君のために出来ること。何でもするから何でも言って。この命を差し出すことさえ、別に構いやしないんだから。


「リディスの場合」


「はぁ…………」
 部屋の中をぐるぐる歩き回りながら、本日何度目か数える気にもなれない溜息をつく。まだ足がふらつくのは事実だが、一日中寝ていなくてはいけない程じゃないと思う。
「寝てるだけなんて、困る」
 恨めしそうに主の消えた扉を眺めるが、それでどうなるわけでもない。何もしないでいると、それだけで悪い考えばかりが頭に浮かんできて正直辛いのだが、かと言ってそ知らぬ顔でラキアの側にいるのはどうやら無理そうだった。まだ、顔が熱い。
 丁度その手を頬に当てた時、控えめなノックが二回。続いて「お食事をお持ちしました」と少女の声が響く。
「どうぞ。開いてます」
「失礼します。あぁ! 起き上がっては駄目です! 昨日は一日凄い高熱だったんですから。今日は安静にしていてください!」
 リディスが反論する間もなく、少女は彼女をベッドに座らせた。見事な手際の良さである。横にさせようとする少女をなんとか押し留めて、リディスは相手の目を見た。
「あ、失礼しました。初めまして、私はアリヤと申します」
「えっと、私はリディスです。よろしく」
 きびきびした印象の可愛らしい女の子である。リディスは嫌いじゃないと直感した。
「これ今日の朝食です。昨日は食べていらっしゃらないので、少しでもお口に入れてくださいね」
「あの…大丈夫です。お腹、減ってます……」
 言った側からリディスのお腹が空腹を訴える。顔を真っ赤に染めながら、慌てて差し出された食事に手を伸ばした。
 隣でアリヤが押し殺すようにして笑っているのが見える。「すみません」と謝ってはいるが止まらない笑いのせいで説得力がない。
「そんなに……笑わなくても…」
 苦し紛れに眉を寄せ、俯きながらリディスが言った。
「すみません、つい……。その、リディス様は……もっと取っ付きにくい方だと思っておりましたから」
 言われて初めて気付く。そう言えばここへ来て数週間、確かにいつもの数倍暗いオーラを出している時はあった。
 けれど――、いまだかつてこんなに穏やかな気分で朝を迎えたことはないかも知れない。父と母と別れる前を除いたら……。
「あっ、……行っちゃうんですか?」
 食事の乗った盆を机の上に置いて、静かに部屋を出ようとするアリヤに思わずリディスは声を掛ける。突然口をついて出た言葉に、言った本人が一番驚いていた。
 まるで独りがになるのが嫌だと、子供が駄々をこねているようだと思って慌てて彼女は口を覆う。
「……では、しばらくご一緒させて下さい」
 アリヤはふわっと花のように微笑んで手近にあった椅子に腰掛けた。
「あ、ありがとう」
 今日は顔が熱い。せっかく先程の熱が冷めて来ていたと言うのに、今のやり取りでまた顔が火照り出す。だが、悪い気はしない。
 目の前で優しく微笑むアリヤは、十五歳とは思えないほど落ち着いていて。ともすれば自分よりずっと落ち着いている。何かを達観したような、大人の雰囲気がある。
 確か侍女全員がこんなじゃなかったはずだ。城に仕える侍女でも、年頃の女の子はやはりそれ相応の態度をする。運ばれたご飯を口に運びながらリディスは思った。

「本当に……、治って良かったです。本当に」
 アリヤがまるで独り言のように呟いた。
「アリヤさん?」
 その表情に安堵とは別の、言葉とは裏腹な悲しみを感じてリディスは思わず聞き返す。
「呼び捨てで結構です、リディス様。……私の両親は、昨晩の貴方のように高熱を出して、あっさり死んでしまったので。……怖かったんです」
「あ……ごめんなさい」
 思い出したくない悲しい過去を呼び起こされることの辛さは良く分かっているつもりだった。良く分かっているのに、それをさせてしまった自分を悔やむ。答えがないのに耐えられず、リディスはもう一度小さく謝った。
「リディス様、謝らないで下さい。亡くなった人を思い出すのは、時々必要なことですから」
「え、でも……辛いでしょう?」
 不思議そうに問うリディスを見て、アリヤは小さく息を吸ってから口を開いた。

「リディス様。人の本当の死はいつだと思います?」

 突然のアリヤの言葉にリディスは思考が追いついていかない。

「私は、心臓が止まった瞬間ではないと思うんです」
 椅子に軽く背を預け、アリヤは窓の外を見ながら自分の想いを丁寧に言葉にしていく。

「私の両親は死にましたけど、両親の言葉や信念は私に受け継がれています。だから彼らの命はなくなっても、その言葉や信念はこの世界に生き続けているんです。私がここに存在していることが、両親が生きていた証なんです。
 私は人と関わり合って生きてます、そうやって生きている限り人間は互いに影響し合います。そして少なからず私の中にある父の言葉や信念は相手に影響を与えると思うんです。ほんの少しだけでも。……それって、とても素敵なことじゃありませんか?」

 だから、死んだ人の事を思い出すのは決して悪いことじゃないと、アリヤは言う。
 十五歳の少女だとは思えない。目の前の少女は既に自分の信念をしっかりと持った人間だった。

 自分は一度でもそんな風に考えたことがあっただろうか……。
 両親が死んで、生きる意味が分からなくなり、もう戻って来ない幸せを思い出そうとすると、あの日の悲惨な光景で目の前が曇る。
 絶望の中で何かにすがりたくて、ラキアという復讐相手を祭り上げ、人の命を奪うことを生への執着に置き換えた。
 何て自分勝手で利己的な生き方だろう。
 ラキアは――あの日の少年は、少なくとも故意にあの事件を引き起こしたわけではないのだ。それは自分の記憶の中の少年の様子と、実際にラキアに接して痛いほど理解していた。

