目が覚めて、こんなに気分の悪かった日は過去にない。
 いや、あの日。あの事故の日の次の朝も最悪の気分だった。だけどあれは自分が悪い。あの朝感じたのは罪悪感。だけど今日のこの嫌な気分は……多分、怒りだ。

 まだ少し鈍い痛みが残るみぞおちの辺りをさすりながら、ラキアはベッドから静かに下りた。左に首を回せば床の短剣が目に入る。短剣の刃が、窓から差し込む光を反射してキラキラ光っていた。
 その風景が彼に、昨夜の一件が夢ではないことを知らせる。そして視界の端に映る扉の向こうには、その部屋の主がいないことも……。
 ラキアは扉まで歩み寄ると、おもむろに拳を大きく振りかぶり、思い切り殴った。
 くぐもった重低音が部屋に響く。外にまで聞こえていて、誰かに不審に思われるとかいうことは考えもしなかった。さすが城の扉だけあってびくともしない。それがまた無性に頭にくる。
「………っ、くそっ!」
 ラキアの右手がもう一度扉に沈んだ。


「青の指輪」


「『紅茶でもいかがですか?』と『少し落ち着かれては?』と『どうぞ』……、もしくは無言で渡すのと、どれが一番良いですかね?」
 ラキアの書斎の扉の前で、セラフィーは横にいるアリヤに助言を求めた。彼のことだから本気で助言など必要としているわけではないだろうが、問われたアリヤは眉間にしわを寄せて真剣に考え込む。
「う〜ん……、『少し落ち着かれては?』は、ちょっとあからさまですよね。かと言って、無言っていうのも何だか「言いたいことがあるなら言えよ」って感じですし……、ここは一言「どうぞ」だけで良いのではないでしょうか?」
「まぁ、その辺が無難ですね」
 小さくうなずきながら、セラフィーがノブに手を掛ける。わずかな隙間が開いただけだというのに、中から張り詰めた空気が流れてきて身に刺さった。

「……失礼します」
 反射的に引き返そうとした体を理性で抑え、ここ三日間非常に機嫌が悪い主の様子を盗み見る。案の定片付けなければならない書類は机の上に山と積まれ、日を追うごとに標高は増すばかり。本来ならペンを持った手が走るべき場所には、山と山との間を縫うようにして足が置かれていた。
 足の主の顔は書類の山に隠れて見ることが出来ない。
 何事もなかったようにつかつかと進んでいくセラフィーの後ろを、強張った体でアリヤがついていく。

 歩を進めるに従って、ラキアの顔が少しずつ現れてきた。心なしか眉間にしわが寄り、紫の瞳は伏せられている。腕は組まれたまま、二人が入って来たことに気付いていないかのごとく微動だにしない。
 特に外見上はいつもと変わらない。
 確かに未だかつて、書斎に入ったら彼の足しか見えなかったなどという状況に遭遇したことはなかった。が、こんな荒れた雰囲気の彼を見たことは今までにない。

