赤い絨毯が敷かれた長く暗いこの通路は、昔からどうも苦手だ。
いつ果てるとも知れない王の玉座へと続く道を歩きながら、リディスは思った。
「小さな勇気」
「王が、呼んでいる」
短く告げられた冷たい言葉は、はたから見れば普段と変わらない。でもリディスは気付く。
少し、戸惑ったように感じたのは、自分の気のせいではないだろう。滅多に見られないアゼルの気の乱れに、この人も人間なのだと失礼なことが頭に浮かぶ。
「いつ?」
「一時間後」
一瞬垣間見えた人間らしい感情はすぐに消えた。それが何とも惜しくて、リディスは部屋を後にしようとしたアゼルを、思わず引き止める。
「兄上…」
「……何だ?」
引き止められたことがそんなに驚きだったのか、無表情だった琥珀色の瞳がわずかに見開かれた。こんなに感情を帯びたアゼルの顔は久しぶりに見た。言ってみれば天然記念物級だ。
「何を、笑っている」
「えっ?……あぁ、すいません」
知らないうちに自分は笑ってしまったらしい。両手を顔に当て、確認する。確かに口の端が上がっているのが分かる。
「お前は……、いや、何でもない」
「ちょっと待って下さい!そこまで言っておきながら………あっ」
無情にもドアは、止める自分を無視して目の前で静かに閉じられた。行き場を無くしたリディスの手が、力なく下ろされる。
「全く…。少しくらい、笑ってくれたって良いじゃないですか」
確か自分がここに来た当初は、もう少し表情豊かだった気がする。自分が十三歳、彼が二十歳。そしてアリシアは十九歳で、ギルヴィアが十歳だったはず。
そこまで考え、リディスの顔が急激に色を失くしていった。
「私が……、私が、来たから?」
自分が来た時から、兄はおかしくなったのだろうか。
そんなはずはないと思おうとする心は、浮かんで来た暗い考えに打ち消され、予想はだんだんと確信に変わる。なぜ今まで気付きもしなかったのだろう。十三歳でここに来て、十八歳の今日まで、なぜ周囲の状況の変化に心を配らなかったのだろう。
それは、きっと、自分のことだけで精一杯だったから……。そして今は気付ける余裕が出来たのだ。
自分だけが辛いのではない。自分だけが可哀想なのではない。復讐だけが生きる道ではない。殺すことだけが解決ではない。それに気付けたから、貴方のおかげでそう思うことが出来たから。
「ラキア様……」
リディスは、自分に周りの人のことを考えるだけの余裕をくれた者の名を、静かに呼んだ。気付いて終わりではなく、むしろこれが始まりだから……。
「兄上、貴方の瞳を暗くさせるものは、一体何なんです?」
原因の一端に自分も必ずいるはずだ。ならばその原因を知りたいと思う。凍て付いた彼の心を溶かし、また少しでも笑ってくれることを望んで。
「暗いな…」
小さなリディスの呟きは、長い廊下の薄闇に消えていった。敷かれた絨毯の厚みに足音も吸い込まれていく。この長い廊下の先の大きな扉があり、その向こうに王が――アシュハルトのケゼフ王がいる。
永遠に続くかと思われた廊下に終焉が訪れ、手を伸ばした先にある壁をリディスは押した。扉は驚くほど軽く、重さを感じさせなかった。
「リディスです」
扉を開ければそこには光があると思っていた。城の中心である玉座は燦然とした光に包まれていると思っていた。
だが実際は、王の間にもただ薄闇が広がっているだけ。むしろ陰惨な雰囲気をはらんでいる分、こちらの方が暗く感じられる。バベルに赴《く前、一度報告にここを訪れた。その時もあまりきらびやかではなかったが、今よりよっぽど良かった。
「よく戻ってきた。近くに…」
「……王?」
必要以上に甘い声音に違和感を禁じ得ず、リディスはつい問い返してしまう。
「…リディス、王などと他人行儀な呼び方はしないでくれ。以前のように、父上と呼んでおくれ」
『父上』という単語にリディスの方が敏感に揺れた。
彼女がケゼフの養女であるという事実は、公然のものではなかった。何も心配するなという彼の言葉でリディスも詳しくは知らないが、自分が王の娘として扱われていることを知っているのは城の中枢部の者たちだけらしい。その彼らにしたって、「王が物好きで哀れな娘を拾ったのだ」という意識しかなかった。あるいはもっと下卑た憶測を交わす者さえいた。
リディスは素早く両目を左右にはわせる。誰もいなかった。
「すみません、父上…。どうして、明かりも付けずに、こんな……」
――暗い場所に…?
