「囚われのマリオネット」


「有り得ない……。何でこんな時に…、よりによってアシュハルトの第一皇子が……」
 応接室へ足早に向かいながら、呻くようにラキアは呟いた。やや後ろからセラフィーが付いて来る。
 全く理解できない。アシュハルトが、そしてその第一皇子アゼルが。
 これだけ状況が悪化していて一触即発の緊張状態であるのに、なぜ敵国であるはずのここへこの時期に、あのアゼルが訪ねて来る必要があるのか。

 日が傾き始めた夏の午後、前触れなく彼はこのバベルの城を訪問した。訳を聞けば、遠出の帰りに立ち寄ったのだと言ったらしい。明らかに不自然だった。
 「敵情視察」という単語が誰の頭にも浮かんだ。そのせいで今城内は騒然としている。今この時期アシュハルトと事を起こすのは本位ではない。のこのこ敵国に数名の護衛のみを連れてやってきたにしても、手を出すのは良策ではない。手は出させないし、こちらも出さない。アシュハルト側の護衛数人は別室に厳重な警備の元、待機させ、代わってバベルの軍人が城内至る所に配置された。ピンと張り詰めた空気が城を支配していた。

 ラキアはこげ茶色の応接室の扉の前で立ち止まり、ドアノブに手を掛ける。相手がどのような意図でここを訪ねているにしても、自分はそれを最大限に利用するだけ。
 不意にさっきまで側にいたはずの彼女の姿が見えないことに気付き、ラキアは手を止めた。
「……リディスは?」

「気分が悪いらしく、自室で少し休むらしいです」
 そしてその間の護衛はセラフィーが請け負ったらしい。
 気にはなるが今は構っていられない。ラキアは今度こそドアノブを回した。



 リディスは自室の部屋の隅に小さくうずくまっていた。震える膝を両手で押さえる。
「何で……。何のために、来たんですか?……兄上…」
 分かっている。彼が来たのは私に会うため。だけど自分にそこまでの価値があるだろうか。いざとなれば切り捨てられる存在のはずだ。
 約束を守れなかったのだから刺客が向けられる可能性は考慮していたが、わざわざ危険を冒して敵国に、よりによって第一皇子であるアゼルが来るなど常識の範疇を越している。
 それより何より――……
「私は…私は歩むべき道を……」
 引き戻されていく。真っ暗で息苦しい程の狂気の渦、底なしの闇の中へ――
 引き戻されていく。



「そうですか。それは良かったですね、次は私もご一緒させて下さい」
 ラキアはそう言いながら、にこやかに笑った。心の内はどうであれ……
「えぇ、ハノイには素晴らしい自然が残っていますからね。是非今度一緒に旅行でも」
 対するアゼルも短い黒い髪を揺らして微笑んだ。だが、目が笑っていない。琥珀色の、見方によっては金色に光る瞳は鋭利な感情を隠すことなく、ラキアに真っ直ぐ向けられていた。
 王族らしい威圧感や気品は十二分に溢れているが、どこか人として欠けている。端整な顔立ちをしていても、これでは女性は近付かないだろう。遠目に見るなら申し分ないが……。

