「残酷な真実」
久しぶりに清々しい夏の午後だった。清々しいといっても既に日は遠い地平線の向こうへ沈んでおり、室内に灯された明かりのせいで外の様子はまるで見えない。その暗闇の庭と窓一枚隔てて、ラキアの書斎はしんと静まり返っていた。
「まぁ簡単に言ってしまえば、痴情のもつれってやつなんですよね」
井戸端会議のようなノリで切り出された言葉に、ラキアの張り詰めていた緊張が音を立てて崩れる。
一瞬返す言葉も見つからず、呆然と向かいのソファに腰掛ける青年を見やった。外見だけで判断すれば「優しく温和な人の良い青年」であるが、実際の中身はそんな生易しいものじゃない。一筋縄ではいかない彼の執事は、一息の間をおいて長い昔話を切り出した。
「あれだけの死者と怪我人を出した内乱。ずっと不思議だったんです。あの時この帝国で内乱を起こす意味が分からなかった……。それによって利益を得た者など一人もいないんです、バベルにも……それこそアシュハルトにおいても。でもそもそも着眼点が間違っていました。乱の引き金を引いた者は多分、利益を得ようなどとは微塵も考えてはいなかった……」
「……俺にも分かるように話せ」
「帝国の最後の王であるウォルス様と、その后ディアナ様は私よりも貴方の方がご存知ですね?」
「あぁ、なかなか楽しい……いや、立派な方々だった………」
過去の記憶を呼び覚ますように目を伏せたラキアは、思い出した数々の出来事に思わず眉をしかめた。もういない者たちのことを、しかも王族を悪く言う気はさらさらないのだが、今名が上がった彼らがそれを許さない。やめようと思考を無理やり遮断しても、後から後から王族に似つかわしくないエピソードが溢れてくるのを、ラキア自身、止めることはできない。
無理な努力はそうそうに諦め、ラキアは溢れてくるそれらの思い出に身を沈めた。
幼い頃父に連れて来られた城の中は、小さな自分にとってはまるで迷路だった。父の服のすそを一瞬でも離してしまえば二度とその迷路から抜けられないような気がして、ノリのきいた赤い服のすそがしわになるのも構わないで一生懸命握って歩いた。
複雑な迷路の中でも父が迷うことなど一度もなく、彼についていけば何の心配も要らなかった。わずかな意志の乱れもなく確かな足取りで進んでいく彼が、子供心にとてつもなく頼もしく思えたのを今だに覚えている。
手を引く父親の歩みに追いつくよう、少年は小走りに階段を上る。もう何度か父に連れられてここへは足を運んでいるのに、いつまでたっても城という迷路の攻略法は見つけられなかった。
「父さん、今日は……」
「今日は陛下にお会いするんだ」
少年の続く言葉を予想して、父親が静かに言った。その答えは少年を笑顔にさせるには充分すぎる一言で、彼の父親にして帝国の宰相ラウロは小さく笑う。
「……それにもう一人、会わせたい方がいる。きっとお前も喜ぶだろう」
それは誰だと尋ねようとした矢先に、目の前に黒い影が落ちた。見上げればそれは軍服を着た大男で、少年からすれば何かの絵本の中で見た巨人のように思え。父親より大きなその男はちらりと少年を見、軽く目で挨拶をするとすぐにラウロに視線を転じた。
「どこへ?」
「ミネルヴァ、お前は相変わらず無愛想だなぁ。もう少し前振りというものを……」
「軍人にそのようなものを求めんで下さい。……陛下の所へ?」
「あぁ、そうだ。お前もか?」
「私は…今しがた行ってきたところです」
そう言いながら眉間にしわを寄せ、少々乱れた服を片手で整えた。形容し難い表情をつくるミネルヴァを見て、ラウロが訳知り顔で微笑む。意味が分からず少年は父親と巨人を交互に見比べた。
「凄かっただろ」
「えぇ。予想以上でした、本当に……」
「しばらくこんな調子が続くぞ。あまり気にしない方が良い」
ミネルヴァの普段は無愛想なその顔に、明らかに困り果てた色がよぎる。不思議そうに少年が見ているのに気付き、最近昇進したばかりのバベル帝国第一師団長ミネルヴァ・コンスタントは滅多に見せない微笑を浮かべた。
「私の息子も大層な喜びようで。きっと貴方も喜ばれることでしょう」
そう呟くように言うなり、さっと「軍人」の顔に戻るとラウロに敬礼の姿勢をとり、少年たちとは逆の方へ進んでいく。規則正しい足音が廊下の向こうに消えてから、少年は混乱する頭を持ち上げてまた歩き出した。
「父さん……」
「ほら、着いたぞ。ちゃんと立って。挨拶は覚えているな、失礼の無いように。私のことは『父上』と」
矢継ぎ早にいつも通りの文句を少年に言うと、ラウロは控えめに扉をノックした。
「………父さ…父上…」
かなり時間が経ったけれど、未だにノックの返事がない。それどころか分厚い扉を通り抜けるほどの騒音が廊下にまで響いていた。それは笑い声であり、狼狽の声であり、およそ城には――ことさら一国の主がいる部屋から漏れる音としては――似つかわしくなかった。
心配そうに父親を見上げると、苦笑気味に彼も少年を見下ろしてくる。見たことも無いような表情の父親は、もう一度、今度は幾分強く扉を叩いた。
それでも返事はない。部屋の中の騒音はさらに大きくなっていく。
