「一つの答え」


 小さい頃から、呑み込まれそうな暗い闇と、全ての音を吸い込んでしまう白い雪が、とても怖かった。ジルの不器用な優しい言葉でいくらか軽減された闇への恐怖が、今また息を吹き返し彼女を襲う。
 遥か向こうの地平線に沈んでいく真っ赤な夕陽を、それよりもっと赤い二つの瞳に映す。
 迷っているわけではないはずなのに、答えはもう出ているはずなのに、リディスの足は一向に動く気配を見せない。
「結局……全然成長してないよ、ジル…」
 力なく呟いたその言葉は、赤く染まった夕暮れの空に吸い込まれていった。


 今から数時間前。アリヤが呼んだ医者はリディスの症状を「心因性」だと診断した。おそらくそう判断されるだろうと思っていたリディスは、それを聞いた時のアリヤの顔を予想し同席を拒んだ。
 だから医者の診断を聞いたのは彼女一人だけ。心配そうに扉の外で待っていたアリヤには、軽い貧血だと伝えた。
「リディス様、少しお休みになった方が良いのです。ここへ来てからずっと働きづめではないですか」
 アリヤはあどけなさの残る血色の良い顔をしかめる。
「……大丈夫。でも、そうね。そうする。少しお休みを頂けるようにお願いしてみる」
 自分の願いが聞き届けられたのに満足して、アリヤは安心したようにほっと息をついた。
 そのとき丁度俯かなかったら、そしたらリディスの表情に一瞬かげりが差したのに、彼女なら気付いただろう。だがアリヤが顔を上げてリディスを見る頃には、風のようにそれは消えていた。
「大丈夫です! リディス様がお願いなされば、ラキア様が拒むことは有り得ませんっ!」
 この自信は一体どこから来るのだろうと、隣の少女の様子にリディスは苦笑する。
 穏やかな午後だった。



「……とんだ一日だった…」
 ベッドに仰向けに横たわりながら、ラキアは溜息を一つ吐き出した。
 アゼルが城を後にした直後。一体彼の目的は何だったのかと言う不安の声が高まり、急きょ会議を開くはめになった。そうなるだろうとは予想していたものの、一日が終わって一息つくと、改めて自分の疲労を感じる。
「疲れた……」
 何が一番疲れたかと問われれば、何の迷いもなく「アゼルとの会話」だと答えられる自分がいる。いっそ持久走に繰り出した方がよっぽど楽だ。自分とそんなに歳は離れていないはずなのに、あの負のオーラは何だろう。

 あれと同じ瞳を過去見たことがあったと、ラキアはふと思い出した。
 でもそれが果たしてどちらなのか……。つまり、夕焼け空を背に呆然と血の海にたたずんでいた少女の瞳なのか、それとも真っ白だった部屋を赤く染め鋭利な殺意を向けていた少女の瞳なのか、どちらが似ていたのかは分からなかった。あるいは両方とも似ていたかも知れない。

 ただ一つ明らかなのは……、明らかだと信じるものは、「今」自分の側にいるリディスは違うということだけだ。むしろラキアにとってはそれだけが重要だった。
 自分も変わったが彼女も変わった。自惚れじゃないと今ならはっきり言える。
 始めの頃とは大分違う。少なくとも自分自身の変化は自覚しているつもりだ。毎日「罰」や「死」を意識していたあの頃とは違う。今は逆に「生」を望んで生きている。「死ぬ」ということは、今考えると、彼女に償う方法の中で一番楽な選択肢だったんじゃないかと思う。
 多分、自分はずっと逃げていたのだ。
 背負いきれない罪から逃げることに夢中になっていて、リディス自身のことはあまり考えていなかった。それが、彼女に会って、彼女自身に興味を持つようになって、変わった。
 いつの間にか自分のことじゃなく、彼女のことを一番に考えるようになっていた。罪から逃れることじゃなく、本当に償う道を探すようになっていた。
 それで結局リディスが自分の「死」を望むなら、その時死んだって遅くはないだろう。取り合えずやれるだけのことを精一杯やってから諦めよう。