 アゼルはバベルの向こう側にある国、ハノイに私用で出掛けた帰りにここへ寄ったと言う。「元気にしていらっしゃるかと思いまして」と笑った顔には、配慮の念などラキアには微塵も感じられなかった。
「ところで、先日催された夜会で襲撃にあったとか……」
「あぁ、はい。そうなんです。護衛が優秀なもので、大した怪我も無く済んだのですが」
 ――そっちが何もしなければ、掠り傷さえしなくて済んだんですがね。
 苦笑を浮かべた表情の下で、ラキアは全く別の言葉を目の前の青年に投げつける。
「へぇ……、その護衛とは、前に私を送ってくれた女性ですか?」
「……はい、そうですよ。しかし……、良く彼女だと分かりましたね。普通なら彼女を護衛だとさえ思わないでしょうに……」
 アゼルにはリディスがその護衛であるとは言っていない。ラキアの身を守る護衛は何も彼女一人じゃない。この前彼女が送っていく最中、目の前の青年と何を話したのかは知らない。それにしたって、襲撃犯を倒した優秀な護衛と聞いて女性を思い浮かべる者はまずいないだろう。
 自国にさえ噂程度にしか流れていない夜会の件が、他国にいる王子にそれ程詳しく聞かされているとは考えにくい。
 となると――……
「最近は女性も強くなったものですね。私もうかうかしてられません」
 出された飲み物を片手で持ち、視線を窓の外へ向けながらアゼルはこの話題に終止符を打った。
「そうですね」
 こう返されてしまえば聞くに聞けない……、「彼女の何を知っているのか」なんて。自身の中にうやむやなまま残った疑問が渦を巻く。気分が悪い。
「……そう言えば冬に旅行などなさるんですか?」
 消えない疑問を打ち消すように、ラキアは口を開いた。対するアゼルは相変わらずの無表情で、眉一つ動かさない。
「…そんな予定はないですが、なぜです?」
「いえね、アシュハルトが冬を越すための道具を他国から買い集めていると聞いたものですから。城で冬越えするだけなら必要ないようなものまで……」
「あぁ、そのことですか。父が、どうしても冬に行きたい所があるらしくて。仕方がないので私たちや家来も連れてちょっとした遠出をしようという話になったんです」
 動揺も、逡巡する間も見て取れない。端っからそんな反応は期待していなかったが。見る者を萎縮させるような鋭い琥珀色の瞳を持つ青年。自分とさほど年齢は違わないはずだが、何かが大きく違う青年。
「この大陸の厳しい雪の中をわざわざですか。……余程その場所にご執着と見える」
「そうなんです。それだけの価値はあると私も思いますよ」
「…………冬でなければならないんですか?」
「それ以外の季節に行っても意味がないらしいです」
 終始二人の視線は互いの瞳から離れることはなかった。まるでわずかな反応まで見落とすまいというように。ふと、思い出したように、付け足しのようにラキアが呟く。
「私も……秋に、訪ねてみたい所があるんですよ」
「そうですか。どうぞ楽しんで来て下さいね」
 やはり、アシュハルトの第一王子の瞳に変化はなかった。



 コンコン、と控えめなノックの音が聞こえて、リディスは顔を上げた。
「リディス様? アリヤです。ご気分が悪いとのことで、お薬をお持ちしました」
「…………ありがとう、開いてるから」
 努めて明るく言おうとした決意は、どうやら無駄だったらしい。自分でも驚くほど弱々しい声に力なく笑う。
「……カーテン、開けますよ? それでお薬は………リディス様? 顔色が……」
「大丈夫。アリヤありがとう。でも、本当に、大丈夫だから……」
 窓から差し込む午後の爽やかな光に反して、リディスの顔はまるで死人のそれのように蒼白だった。その顔で大丈夫と言われても何の説得力もない。
「リディス様、私お医者様を呼んで参ります」
 リディスの返答を待つことなく、アリヤは廊下へ出た。医者など呼ばれても体に何ら問題はない、問題があるのは……心の方なのだから。
 慌ててアリヤを止めようとリディスは立ち上がった。立ち眩みを起こし倒れそうになる体を必死に壁で支え、前へ進むと扉を押した。
「アリヤっ! 本当に……だいじょ―――」
 廊下に出たものの、アリヤの姿は既に見えず、寄りかかる物を失くした体が床へと倒れかける。リディスの白い腕を掴んでそれを止めたのは――

「どこが大丈夫なのか聞かせてもらいたい」
「…………あ……兄上…」

 冷たい目でアゼルがリディスを見下ろす。これ以上ないほど蒼白だった彼女の顔が、鋭い視線を向けられますます血の気がなくなっていった。
 アゼルは今彼女が出てきた部屋を一瞥し、わずかに震える腕を力ずくで引っ張って部屋の中へ無造作に放り込む。勢いでリディスは床に投げ出される。
「………っ」
 続けて部屋に踏み込んだアゼルは内側から扉に鍵を掛け、その足で窓まで向かうとカーテンを引く。