「……暗いほうが落ち着くのだ」
「ですが――」
「そんなことより早くこっちへ」
玉座がこんなに暗くて良いはずがない。良いはずがないが、今のケゼフに逆らうことは到底無理であった。
逆らえない何かに後押しされ、強張る足を動かして、リディスは玉座へと続く階段を上る。あと二、三歩という所で、不意に暗闇から伸ばされた手に手首をつかまれ、勢い良く引っ張られた。
「父上?」
「リディス……」
リディスは言葉を失う。
あまりにも……、あまりにも、威厳をたたえているべき王と、自分の瞳に映る病的にやつれた男に食い違いがある。
「どう…したんですか……?」
聞いて良いことなのか考える前に、リディスの口が言葉を紡いでしまう。問われたケゼフは、ただ狂気染みた微笑を浮かべているだけで、何も言わない。
「リディス、お前のことを心配していた。良く無事で帰って来たな。……もう何も心配しなくて良い。後は、復讐は…、全て私に任せなさい」
「父上……、私は――」
「あぁ、憎いな…憎い。バベルの民は皆、罪人だ…。血に……まみれた国だ」
既に心配の域を越して、恐怖でリディスはものが言えなかった。これは彼女の知っている王ではない。
病人のようにやつれた体、焦点の合わない輝きを失った琥珀の瞳。つやを無くした金色の髪。一体自分のいない間に、彼に何があったのだろう?
そこまで考え、やがてリディスは自分の考えを訂正した。
「自分のいない間」ではない。「自分が来た時から」あるいはそれよりも前から、兆候が無かったわけではない。一気にこのような姿になったのではなく、多分、徐々に徐々に蝕まれていったのだ。
ちょっと視野を広げれば、かすかな叫び声を上げている人や、自分を励ましてくれている人が周りに沢山いたはずなのに。心を閉ざしていた五年間より、今この時のたった一日の方が、余程重要な時を刻んでいるではないか。
「父上…、少し、お休みになって下さい。それから、ちゃんと何か口に入れて下さい。でないと……一国の王として、公正な判断が出来なくなってしまいますよ?」
労わるように、優しくリディスはささやいた。つかまれたままの左手首が痛い。つかんでくる彼の手の感触が、ほとんど骨であるのが……痛い。
虚ろに彼女を見上げていたケゼフの瞳に、一瞬光が走り、またすぐ消えた。
「父上、みんな心配しております。少し、休んでください」
「………お前は、何を見てきたのだ?」
「え?」
宿った光は生気ではなく、一層激しい狂気だった。
リディスの手首をつかみ、ケゼフは彼女を突き飛ばす。その瞳にはさっきまでの優しさは微塵も見られなかった。
「………っ」
突き飛ばされた彼女はとっさに受身の姿勢を取り、冷たい床に体を打ち付けるのだけは免れた。
「お前は、バベルで何を見て来たっ!?」
義父の豹変が理解できなかった。ただ恐怖が身を強張らせる。
「リディス……、私の真の味方はお前だけなんだよ。なぜ…なぜ………、なぜそんな目で私を見る!?」
この言葉に、怒りというよりも悲痛の色を感じ取り、リディスはますます困惑した。
自分の心境の変化を、彼は敏感に感じ取ったのだろう。問いに答えることは出来るが、今この瞬間にそれをすることが果たして得策かどうか、彼女には分からず。仕方なく黙ったまま、自分を見下ろしてくる琥珀色の瞳を見つめ返した。
どれ程そうしていただろう。
一分かも知れないし、十分かも知れなかった。どちらにしてもリディスにとっては永遠と感じられる時だった。先にケゼフが目を逸らす。
「行け……」
すでに狂気さえ帯びていないそれは、年老いた老人のものより力なく、とても四十代の男の声とは思えなかった。急速に時が経ち、ただの老人のようになってしまった男。何か言いそうになるのをこらえ、リディスは静かに玉座から離れる。
「……失礼します。父上」
入ってきた時より扉が重く感じられた。薄暗いとは言え、廊下よりは幾分明るかったのだろう。扉を閉めると同時に目がくらみ、一瞬何も見えなくなる。
「おい」
予想外な人の声に、リディスの肩が大きく揺れ、思わず後ずさった。
「あ、あ…あ兄上!?」
「なぜそこまで驚く」
不審そうに見下ろしてくる瞳に気圧され、リディスは俯きながらもごもご言い分けする。
「だっ、誰だっていきなり暗闇から声掛けられたら――」
「……口答えする元気があるなら大丈夫だな」
「え?」
顔を上げればアゼルはもう背を向けてさっさと歩き出していて、慌ててリディスは後を追う。手加減などしてくれないその歩幅に、自然と小走りになった。
「兄上、父上に何か用があったんじゃ――」
「ならばなぜ、王の間と逆方向へ歩く必要がある?」
「……もしかして…、心配し――」
「黙って歩け」
アゼルは一度もリディスを見ずに、どんどん歩いていく。その横を遅れないようについて行きながら、リディスは来た時よりも廊下の薄暗さを感じない自分に気付いて、微笑する。
「………兄上は、すぐに人の話の腰を折る」
「お前が下らないことを話すからだろう」
「……ありがとうございます…」
相変わらず放たれる言葉は冷たいが、でも自分は知っている。心配してくれたのだ。多分。
無表情で横を歩く義兄弟をちらっと見、リディスはまた心が温かくなって行くのを感じた。