 父はきっと、少年を恨みながら死んだりしなかっただろう。むしろ無事を喜んだだろう。
 母はきっと、自分にその少年を憎んで欲しくて守ったんじゃない。
 今の自分の姿は、両親の目にどういう風にうつるだろう。別に死んだ両親のために復讐しようと思ったわけじゃない。彼らがそんな事望んでないのは百も承知だ。これは自分が生きるために、たった一人、自分のためだけを考えた結果。

「私の……両親も、死んだ」

 掠れる声で 、今にも消え入りそうな言葉がリディスの口から漏れる。

「……ご両親の信念を、受け継いでいますか?」

 優しくアリヤが言った。
 その顔を直視することが出来ずに、リディスの顔が俯く。今一番言われたくない言葉だった。

「私は…私は……辛くて、二人が死んだことが辛くて、耐えられなくて…、事故の原因になった者を恨んだ。憎んだ。殺してしまおうと思った。あなたみたいには思えなかった」

 こんなことを言うべきじゃないと思いながらも、後から後から堰を切ったようにあふれ出てくる感情の波は抑えようが無かった。
 次第に歪んでいく視界の中でアリヤが近付いてくるのが分かる。あっと思った時には彼女の腕の中にリディスはすっぽり収まっていた。
 アリヤの腕が優しく、包み込むように抱きしめて、我慢していた自分の奥底に潜む感情が制御しきれずに勝手に口から飛び出す。

「今も……まだ憎んでる。でも、最近は前みたいに憎むことが出来なくて……憎むことが出来ない自分が憎くて。何で……何でっ!? ………会わなきゃ良かった。こんな気持ちになるなら最初から会わなければ…そうしたら馬鹿みたいに憎んでいられたのに。…っ、どうして……」

 この後の言葉は、今まで自分の支えとしてきたものを根底から覆す言葉だった。口に出して言ってしまえば、認めたことになってしまう。認めてしまえば、自分はこれからどうすれば良いんだろう?
 でも、言わずにはいられなかった。言っても良いと、リディスを抱きしめる腕が告げている。

 ――どうして……
「どうして『許したい』って――ッ!!」

 続きは言葉にはならなかった。止めどなく涙は流れアリヤの白い前掛けをぬらしてく。それでもこの十五歳の少女は静かに微笑んでリディスを抱きしめていた。

「リディス様? もっと自分のために生きてください」
「…………私は、いつでも自分勝手だよ。復讐だって――」
「ならなぜ、そんなに辛そうなんですか?………憎んだり、恨んだり、そういったことは私たち人間には重過ぎます。耐えられるように出来てないんです。罰は、私たち人間が下せるものじゃありません。だって……、一点の曇りもない、罪のない人間が一人でもいますか? 胸を張って自分は一つも罪を犯したことはないと言い切れる者がどこにいるって言うんです? そんな不完全な私たち人間が、同じ人間を罰するなんて……本当は出来っこないんですよ」

「なら……罪を犯した者は野放し?」

 これは決してラキアに向けた言葉ではなく。単純に、アリヤの主張に対する疑問をリディスはぶつける。
 伝えるべき言葉をしばし考え、アリヤは静かに続けた。

「いいえ。罪を犯した者は自分を一生悔やみ続けるでしょう。それが、罰です。だから……、私たちが罰することはないんです」
「でも……、罪の意識がないまま人を殺したり、物を盗んだりする人は、確かにいるわ」

 リディスは遠くを見るような目をする。一呼吸置いて、アリヤは小さくゆっくりと言葉を紡いでいく。

「私も、それについてはまだ考えているんです。でも、一つ思うのは……、そんな風に罪を犯す人達には、本当の幸福と言うものが訪れるのかなぁって……、訪れないなら、それって悲しいことじゃないかなぁって…」

「……貴方は、神を恨んだことはないの? 両親を奪ったことを…」
「あります。随分、恨みました。でも……ある人に出会って、私は変わりました。私は、私自身のために恨むのを止めようと思いました。せっかく与えられた一度きりの人生なのに、何かを恨んで暮らすのはもったいないって思ったんですよ」

「貴方、幸せ?」
「えぇ、とても。……リディス様? 私、リディス様のこと好きですよ。幸せになれる権利を、貴方はもうお持ちなんじゃないですか?」

 柔らかく微笑みながら、アリヤはリディスを抱いていた手を離した。
 リディスは少し戸惑いながら、伝えたい感情を表す言葉を探す。伝えたいことは沢山あるのに、結局、次の一言しか思いつかなかった。
「……………アリヤ、ありがとう」
 彼女の顔は涙に濡れ、目は赤くなっていたし、とても外を歩ける状態ではなかったけれど、アリヤが今まで見たどの表情より一番綺麗だった。

「アリヤ、貴方のご両親は素敵ね。こんなに素敵な女の子を私と出会わせてくれた。…貴方のご両親は、今、私の中にも生きている」
 弾かれたようにアリヤはリディスを見た。
 ベッドに腰掛ける護衛役の少女は、晴れやかな笑顔を向けていた。

「そう……言って頂けると、本当に…嬉しいです」

 今度はアリヤの目に涙が溜まる。
 目を赤くしている互いの顔を見合い、リディスとアリヤは小さく笑った。お互いすぐには外に出られないようだ。
 窓から差し込む光が、部屋の中でキラキラと踊る。

 なんだか、全てがいつもよりちょっとだけ輝いて見えた。






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