 また元のようにそこは闇に包まれた。お互いの表情さえ良く見えない。聞こえるのは次第に荒くなっていくリディス自身の呼吸だけ。
「どういうつもりだ?」
 鋭利な、感情のこもらない冷たい声が空気を切り裂く。問われたはずの少女は何も答えない。……いや、答えられなかった。
「もう一度聞く。……なぜ、あいつを殺さなかった?」
 研ぎ澄まされた刃物のような声音が容赦なく突き刺さる。それでも少女は返答しなかった。俯き、震える手を握り締める。噛みしめた唇からわずかに血が滲んだ。
 その様子を無表情に見下ろしながら、青年は続ける。
「機会なら、いくらでもあったはずだ。そうでなくとも、あの夜会の時にお前が少しでも手を抜いていたら……あいつは、死んでた」
「私が、いなくても……あの人の執事が返り討ちにしてた……」
 いつの間にこんなに近付いたのか……、アゼルの右手がリディスの服の合わせを捻り、彼女を立たせる。そのまま傍らのベッドへ無言で投げ飛ばした。
「……ッ」
 ベッドの弾力が衝撃を減らしたが、それでも突然のことに受身を取れなかった分、体に鈍い痛みが走る。
 起き上がれないでいる彼女のあごに手を掛けて、アゼルが力任せに上向かせた。二人分の体重にベッドが軋む。

「契約は覚えているだろうな。なぜお前を拾ったか、なぜこの立場を用意してやったと思う?」
 壁際に押しやられて、目を逸らすことも叶わず、リディスは暗闇の中でなお冷たく光る瞳を見つめた。
「お前が言ったんだ、殺したいと。そして俺はその望みを叶える場所を用意してやった。……お前は、今何をやっている?」
「…………私は……、もう、自分の生きる意味を…」
「今さら何を言っている? 振り返って見てみろ、お前の辿って来た道を。一体何人の人間を殺した? 傷つけた? そこまで血にまみれていながら、今更『生きる意味』だと?……笑わせるな。お前の足元には、お前に殺された者たちの真っ赤な血が溢れている」
「……ぁ…、私は……っ」
「お前に自由など、希望などありはしない」
 アゼルはそう言うとリディスのあごから手を離し、ベッドから降りた。
 体が自由になっても少女は身動きできずにいた。大きく見開かれた真紅の瞳には涙など浮かんではいない。それさえ出来ない。
 自分のなど全く及ばない圧倒的な力に、リディスは為す術もなかった。何か言おうと開きかけた口は、しかし言葉にならない小さな音と荒い息が漏れるだけ。
「これ以上ここにいる必要はない。戻って来いリディス」
 ――闇の中へ………、アシュハルトへ、俺の……。




「おいセラフィー。いたか?」
「いいえ、応接間のある上の二階は全て見ましたが……他の階も今探させてます」
 ほんの数秒である。
 共に応接室を出て、門まで送って行こうと廊下を歩いていた。中庭に咲き乱れる花々の説明を乞われ、視線を彼から離したほんの数秒。セラフィーは応接室に忘れたというアゼルのペンを取りに戻っていた。さらに城内に配置してあった警備の大半が、城門付近で起きた騒動に駆り出された。不自然に重なった偶然。その隙にアゼルは姿を消した。
「くそっ、どこ行ったんだ」
 いまいましそうに髪をかき上げる。
「すみません、道に迷いまして。あまりに広かったものですから」
 突然背後に現れた気配に、ラキアは反射的に離れた。
 振り向けばそこには、行方不明中だったアゼル王子が何食わぬ顔で立っている。あまりの気配のなさにセラフィーも多少驚いたようで、滅多に見せない険しい表情が浮かんでいた。
「……迷うほど大きな城ではないですよ。こちらです、もう日が傾いています。早くお帰りになった方が良いでしょう」
 どうせ今日中にアシュハルトに着くとは思えないが、城内に泊める気はさらさらない。向こうもそんなこと考えてないだろう。それよりも彼を帰した後で城中を点検しなくてはならないことの方が重要だ。
 向けられる不審の眼差しを無視して、アゼルは窓の外へ目をやった。
「そうですね、夜は……本当に暗いですから」



 陽が落ちる。
 夜が更ける。

 ――闇が、来る……






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