「どうぞ」

 外界から遮断されていた彼の思考に、セラフィーの一言が侵入する。ふと、ラキアは同じセリフを言った一人の侍女を思い出す。
 叔父を失った原因の女を思い出す。 



 当時十四歳であったラキアは、このバベル領内で最も頼れる人物を突然亡くした。
 丁度それは二人が午後の休憩を共にとっていた時であり、あまり表情を崩さないラキアが、唯一気を緩めることの出来る時間だった。二人にお茶を運ぶのはいつも同じ年若い侍女で、時々その侍女も談笑に加わることがあった。
「叔父さん、やっぱり書斎の外の庭には何か植えましょうよ」
「その話ですか。あの庭に何か植えたら書斎に光が差し込まなくなるでしょう?」
 少し前に言い出したことを、ラキアは忘れてはいなかったらしい。この叔父の方も先日のやり取りを思い出したらしく、少し微笑む。
 優しく包み込むように微笑む彼を見て、こんな人でも我を忘れて怒ることがあるのだろうかと、ラキアはふと思った。
「……何年…何十年先の話ですか。それに木じゃなくても、花でも良いじゃないですか」
 他の手入れの行き届いた優美な庭を思うと、書斎の大きな窓に面した部分だけが、どうも寂しすぎるように思えた。そこだけ意図的にくり抜いたように、他とは違い、ただ芝生が広がっているだけである。
「あんな誰にも見られないような所に花など植えては可哀想ですよ」
「見ますよ。俺や、叔父さんが」
 相変わらず調子を崩さない叔父に、焦れったそうにラキアは口を尖らせた。
「………あの場所は、ただの芝生で良いんですよ」
「なんでです?」
「何ででもです」
 およそ四十代の男のセリフとは思えないような事を言った人物に、ラキアは恨めしそうな視線を投げた。

「どうぞ」

 そのとき丁度いつもの侍女が、トレーに二つのティーカップを載せて現れて、追及しようとするラキアの言葉は呑み込まれた。
「ありがとう………具合が悪いのですか?」
 穏やかに微笑んでティーカップを受け取ろうとした叔父がその手を止め、心配した顔でその侍女を見た。
 叔父の心配した声音に、ラキアも彼女を見る。その時にはもう、彼女の極度に震えた手は後ろに隠されていて見ることは出来なかった。
 見ていたらまだ叔父は生きていたかも知れない。
「いっ、いえ……。その…、大丈夫です」
 一瞬びくっと怯えた表情を浮かべたのをラキアは見逃さなかった。きっと叔父も気付いただろう。だけどラキアはその時、叔父に心配されて慌てたのだろうと特に不審に思うこともなく、またそれを大層あとで後悔する。
 今でも考えてしまうのは、あの時叔父は気付いていたのではないだろうかということ。気付いていて、それでもそのティーカップを手に取ったのではないだろうかということ。
 そう、致死性の毒の入ったティーカップを……。
 それから後の情景はコマ送りのようにラキアの記憶に一つ一つ刻まれていった。
 カップに口をつけ、カップが地面に転がり、叔父が倒れる。
 震えがもう止められない段階まできた侍女が、ラキアの分であったはずのカップの中身を飲み干す。
 そして倒れる。
 折り重なるように倒れた二人を、自分が呆然と見つめている。
 立ち尽くしている。
 叔父の手が動く。
 胸元から何か光るものを取り出し、最期の力を振り絞ってそれを首の鎖から引き千切ると、自分へ差し出す。
 差し出しかけた手が地面に落ちる。
 もう動かない。
 少しも動かない。
 二度と、動かない。



「どうぞ……」

 紅茶のカップを置こうとしたセラフィーの手が空中で留まった。置く場所がなかった。
 いっそ山と積まれた不安定な書類の上に置いてしまおうかとも考えたが、カップが倒れた場合、被害を受けた書類の後片付けは全て自分に回って来そうだと予感してやめた。
 仕方なくトレーに載せたままラキアが手に取るのを待つが、彼が動く気配は一向に見えず、それどころか彼が紅茶を出していることにさえ気付いていない様子だった。
 アリヤが後ろで「どうするんですか?」という視線を投げかけているのが分かる。それには応じず、セラフィーは目の前にいるのにどこか手の届かない場所にいってしまっている彼の主をじっと見た。
「………生きているだけましか…」
 いぶかしむセラフィーの視線は無視して、ラキアは紅茶のカップを取る。あの事件から今日に至るまで、セラフィーが持って来る飲み物以外は口に入れていない。
 空いている片手で首に掛かった鎖を手繰り寄せた。それに繋がっている物体を手にして、初めてそれがいつもと違う感触なのにラキアは気付く。
 手の平に載せられた物体は、叔父からあの日託された古ぼけた銅色の鍵ではなく、女神イシスの刻印が成された青い王家の指輪だった。この三日間同じものを付けていたはずなのに、気付かなかった自分に呆れる。

