけたわけではなかったのに。でも彼女のことは考えていなかったのは事実。己の罪悪感から解放されることしか考えていなかった。
これが一番正しい道だと信じていた。けれどもしかしたら、罪の重さからただ逃げていただけだったかも知れない。だがこれ以外に償う方法が思いつかない。
大皿を一気に引っくり返したように雨は激しく地面を叩いている。ガラス越しにさっきまでいた庭を見て溜息をつく。
ここまで来てどうすれば良いか分からなくなるなんて滑稽だった。
水を滴らせる黒い髪を手近にあった布で大雑把に拭くと、もう寝てしまおうとベッドへ向かう。照明をつけていない部屋に、真っ白な閃光が突き刺すように差し込んだ。しばらくして遠くで雷鳴が轟く。
ラキアはベッドへ向かっていた足を止め、何とはなしに外の様子を眺めた。続いてまた稲妻が辺りを一瞬白く照らし出す。
「なっ……!」
今度は轟音がすぐ近くに聞こえた。落ちたかも知れない。
「リディス!」
言うなりラキアは駆け出した。
誰もいなくなった書斎の窓から再び閃光が差し込む。その光が無ければ、そしてずぶ濡れになって倒れている人物の髪が銀色でなければ見落としていただろう。
青白い雷光を彼女の銀髪が反射してきらめかなければ……。
「リディス!!」
遠く薄れいく意識の片隅で、聞こえるはずの無い声が聞こえた。幻聴だと思い込もうとしていたのに、だんだん近く大きくなる声に、それが現実だと認識させられる。
「ラ……キアさ……」
体が燃えるように熱い。頭が重くて顔が上げられない。
でも、まだ見つからない。
「リディス! リディス!! 何やってるんだ!」
「………ゆびわを……」
ラキアは膝を着くと、倒れているリディスの体を起こして抱きかかえた。服が水を含んでいて、夜会の日に抱きかかえた時とは比べ物にならないほど重かった。
冷たい雨に打たれて体は死人のそれのように体温がないのに、肩に当たる彼女の額は熱を帯びて絶望的に熱い。
「リディス! しっかりしろ!」
左手を彼女の膝の後ろへ通し、右手で彼女の肩を支えるとラキアは立ち上がった。
「まっ…て……ゆびわが………」
うわ言のように掠れた声で、それでも彼女の持てる力全てでリディスは訴えた。
「指輪? そんなことより今はお前が――」
「おか…あさんと……約束…」
ほとんど消え入るような言葉でラキアの動きが止まる。
「…………分かった。俺が探す、必ず見つけてお前に渡す。だから……お願いだから今は連れ帰させてくれ」
しばらくして胸の辺りでわずかに首が縦に揺れるのを見とめるや否や、ラキアはなるべく振動が伝わらないように慎重に、だが全速力で城へと駆けた。
「セラフィー! セラフィーッ!!」
城への扉を足で蹴り開けると同時にラキアは大声で彼の執事を呼んだ。程なくしていつもは悠然と歩く執事が小走りで現れる。
「どうし……すぐにベッドへ。アリヤ! マリー! 服と布と氷水を。それから医者を呼ぶように」
近くにいた侍女たちに素早く指示を飛ばしながら、彼はラキアと一緒に廊下を進んだ。歩いた所に雫がぽたぽたと零れ落ちていく。
腕の中のリディスの息遣いがさっきより荒くなっていた。
「リディス、リディス……」
もう聞こえていないだろうが、ラキアは必死に呼び掛けた。運良く彼女の部屋はすぐそこで、セラフィーが急いで扉を開けてラキアが足を踏み入れる。
すぐにベッドに寝かせようとしたラキアを無言で制し、アリヤと呼ばれた侍女が持ってきた布でセラフィーはリディスの髪や顔を拭いてやる。
布越しに触る頬や額が予想以上に熱いことにセラフィーは顔をしかめた。
「……このままじゃ返って体に悪いですが」
一通り水気をとってやると、今度こそとベッドに寝かせようとしたラキアを再度止める。
「は?」
「だから服を脱がせませんと」
ぐっしょり濡れてしまっているリディスの護衛役の制服を指差しながら、セラフィーはさらりと言った。
「ばっ、馬鹿! お前は触るな!…あっ、君、頼んでも良いか?」
不謹慎だと思いつつ、今のやり取りに少し微笑んでしまったアリヤがすぐに了承する。
「ではお二人は外でお待ち下さい。終わりましたらお声を掛けますわ」
十五歳らしい少女の声に、任せても平気だと思わせる凛としたものを感じ取ると、ラキアは「頼んだぞ」と一言残して部屋を去った。
「セラフィー、後は任せる」
「……どこに行かれるんですか?」
言外に「彼女を放って」という意味が含まれていた。
「彼女と約束したものを探さなければいけない。出来れば目が覚めた時に安心させてやりたいから」
さっきまで自分がこれからどうすれば良いのか分からなかった。でも今は……例え一時的にでも自分がやらねばならない事が確かにある。そしてそれが彼女のためなのだということがただ嬉しかった。
例え束の間でも、彼女の役に立てる自分がいる。
「分かりました。後はお任せ下さい」
この世で一番信頼する者の、信頼できる言葉を背後に聞きながら、ラキアは嵐の中へ再び飛び出した。
「なんで……この指輪を彼女が持ってるんだ………」
雨に打たれながら自分の手の中の指輪を見て、ラキアは呆然と呟いた。
雷光に反射して青く輝くそれは、確か自分の剣が彼女の胸元を掠った時に弾け飛んだものだ。
その事実だけでも彼を落ち込ませるには充分であったのに、どうやら神はことごとく逆境が好きらしい。
「なんで……どうして王家の指輪を彼女が持ってる!?」
彼の叫びは暗闇に轟く雷鳴に飲み込まれていった。