 そう考えると驚くほど楽になり、ラキアは吸い込まれるように眠りの世界へ落ち。
 時を同じくして、真っ赤な夕陽も遥かな地平線の彼方へゆっくりと沈んでいった。









 城を囲む防衛のためのかがり火がちらちらと視界の端で揺れる。それ以外に漆黒の闇を照らすものなどないと思え、慌ててリディスはその考えを打ち消した。
「月や……星があるじゃない……」
 誰に言うでもなくそう呟くと、柔らかい弱い光で辺りを照らす月を窓から見上げた。自室に灯っていたロウソクは既にロウソクとしての寿命を全うし、ロウが受け皿の底に冷えて固まっている。その代わり部屋は白い月明かりで満ちていた。
 淡い光を反射して、彼女の手に握られた何かが光る。
 抜き身の、細い、小さな―――短剣。
 もう一度右手にしっかりと握り直し、リディスは無音で部屋の隅の、彼女の主の部屋へと続く扉へ歩を進めた。


 普段なら全く気にすることはない、扉を開けるかすかな音。だが今はいつもの数倍大きく聞こえる。
 バベル城はあれだけ騒々しかったのが嘘のように、まるで廃墟のように静まり返っていて。一歩扉の向こうへ足を踏み出すと、規則正しい静かな寝息が耳に届く。音のした方を一目見て、リディスは思わず微笑んだ。
 無造作にベッドに横たわる青年は、朝方着ていたのと全く同じ服を着崩して寝ていた。何も掛けずにいるところを見ると、おそらく少し横になるつもりがそのまま熟睡してしまったのだろう。
 衣擦れの音一つ立てずにベッドの脇まで歩み寄り、仰向けに寝ている青年の上に覆い被さった。ベッドが静寂の中で小さくきしんだ悲鳴を上げた。
 リディスは短剣を握った右手を高く振りかざす。その格好のまま手は彫刻のように動かなかった。

 いつの間にか規則正しいラキアの寝息が消えていることに気付く。不思議に思う暇もなく、右手は相変わらず高く振りかざしたままに、リディスの赤い瞳が紫のガラス玉を捉えた。
 いつ目を覚ました? それとも最初から起きていたのだろうか。どちらにしろ今はそんなこと関係なかった。
 大事なのは、彼の瞳から驚きの感情のたった一欠けらでさえも見出せないことだった。
 両者無言のまま、随分長い間見つめ合っていたと思う。ともすれば永遠に続くかとも思われた一時いっときは、リディスの右手に握られたモノが銀の残像を残して振り下ろされた瞬間に終わった。

 短剣が風を切ってうなった。くぐもった、鈍い音が響く。

 白い羽が、宙に舞った。




「知って……いたんですね?」
 ラキアは視界の端に、月光を反射して鈍く光っている短剣を見、次に視線をリディスに戻した。俯いた彼女の顔は、短剣と同じく淡く光っている銀色の髪が掛かっていて、良く見えない。
 振り下ろされたそれは彼の体をわずかにれ、頭のすぐ脇の柔らかなクッションに突き刺さっていた。クッションが破け、裂け目から中に詰まっていた羽毛が飛び出す。
「知ってたんですよね? 最初から、何もかも……。なぜここに来たのかも、何をやろうとしていたかも……知ってたんですね? 知っていて、貴方は……」
 か細く掠れるような声で、それでもしっかりと一つ一つの言葉を紡いでいく。
「……知っていた」
 顔に掛かっている銀髪が邪魔で、今自分が言った言葉がどんな風に彼女に理解されたのか、表情で判断することが出来ない。彼女の頬に手を伸ばし、髪をかき上げた。

