「えーっと……こっち! いや、こっちかな?………もしかして私――、…そんなこと無い、そんなこと……」

 一体何年この城に住んでいるのか。そう自問自答し情けない気持ちになりながら、リディスは薄暗い廊下をおぼつかない足取りで二、三歩進む。そしてもう一度立ち止まり、二手に分かれる通路を交互に見やった。
「…………迷子だなんて、そんな馬鹿な…」
 呆然と紡がれた言葉は何の説得力も持たず、静寂の中に呑まれていった。


「絡まった糸」


 初めて見たとき、人形なのではないかと本気で疑った。
 自分とそう変わらない歳の少女は無表情で、兄に手を引かれなければ歩くことさえ出来ないようだった。
 いや、出来ないのではなくて、きっと「しない」のだ。何か大事なものが抜け落ちてしまったような空虚さが、ただ、怖かった。


 ぼんやりと、何をするでもなく、ギルヴィアは自室の窓から外の風景をその青い瞳に映していた。姉とお揃いの青い瞳は、何の穢れも知らないというようにどこまでも澄み、どこまでも深い。
「リディス……どうしてるかなぁー」
 意味も無く呟いてから、彼は先日やっと会うことの出来た義姉を思い出した。

 一目彼女の様子を見て、ギルヴィアは全身の血が引いていくのを感じた。振り払おうとしても決して消えない、初めて会った時の彼女の姿。一瞬にしてそれが目の前の彼女と重なり、五年前に戻ったかのような錯覚に陥った。何の希望もなく、何もかも諦め捨て去り、外界との交流を絶ってしまった記憶の中の少女。
 更に彼を不安にさせたのは、五年前の空虚な少女にさえあった「目的」と呼べる何かが、青い部屋で肢体を投げ出した彼女になかったことだった。記憶の中の最悪の状態の少女よりも空虚なものを、ギルヴィアはその時初めて見た。

 いつも自分の知らないところで大事なものが壊れていく。壊れた後でそれを知り、そしてただ後悔に沈む。
「もう沢山だ……」
 後悔を抱くだけの自分に苛立たしさを覚えながら、彼もまた必死に何かに抗い、同時に何かに手を伸ばしている一人だった。





「だから、あの通路を左に曲がって……階段を降りたんだから、今いるのは多分三階で……。それから……あぁ、あの廊下を右に曲がったのがいけなかった…の、かな………?」

 答えが返って来たら来たで決まりが悪いのだが、リディスは誰かに確かめずにはいられなかった。心細いよりずっと良い。ただでさえこの東棟は人が少ないのだ。何故だかは分からないが、昔からあまり多く人を配置しない。
 ちらっと窓の外を見る。遠くに見える城壁辺りに、城付きの兵士たちが歩いている。視界の中に人間を捉え、リディスはほっと胸を撫で下ろした。
 取り合えず異世界に迷い込んだわけではない。いざとなれば窓から外の庭に飛び降りれば何とかなるだろう。どんな場所でも地面は繋がっているのだから……。そう考えると気分も楽になる。

 アシュハルトに戻って以来、半ば軟禁状態にあった彼女だが、本人にその感覚はなかった。むしろ自分で勝手にあの部屋に閉じこもり、人を寄せ付けなかったのだから、アゼルが責められる要因は何一つなかった。
 変わり果てた王に面会しても自分を保てているのは、アゼルや他の二人の姉弟、そして遠く離れた地にいる守りたい人、彼らの存在があるからだ。確かに誰かが自分を心配し、存在を認めていてくれるのを知っているから、だから今自分は自分でいられる。
 王との面会の後、しばらくしてリディスはしばしば部屋を出るようになった。そして彼女の兄もそれについて咎める様子はない。
 兄の目を盗み心配して会いに来てくれたギルヴィア。時間がなくてその時あまり話すことの出来なかった、三つ年の離れた弟に会おうと張り切って部屋を出たのはいいが、どういうわけか道に迷ってしまった。
 別段急ぐ用事でもない。時刻は正午を過ぎた頃、歩いて入ればそのうち着くだろう。
 余裕を取り戻したリディスの頭は、「探険」という二文字に占領されていった。






 何とはなしに見ていた風景に、良く見知った人間が割り込んできて、ギルヴィアは目を見開いた。
「…リディス……?」
 遠めにもそれが自身の血の繋がらない姉だという事は判別できる。あんな見事な銀髪は彼女以外に見たことがない。
 本当に良く似合うのに、彼女はあまり綺麗なドレスを着たがらない。似合うといっても信じてくれない。そんな彼女だから、今着ている服も王家の者にしては質素すぎるものだった。

 リディスは正式に王家の養子になったわけではなく、ごくごく僅かの者しか彼女の存在は知らない。
 大体、実子がいるにもかかわらず養子を取る王家など聞いた事がない。そんなことをすれば争いの種になるだけだ。だが王の、彼の父親のリディスへの異常なまでの執着心は幼心にも理解できた。そして純粋に恐怖を感じた。
 当初は人形のようだった少女は、それでもだんだんと心を開いてくれるようになり、成長していくのが分かった。だけど王は変わらない。彼はむしろどんどん虚ろになっていく。