ラウロは人差し指の関節でノックするのをやめた。次いで響いたノックは彼の拳によるもので、そこでやっと部屋の中から応じる声が聞こえる。慌しく駆け寄ってくる足音のあと程なくして扉が開かれ、ひょっこり薄い青色の髪がのぞく。
「ご多忙のところ申し訳ございません陛下、本日は――」
「ラウロっ!! お、息子まで連れてきてくれたのか! よし入れ入れ。あ、風邪引いてないだろうな。手は洗ってきたな? ちゃんと石鹸で――」
「その上殺菌消毒もしてまいりました。入室しても?」
「あっ、あぁ。大きい声出すなよ? 今ちょうど寝そうなところなんだから」
誰が?という問いよりも、そう言うわりにはずいぶんと室内は騒がしかったことの方が気になったが、少年は黙って促されるままに部屋に足を踏み入れた。
扉一つ隔てて、さながらそこは戦場のようであり、そうでなければ泥棒が入って家捜しをしたのではないかと思えるほどの惨状で。王妃が住まう後宮とは思えない光景に、少年は呆気に取られてぽかんと口を開けた。
「こっちだ」
ウォルス王自身が部屋の奥へと二人を導いていく。少年とその父親は、足元に散乱する物体を踏まないように細心の注意を払う必要があった。そうして一つ部屋を横切って、綺麗なレースのカーテンを引くと、中には王妃と後宮に仕える召使いたちが数人立っていて。何かを取り囲むように群れている様子を見とめると、少年は小首を傾げた。
「……あ…」
人垣が割れ、中心に位置する小さな揺りかごが目に入り、思わず小さく声が漏れる。高鳴る鼓動に突き動かされるようにして一歩前へ進んだ。揺りかごは少年の背丈ほどあって中は見えない。かかとを上げかけた彼を制して、王妃がゆっくり揺りかごに手を入れた。
ディアナの白い細い手に抱かれ持ち上げられたそれは、大事そうに柔らかな白い布にくるまれていた。少年の目線の高さまで屈んだディアナが、そっと前へ差し出す。
無言のまま少年は手を伸ばし、止めようとしたラウロをウォルスが制す。
五歳になったばかりの彼の小さな手が、それよりもずっと小さく頼りない手に恐る恐る触れる。途端に驚くほど強い力で指をつかまれて、少年は我に返ったようにびくっと後ずさりした。それでも意識の無いはずの小さな手は彼を離さない。
困ったように辺りをきょろきょろと見回すと、そこにいる誰もが微笑ましく自分たちを見守っていることに気がついて、少年の顔が真っ赤に染まる。
「…あの……」
「気に入られたようだな、ラキア」
「陛下……」
にこやかに笑うばかりで手を貸してくれる様子は全く無いウォルスに、少年が困り果てた視線を向けた。それを受けてウォルスはまた笑う。背後のラウロが静かに声を発した。
「陛下、このたびは誠におめでとうございます」
「あぁ、ありがとう。祝いの品はありがたく受け取っておくよ。あれはお前じゃなくてゲルニカの見立てだろう、お前にしてはセンスが良すぎた」
「……えぇ、そうですとも。気に入って頂けて何よりです」
「はは、拗ねるな拗ねるな。よし、せっかくなんだからゆっくりして行け! アン、お茶を頼む」
ウォルスがラウロを引き立てていく。呼びかけられた侍女の一人が明朗に返事を返す。他の召使たちも慌しく動き出した。
残されたのは少年とディアナと、頼りなく力強い小さな命。ディアナがその黒く長い髪を、窓から吹き込む穏やかな風に揺らして柔らかく微笑む。その笑顔は、時々母親が自分に見せるものと同じ笑顔だった。
「ラキア……、この子と仲良くしてあげてね」
少年は自分の指をつかむ赤ん坊を見つめた。不意に指をつかむ力が弱くなり、赤ん坊がパチリと目を覚ます。
「目が……」
小さな顔のわりに大きな瞳を見とめて、少年が思わず呟く。その言葉を受けてディアナが本当に嬉しそうに笑んだ。
「そう。同じでしょ? 私と。ウォルスは少し残念そうだったけれど……」
「綺麗な、紅い色ですね」
「ありがとう」
生まれて間もない赤ん坊が何を感じたのかは分からないけれど、ラキアには彼女が笑ったように思えた。これからずっと、自分がこの頼りない小さな命を見守ってゆけるんだと思うと、もう一人前の大人になったような気がして、この子のためなら何だって出来そうな気がして。
胸の奥にわいてくる言いようのない奇妙な心地よさに、少年は瞼を閉じた。
この子はどんなことがあっても自分が守る。
少年が初めて自身に誓った言葉だった。
「内乱の折、城に仕える者たちもその影響を受けました。死者千人以上、行方不明者二千人以上。行方不明者の内、後宮仕えはたった三人。キース・ゾルディック、アン・コールマン、ジェラルダン・コンスタント、この三名。一歳になる皇女の御遺体が発見できていないのは、貴方も御存知でしょう?」
「その……行方不明の皇女の名は――」
わざわざ口に出して言わずとも、その名は忘れることなど出来ない名。
赤い瞳など多くいる。銀の髪など五万といる。だけど、理屈じゃない何かが告げている。あの少女だと告げている。
指輪を見つけた瞬間に、それはラキアの中で確信に変わり始めていた。
「……リディエラ、リディエラ・トゥル・イシリス。古代文字で『トゥル』は真実、『イシリス』は女神イシス。神の血を引くと言われた王家の者のみが持てる名です」