「ラキア様?貴方、今何時だと思ってるんです?」
「……………朝の十時……」
「今日の予定覚えてます?」
「……十時半に会議…」
「で、今どこで何してるんですか?」
「……………ベッドでまどろんでいる」
「馬鹿宰相」


「踏み出した先には」


 城の長い廊下を、宰相とその護衛役、そして執事は競歩並みの速度で進んでいた。
 本来一番身なりを整えていなくてはいけない人物は、その黒い髪を寝癖で乱し、服のボタンも掛け間違え、いまだ眠そうな目をしている。
「あと五分で始まります。この書類に一応目を通しておいて下さい」
 そう言ってセラフィーが分厚い書類の束を渡す。とてもあと五分では目を通すことなど不可能なくらいの……。
「……お前、俺を何だと思ってるんだ」
「バベルの宰相ラキア・バシリスク。年齢二十三歳。趣味は模型の制作。苦手なものは――」
「分かった分かった! 読むよ、読めば良いんだろ!?」
 慌ててセラフィーの言葉をさえぎり、ラキアは手元の書類を必死にペラペラめくっていく。眠気は吹っ飛んだらしい。
「分かってくださり光栄です」
 セラフィーはにこやかに笑った。
 最近その笑顔の裏には色々な意味が隠されていることにリディスも気が付いた。
「……ったく」
 足早に歩きながら、本当に「目を通す」だけの作業をラキアは繰り返す。
「……セラフィーさん、さっきの続きは?」
 突然さっきまで静かにしていたリディスが問いかけた。
 セラフィーは「あぁ」と言って口を開きかけるが、すんでの所でラキアがそれを阻む。
「良いじゃないですか。苦手なモノくらい誰にだってありますよ」
 不満げにその様子を眺めながらリディスが言う。
 だがラキアは一向にセラフィーの口から手を離さない。その顔にはうっすらと冷や汗が滲んでいた。
「良くない良くない。知られたくないモノくらい誰だってあるだろ!?」
「……あと一分」
 押さえられたセラフィーの口からくぐもった声が聞こえた。
 その途端ラキアは血相を変えて廊下を駆け出す。
「良いか! 絶対言うなよ!!」
 リディスとセラフィーは今回の会議には同行できない。宰相と数名の軍人、そして文官たちによって内密な話があるそうだ。
 二人は会議室の前で主を待つことになっていた。
 そこには自分たち以外の護衛兵がついているはずだ。別段急ぐ必要もないことに気付き、自然と歩調が緩む。二人は並んで廊下を歩き始めた。
「……で、一体何なんですか?」
 先程のラキアの言葉を完全に無視して、リディスが唐突に問う。
「う〜ん…、そのうち分かりますよ」
「気になります」
「………なら取り引きしますか?」
 急に声のトーンが落ちたセラフィーを不審気に見上げる。
「貴方がここに来たわけを話してくれたら、彼の苦手なものを教えましょう」
 リディスの体が緊張で強張った。
 知られている?いや、そんなはずはない。そんなはずはないのに……、目の前の男の顔は明らかに何かを知っている表情だった。
 今まで見たことのないセラフィーの冷たい表情に僅かに手が震える。それを押さえるように、ぎゅっと両手を握り締めた。
「……分が悪い取り引きですね。第一、ここに来た理由は宰相殿をお守りしたいと――」
「何が目的です?」
「…………っ」
 誤魔化すことが出来ない。知っている。でなければこんな顔が出来るはずない。
 どうやって逃げるか、どうやって口封じをするか、そんなことが浮かんでは消えて行った。
 彼はきっとラキアに害を成すものには容赦しないだろう。となれば、自分ほど邪魔な存在は無いのではないだろうか。
 この場は白を切り通すしかない。

「私は……、彼を殺すために…来たんです」

 自分でも耳を疑った。何を言っているか分からなかった。
 真実を告げる馬鹿がどこにいる?そう頭の中で自分を止める声が聞こえた。だけど、一度開いてしまった口は勝手に言葉を紡ぎ続ける。
「復讐しようと――……っ!」
 音もなかった。
 セラフィーの腰の鞘に収まっていた剣が、今はリディスの首筋に当てられていた。
 じりっと身を引く。だがすぐ後ろの壁に阻まれて、結局一歩も後退できない。
 首筋に冷たい何かを感じながら、目の前の冷たい瞳に続きを促されて、リディスは意を決して口を開いた。続きが無ければ、いまここで自分は死ぬしかないだろう。
「確かに、殺すために来たんです。でも……、でも出来なかった。本当だったら……もう殺してるはずだったのに、出来なくて。恨んでたのに……、それなのに、ゆ…許したいと………思ってしまって…」
 わずかにセラフィーの表情が揺れた。
 リディスは構わず最後に告げるべき言葉を言う。
「私は、彼を、許したいんです」
 驚くほどはっきり言えた。
 今まで背負っていた何かがすとんと落ち、虚無感どころか微笑まで浮かんできそうな気分に、リディス自信が驚く。
 首筋の冷たい殺気が薄れていくのを感じ、体を強張らせていた緊張が一気に解ける。そのまま床にへたり込みそうになったリディスの体を、空いている手でセラフィーが支えた。その顔にいつもの笑顔が――いや、いつもより優しい笑顔が浮かんでいるのを見て、リディスはほっと胸を撫で下ろした。
 どうやら、死なずに済むらしい。
「行きましょうか」
「あっ、はい!」
 彼女を床に立たせてやり、セラフィーは歩き始める。
 その後ろ姿を慌てて追う。
「リディス。彼は…ラキア様は、多分貴方がなぜ来たか知っていると思いますよ」
「えっ!?」
 振り返らずに言うセラフィーの言葉に、リディスは愕然として歩みを止める。
「そんなはずは…だって――」
「ラキア様と貴方との間に何があったかは知りませんが、貴方が来てからの彼は、普通じゃなかった」
「でも、でもそれならなぜ。なぜ私を雇ったんですか!?」
「それは……貴方が直接聞きなさい」
 立ち止まって振り返るセラフィーの顔は穏やかで、彼がこんな顔をするのなら何もかも上手く行くような気がした。ラキアとの和解でさえ簡単なような気がしてくる。
 でも、不安は消えない。
 上手く自分の気持ちを伝えられるか、ラキアはあの事件を覚えているのか。

 ふと、あの嵐の日の斬り合いを思い出す。危ういバランスで、やっとで立っていた彼の姿を思い出す。
 あぁ……、彼は知っていたのかも知れない。セラフィーの言う通り、知っていて自分を雇ったのかも知れない。
「安心なさい。貴方はもう少し自惚れても良いんですよ」
「は?」
 さっきの穏やかな表情は一体どこへ消えたのか。一変していつもの意味ありげな笑いを浮かべるセラフィーがリディスを見ていた。
「そのうち分かりますよ」
「ちょっ……、待って下さいよ!セラフィーさん!?」
 いっそ清々しいほどの笑いを残して、セラフィーは歩いていく。
 意味が分からないリディスが後を追う。だけど分かったことも確かにあった。そのおかげで今は心が軽い。
 何もかも話そう。そして……、無謀かも知れないけど、このままの関係を、続けたい。


 本当にそう思っていたのだ。
 隣国アシュハルトの第一皇子、アゼルが来るまでは……。






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