「青の部屋」
吹き抜ける風もなく、空気は重く暗い影を落としていた。
城の中とは思えないほどその部屋は閑散としており、全体を青に統一された家具や丁度類がより一層寂しさを際立たせる。
唯一外界が見られるはずの窓は閉め切られ、青いカーテンが微動だにせずそれを覆っていた。窓の外の白い光が、青いカーテンを通って青白く染め上げられる。その淡い光だけが部屋を照らす。
この部屋に人がいるなどと誰が考えるだろう。気配を読むことに優れた者でさえ、きっとそうは思わない。だがしかし、確かにこの部屋には生きている人間がいた。
その赤い瞳の先を虚空に泳がし、銀色の髪が一房、青白い顔に掛かっているのに構う様子さえない。絨毯の退かれていない冷たい床にぺたりと腰を下ろし、壁に背を預けている。投げ出された右手に何かが光った。
目の前に置かれた昼食には手を付けられた跡など全くなく、ここに戻って来てから三日間。彼女は一度も生存本能というものを見せていなかった。
何度か水だけは口に入れたが、しかしそれさえも正確には「飲んだ」のではなく、「飲まされた」のだ。倒れるのは時間の問題だった。
突然、静寂を破って小さく、だがはっきりと扉を叩く音がした。心なしか急いているように聞こえる。
この時間にこの部屋を訪ねる者はいないはずだ。
アゼルの手により半ば軟禁状態にある彼女の部屋を訪ねるのは、日に三度食事を運ぶ侍女と、時折足を運ぶアゼル本人だけだった。
もう一度、今度は幾分力強く扉が叩かれた。
ほんの少し意思を取り戻した赤い瞳が扉に注がれる。だが彼女がした動きは本当にそれだけで、その口から返答が漏れることはなかった。
また静寂が部屋を支配する――はずだった。
諦めて去ったかと思われたノックの主は、返って来ない返事に構うことなく扉を開けた。
「リディス? いるんでしょ?」
彼女が「姉」と呼んだ人だった。
「駄目じゃないの。ちゃんと食べなさい。このままでは本当に死んでしまうわよ」
「………………アリシア…姉さん」
黄金色の腰まである、ゆるいウェーブの掛かった髪を揺らし、アリシアと呼ばれた女性はリディスの横に腰を下ろした。出会った時から、この彼女がリディスに向ける眼は優しい。それだけが救いだった。
「良いこと? アゼルに何を言われたか知らないけど、気にしては駄目よ。貴方は、貴方の信じる道を生きなさい」
「……………」
小麦畑のような茶色の瞳を真っ直ぐリディスに向け、その両手で彼女の頬を優しく包んだ。表情の戻った顔に困惑の色を浮かべて、リディスはアリシアを見上げる。
「屈しては駄目。貴方の人生は貴方だけのものよ。…………それと私、貴方に謝ることがあるわ」
言いにくそうに俯く姉を赤い瞳に映し、続く言葉を待った。
「……リディス、私は――……」
「姉さんっ!兄さんが来る!」
走ってきたのだろう。大きく肩を上下させ、アリシアと同じ黄金色の髪が乱れていた。
「…………ギル…?」
リディスが呟いた言葉に弾かれるようにしてその少年は首を回す。険しかった表情を途端に笑顔に変えると、ギルヴィアは早口に言った。
「リディス!君は一人じゃない。僕も、アリシアも君が大好きだ。……アゼルの意地悪なんかに負けないで」
「また会いに来るわ。だから、ちゃんと食べて頂戴。栄養失調で妹が死ぬなんて嫌よ?」
念を押すようにリディスを見て、アリシアは足早に扉へ向かった。待っていたギルヴィアが先に彼女を廊下へ押し出す。少年は部屋の中の、彼のもう一人の姉を心配そうに見やった。
目が合うと彼はにっこり微笑んで……、静かに扉は閉まった。
壁の向こうの足音が聞こえなくなると、また青の部屋を静寂が支配する。だが、さっきと違うのは、確かに存在感があること。確かにそこに人がいる気配があるということ。
少女の虚ろだった瞳に意思が宿り、投げ出されていた人形の手には再び命が宿った。
「私は……馬鹿だ」
さっきまで一人だと思っていた。また自分の事しか考えてなかった。
このアシュハルトにも自分の身を案じてくれる人がいることに、気が付きもしなかった。
「まだ大丈夫――」
まだやれる。まだ生きていける。まだ――……全てが終わったわけじゃない。全てが闇に染まったわけじゃない。
今は見えないけれど、ちゃんとその裏には光があるはず。それを信じて、努力することなら誰にでも出来る。そう、弱い私にでもそれだけは出来るはず……。
一度諦め、自ら去ったあの場所を、リディスは思い出した。
右手の中にある何かを強く握り締める。
今はまだ戻れない。今のままでは戻れない。まだ自分からは何も努力してないから。
リディスは小さく息を吐くと、手を伸ばし、目の前に置かれた冷たい食事を手繰り寄せた。途端に腹が鳴る。青白かった顔に赤みが差した。
取り合えず今は、もうすぐ来るはずの人物に備えて腹ごしらえをするのが賢明のようだ。
ふらつく足で床を踏みしめ、何とか立ち上がると、リディスは窓を覆ったカーテンを開けた。痛いほどの白い光が彼女を包む。
このずっと向こうに、自分が望む場所がある。
まだ、諦めない。