 そこにあったのは夢にまで見た憎悪でもなく、恨みでもなく、復讐の光でもなく……ただ一滴の涙だけだった。

「なら、なぜ? どうして私を側に? 殺されるかも知れなかったのに……」
「……殺されたかったんだ。君にしてしまった自分の過ちを償う術を俺は持たなかったから。分からなかったから。見つけようとしなかったから。手っ取り早く、一番楽な方法で終わりにしたかったんだ…………そのせいで返って君が苦しむかも知れないなんて、考えなかった」
 リディスは短剣をクッションから引き抜くと、床へ捨てた。小気味良い音を響かせながら剣は床を滑っていく。クッションからまた何枚かの羽が舞い上がった。
 リディスの頬に片手をあてがったまま、ラキアは上半身を起こす。
「でも今は……自分のことより、君のことが………何よりも大事なんだ。死んで楽になるのは簡単だけど、君がそれを望むなら別だけど………他の方法があるなら、リディス、君の側にいて、君を守っていきたい」
 瞬間、見逃してしまうほど小さく、彼女の肩が震えた。
 ゆっくりと顔を上げたリディスの赤い瞳は、言い様のない怒りをたたえていた。決して憎しみから来るそれではなく。怒りというより憤りに近い、何かを訴えるような瞳がラキアに向けられる。

 頬に当てられたラキアの手をリディスは撥ね退けた。
「貴方は……ずるい。他の方法と言いながら、ならなぜ、さっき黙って私に殺されようとしたんですか!? 貴方は、私のことを考えているというけれど、全然考えてなんかない! あのまま、もしかしたら殺されてたかも知れないのに、貴方は抵抗さえしなかった。それが…それが私のためだとでも言うんですか!?」
 憤りの矛先を考えあぐねて、困惑の視線を彼女に向けながら、ラキアは続く言葉を待った。
「……私のためと言うなら、再会した時、貴方は私を憎んでいるべきでした。私を嫌うべきでした。笑いかけることなどせずに、弱みも見せずに、冷たくするべきだった! そうすれば……そうすれば、私は何の疑問も持たずに、貴方を殺せたのに。そうすれば……憎めたのに…」
 先程までの燃えるような瞳は、今はただ静かにラキアに向けられていた。彼が何か口を開きかけた瞬間、リディスの最後の一言が部屋に響く。
「そうすれば……こんな気持ちになんかならなかったのに…」
 ガラスのように脆い微笑みを浮かべた彼女の一言に、ラキアはその紫の目を見開いた。
 「こんな気持ち」が何なのか、彼女の顔を見ればそれが決して負の感情ではないことは確かで。しかしそんなことが有り得るだろうか。
 信じたい気持ちと、信じられない気持ちが同時に思考を占め、彼の神経はまばたきさえ忘れてしまったらしい。

「……馬鹿宰相」
「誰がばっ―――」

 反射的に答えた彼の頭は、またすぐに真っ白になった。次に続くはずだった言葉は意思に反して呑み込まれる。
 一瞬だった。
 余りの予想外な出来事に驚き、自分の唇に触れられたものが何だったのか、すぐには理解できなかった。本当に一瞬、果たして口づけと呼んでも良いものかと疑問にさえ思う、掠めるようにして触れられたこの動作。

「貴方は、生きて。私のことを考えてくれると言うなら、それが私の一番の望みだから、貴方は生きて」

 真っ直ぐに向けられたその瞳は、憎悪の念など一欠けらも有りはせず、代わりに何か暖かいものに満ち溢れていて。
 我に返ったラキアが真意を問おうとする間もなく、リディスの拳が彼の体に沈んでいた。薄れゆく意識の中で、彼はリディスに必死に手を伸ばす。
 それは、今手放したらもう二度と彼女には会えないような、そんな気がしたから。それなのに――
 伸ばされた彼の手に少し冷たいリディスの手が重ねられる。ぼやけた視界に一瞬捉えた彼女の顔には、悲しい微笑と、月明かりに光る一筋の涙。



 たった一つ、どうか意地悪な神様、これだけはお聞き届け下さい。
 バベル帝国の宰相である彼を、茨の道からお守り下さい。
 迫り来る全てのものからお守り下さい。
 そのためだったら私、何でもしますから。
 今まで、さんざん私の大切なものを奪ったんだから、今度は私の願いも聞いてください。
 本当に私、何でもしますから………本当に……―――


 陽が昇るにはまだ早い。
 夜はまだ、始まったばかり。






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