 ではあの鍵はどこへ行ったのだろう。これは確かに彼女が持っていたものだ。嵐の中に形振り構わず飛び出していくほど大切なもののはずだ。
 それが今自分の手元にある。
 多分鍵は彼女の手にある。

 口を付けるわけでもなく、ただじっと茶色く揺れる水面を見ていたラキアに、セラフィーはゆっくり口を開いた。
「……ラキア様、何かを忘れる時には、別のことに集中するのが一番良いですよ。今は対アシュハルト戦のことだけお考え下さい」
「誰が忘れると言った?」
「………忘れないのですか?」
 少々間の抜けた声でセラフィーが聞き返す。小さな波紋の出来たカップの中の液体から視線を上げたラキアの顔には、意外にも笑みが浮かんでいた。
 しかしその笑みは到底去った人物のことを懐かしむようなものではない。むしろ敵対するものに向けるような、自信に満ちた不敵な笑いだった。
「誰が忘れると言った? 誰が諦めると言った? 自分で勝手に去って行った奴のことなど思いやる道理はない。俺は俺で好きにさせてもらう」
「ですが……」
「お前はあいつの素性を知っているな?」
 開きかけたセラフィーの口が不意につぐまれる。ラキアの言葉の意味をはかりかね、アリヤも彼を見上げた。
「あいつが採用される時に調書に記入された住所を訪ねさせた。少なく見ても十年は誰も住んでいなかったはずだ。そこいら中にツタが張って、扉にまで伸びていた」
 セラフィーのことを見もせずに、ラキアは椅子から腰を上げ、窓際へ移動する。
「それを不審に思わず、あるいは知らずにあいつを俺の側に置き続けたというなら……お前は無能な執事だ」
「…………」
 執事がそこまで調べるなどと言うことは稀である。余程不審な点がない限りまず普通の執事は調べない。
 いくらなんでも無能は言い過ぎだろうとアリヤはわずかに口を開くが、今は自分が口出し出来る状況ではないのは明白だった。
「で?彼女は何者だ?」
「…………アリヤ」
 言外に「出て行け」ということだろう。それを察し、扉へ向かいかけたアリヤをラキアが小声で制止した。
「ここにいろ。聞く権利はあるだろう。だが他言はしないと約束するならばだ」
「誓って、そのようなことは致しません。どうぞ私にもお聞かせ下さい」
 すがる様なアリヤの瞳にとうとうセラフィーも溜息をつき、無言で了承した。まぁ、ラキアがそう決めたのだから、執事である彼にそれを覆すことなど出来やしないが。
 俯いた顔を上げれば、そこにはさっきまでとは打って変わってすっきりした表情のセラフィーがいた。
「彼女は、アシュハルトの者でしょう。それも……かなり身分が高いはずです。貴族か……、あるいは王宮の直属の者か」

 聞き取れるか取れないかというほど小さな声。だが語られた内容は余りにも大きかった。
 アリヤは驚きを隠せず目を見開く。ラキアはといえば―――
「……余り驚いてませんね。もしかして感付いてました?」
 真相を話す前と少しも違いが見られないラキアに、セラフィーが問う。
「感付くわけないだろう。二ヶ月近くの間一緒にいたが、そう思わせる要素はどこにもなかったじゃないか」
 当然と言うように語る。ならばなぜそうも平然としていられるのか、その疑問に答えるかのようにラキアが口を開く。
「あいつが本当はどんな立場の人間なのか、そんなの知ったこっちゃない。居場所が分かれば良いんだ」
「どうするおつもりですか?」
 こみ上げる不安感を抑えきれず、セラフィーは問いかける。場合によっては力尽くで止めなければいけないようなことを考えているかも知れない。そんな不安そうな彼の問いには答えず、ラキアは窓の外に広がる青い空を見上げた。

 まだ同じ空の下にいるのだ。
 その向こうにいってしまったわけではない。
 まだ手の届くところにいる。
 どんなに手を伸ばしても届かないところにいるわけではない。

 まだ、諦めない。






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