 ギルヴィアが小さかった頃、父親であるケゼフは包容力のある優しい大人の男だった。少なくとも思い出の中の彼はそうなのである。
 だが今は違う。ある時がらりと変わってしまった王。ちょうど隣国バベルで内乱が起こった時くらいだっただろうか、彼の時間はその日から動いてはいない。仮に動いていたとしてもそれは決して前へではなかった。

 少年はゆっくり窓から離れ一度大きく体を伸ばすと、多分道に迷って困っているのだろう義姉のことを思いながら部屋を出た。




 手始めにと手近にあった古ぼけた重い扉。それは探険というには少し度が過ぎたかも知れない。
 そう考えながらも勝手に進んでいく足を止めようとはせずに、リディスは薄暗い部屋を静かに進んでいく。絵画やら鎧やら、良く分からない骨董品の類が所狭しと置かれている。芸術に疎い彼女でも、それなりの価値があるように思われるものばかりだ。その割には扱いはぞんざいで、布が被せられているわけでもない絵画などは埃で薄っすらと表面が白くなっている。
 辛うじて人が一人通れるくらいのスペースを、辺りの造形品に触れないように奥へ奥へとひたすら進んだ。
 確信があったわけではない。「何かがある」などと期待したわけでもない。ただ憑かれるようにしてリディスは足を動かす。
 やがて部屋の最奥に行き着き、今まで感じていた圧迫感が一気に消える。それは隙間無く置かれ積み重なった造形品たちの壁が途切れたから。途切れたその場所からは人為的なものを感じた。
 そしてリディスは自分の前に置かれたものを見る。ここに辿りつくまでに見たどの造形品にも、丁寧に扱われた気配など微塵も感じられなかった。だが目の前のこれには大事そうに布がかけられ手入れが行き届いているのが分かる。
 形からしておそらく絵画の類だろう。リディスは被せられた布に手を掛け、ゆっくりそれを床に落とした。
「………綺麗」
 意図的に隠されていたそこには一人の女性が描き出されていた。薄暗い部屋の中でそこだけ光に照らされているような錯覚に陥る。柔らかく微笑む様子は幻想的で、いつの間にか緊張で強張っていたリディスがほっと息をつく。
 黒い髪に白い頬。華美すぎない彼女に良く似合う青いドレス。それに乗せられる白く細い手。同性から見ても素直に賞賛を称えたくなるような人だった。そして――……
「紅い……瞳…」
 自分と同じ赤い瞳で微笑む女性。十八年の人生の中で自分と同じ瞳の色はまだ見たことが無かったが、たんに自分が知らないだけで、結構ありふれた色なのかも知れない。
 同じ血の色の瞳を持ちながら、自分とは全くかけ離れた美しい人。自分はあんなに優しく微笑むことは出来ないと、ぼんやりした思考の中でリディスは思った。同じなのは瞳の色だけ。
 この綺麗な女性が何者なのかは皆目見当が付かないが、リディスは今にも絵から抜け出して来そうな彼女から目が離せなかった。まるで本当に自分に笑いかけてくれているように感じる。不思議と心地良い。甘美な誘惑に抗うことは無駄なことだと思えてくるような微笑。
 そのままこの心地良さに身を預けてしまおうとした時、不意に背後で起こった物音が誘惑を断ち切った。

「何をしている?」
「……兄上…」

 こんなに近くに来るまで、いや物音がするまで全く気が付かなかった。自分にしてはあまりにも珍しい失敗にリディスは驚いた。
「その絵を見たのか」
「あっ、はい。すみません、その…道に迷ってしまって……。この方はどなたなんですか?綺麗な人ですね」
 一瞬眉をしかめたアゼルに気付きもせず、リディスは無邪気な賞賛を口にした。アゼルは一度絵を見、すぐに視線をそらすとぼそりと呟く。
「お前は、未だに城の中で迷っているのか」
「うっ……だっ、だって久しぶりだったから」
 うな垂れるリディスを見て、アゼルは一つ溜め息をついた。その口元に僅かな笑みが浮かんでいたことに、うつむいた彼女は気付かない。アゼルは視線を絵画に向けた。
「哀れで愚かな女だ……」
「何もそこまで言わなくたって良いじゃないですか!!」
「……お前じゃない」
 投げかけられた辛辣な言葉は、どうやら絵画の女性に向けられているらしい。リディスは顔を上げ、アゼルの視線を辿った先で微笑む美しい女性を見る。ちらりとアゼルを盗み見れば、無表情の中に何か知るべき感情が隠れている気がして、リディスは漠然とした不安に駆られた。
「兄上……?」
「お前はもうここには来るな」
 リディスの返事を待つことなく、アゼルは彼女の細い手首を掴んで歩き出した。いつもとそう変わらないように見えるが、ついぞこんな強引な扱いは受けたことがないとリディスは思う。彼が何か言うときは命令口調で威圧的なことが多々あるが、それは癖のようなものであって、決して相手の意見を無視しようと思っているわけじゃないことをリディスは知っていた。ただ誤解されやすいだけなのだ。
 だから理由あって反論すれば彼は受け入れてくれた。でも今は彼女の意志を全く考えず、力で引っ張っているのだ。リディスは痛みを訴え始めた自分の手首を見た。掴まれた手首は痛みと同時にアゼルの手の冷たさも伝えてくる。

「あ…兄上っ!」

 リディスの訴えにアゼルが前を向いたまま立ち止まった。彼女の方は見ようとせずに口を開く。
「ここには、王がよく来る。鉢合わせたら面倒だ。もう来るな」
 低く独り言のように紡がれた言葉をリディスが噛みしめる暇もなく、彼女の手首を掴んでいるアゼルはまた歩き出した。だがさっきよりは幾分歩調が緩やかだ。掴まれた手首も痛くはない。今はただ伝わってくるアゼルの手の冷たさが痛かった。


 二人が部屋から出た時には既に陽が西に傾いていた。薄暗いところから一気に明るいところへ連れ出され、リディスは両目を瞬かせる。突き刺すような痛みは瞬きと共に軽減していく。
 不意に左肩にずしりとした重みを感じ、慌ててリディスは足に力を入れた。こらえ切れなかった分は背中の壁が受けてくれる。
 目を開けてみると左肩に彼の頭が乗せられている。見えない彼の表情に不安を感じて口を開く。

「兄上?大丈夫ですか?具合でも――」
「違う」
「…何か、あったんですか?」
「………お前に、兄と呼ばれることにも、もう慣れたな…」
「………?」

 壁に彼の手が掛けられていなくても、リディスは多分この体勢から抜け出ようとは思わなかっただろう。それくらい今のアゼルの様子はいつもと違った。弱みなど全く見せてくれない彼だから、こうして何か少しでもさらけ出してくれるのは素直に嬉しかった。
 開いている両手でぽんぽんと彼の背中を優しく叩いてみて、これでは小さい子をあやすようだと慌ててやめる。それから少し考えた末、そっとアゼルを抱き締めてみた。
 リディスの手が彼を抱き締めたのと同時に、アゼルが緩慢な動作で顔を上げ。琥珀の瞳が見たことも無い光を宿しているような気がして、言い知れぬ不安が背中を駆ける。回していた手を静かに離し一歩後ろに下がろうとして、既に背後が壁であったことに改めて気付いた。
「……兄上?」
 リディスの問いかけに琥珀の瞳は応じない。真っ直ぐ自分を見下ろしてくるその瞳にリディスが耐えられなくなった時だった。


「アゼル!!」


 視界の端に金色を捉える。ギルヴィアだった。
 通路から突然現れた彼は、リディス達から数歩離れたその場所から動かずに、努めて冷静に言葉を発した。
「だめだ」
「……………」
「だめだ、アゼル」
 静かな声音はそれでも強い意志をたたえていて、ギルヴィアの言葉に琥珀の瞳がリディスから逸らされる。
 ほっと息をついたのも束の間、続いて耳元で鳴り響いたくぐもった音にリディスは再び身を強張らせた。アゼルの手が、彼女のすぐ横の壁から離れる。殴った白い壁に赤い血が滲んでいた。身動きできずにいるリディスを一瞥し、アゼルは何も言わず去って行く。
 ギルヴィアは、自分の脇を通り過ぎていくアゼルの気配が完全に消えるまで動かなかった。

「リディス」

 呆然としている彼女は壁に背を預けたまま、ずるずるとしゃがみこんだ。両腕に顔をうずめる。
 ギルヴィアは歩を進め、彼女の横に一緒にしゃがむ。
「兄上は……良く分からないけど、私のこと――」
「リディス、君は知らなきゃだめだ」
 リディスが僅かに顔を上げ、隣にいる義弟を見やった。ギルヴィアは穏やかに微笑んでみせる。
「自分の力で色々知らなきゃだめだ。僕からは言えないけど、君は知らなきゃいけないことが沢山ある」
「ギル……」
「と、思うんだけどね」
 緊張を解いて笑いかけるギルヴィアにつられてリディスも自然と微笑む。
 確かに知らなくてはいけないことが多くあるように思えた。アゼルにしても、あの態度の急変振りの裏にどんな感情があるのか自分は知らない。知らなくてはいけないと思った。知りたいと思った。自分が何をしなくてはいけないか、何をしたいのか判断するために、それは必要なことだから。
「あ、……私、ギルに会いに行く途中で道に迷ったんだった…」
「じゃあ、今から僕のとこに来る?姉さんも喜ぶよ」
「うん。……ありがとう、ギル」
「……僕はね、リディス。君も姉さんもアゼルも……父さんだって、みんな好きなんだ。だから、幸せになって欲しいんだよ」
「私も、みんな好き。ギルも、幸せになって欲しい」



 何かが上手く作用して、どれか一本の糸をひけば、絡まりあった全ての糸がほぐれていくように、何もかも上手くいくようになれば良い。
 みんなが幸せになる道が必ずあるって、信じていたいから。






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