「優しい嘘」
ここには夜中までペンを走らすかすかな音も、紙をめくる乾いた音もない。
静まり返った広い部屋に聞こえるのは、自分の規則正しい呼吸の音だけで。我知らず、リディスは首から提げた自分のものではないそれを握る。
勝手に持ち出すのが悪いことなのは、重々承知していた。承知していたが、いざ別れる時になってどうしようもなく不安になった。一たび別れてしまえばもう二度と会うことなど叶わない気がして、形の上では何の関係もない自分と彼との間に、繋ぎ止める何かが欲しかった。
とっさに目に付いた古ぼけたこの鍵と、自分の一等大切な指輪を取り替えてしまって、まずいことをしたと気づいた時には、すでにアシュハルトとの国境沿いまで来ていた。
返さなくてはいけないから。だからもう一度、何としても会わなくてはいけないのだ。
彼の首に今この瞬間も自分の指輪がかかっていることを望みながら、リディスは深い眠りへと落ちていった。
昼間の一件を思い出すとなかなか眠りにつくことが出来ず、ギルヴィアは一人分には大きすぎるベッドの上で身じろいだ。何度目か分からない寝返りを打って、これまた何度目か分からない溜め息をついた後で、のろのろとベッドから這い出した。そのまま部屋を抜け出し、警備に当たっている兵に軽く合図して、東塔へと向かう道へ足を進めた。
リディスはもう寝ただろうか。
彼女が事情を知らないのも無理はない。彼は――アゼルは、隠し事が上手だから。一生秘密にしておこうと思えば、彼は言葉どおりに上手く隠し通すだろう。それが怖い。
こちらが気をつけていなければ、知らずに色んなことを見落としているようで。見落としている事にさえも時には気付かないかも知れなくて。そんな不安がいつもギルヴィアを悩ませていた。
アリシアにしても同じことが言える。
彼女は自由に振舞っているように見えて、その実「王女としての自分」をかなり意識している。
あるとき突然、まるで世間話でもするように何気なく、「私、今度ギアナに嫁ぐことになったわ」と彼女は言った。驚いて、なぜそんな突然決まるのだと叫んだら、縁談自体はもう何ヶ月も前から進められていて、彼女も全て承知していたらしい。
結局その縁談は相手先の王の急な病のせいでうやむやなうちに消えた。縁談自体は消えても、ギルヴィアの中に姉への不審は残った。
なぜ、そんなにも長い間、自分が全く気付かないでいられるほど「普通」にしていられたのだろうか。決して気にしてなかったわけではない。当時の状況から踏まえて、ギルヴィア自身もそういう話が出ることはある程度予想していたから、姉のことを気にしていたのだ。引っ掛かる所があれば自分は気付けたはずなのに、ほんの少しだって自分に悟らせずにいられた彼女が、ギルヴィアは怖かった。
自分だけ何も知らないでいるのではないかという不安が、いつまでも拭えない。
アゼルがひた隠しにしていることを知ったのは、全くの偶然だった。
いや、必然だったのかもしれない。
アゼルとギルヴィアは血が繋がってはいない。
ギルヴィアとアリシアの母親はディルタニアという大貴族の娘だった。あいにく、姉も自分も受け継いだのは茶色の瞳だけだが、彼女の黒い髪は長く伸ばされ、さらさらと揺れるさまは子供心に綺麗だった。
王は彼女をその名前では呼ばなかった。少なくとも自分が覚えている限りでは、王は彼女を愛称で呼んだ。
後から聞いた話によると、ディルタニアは王に髪を伸ばすようにと言われていたらしい。一度も切られることのなかったその髪が、彼女の体を離れ地に落ちたのは、ギルヴィアが九歳の時だ。
半狂乱になった彼女が家臣の制止を振り切って、ナイフで自らの髪を切り落とした。束になって、彼女の幸福な日々と共に落ちた黒髪は、ディルタニア自身の手で王へと投げつけられたと聞いている。
城仕えの医師らの手によって安静剤を打たれた彼女は仮初めの平和を取り戻し、その後は二度と取り乱すことはなかった。ただ静かに、ゆっくりと、壊れていった。
あの日、何があったのか、それは定かではない。はっきりと知っているのは多分、ケゼフだけだろう。彼は知っているはずだ。しかしギルヴィアはとうとう訊ねることが出来なかった。
壊れていくディルタニアの傍にいて、片言のように漏らされる単語の中から真実を探すしかなかった。そうしてようやく王に愛された幸せだったころのディルタニアが、最後に目にしたであろう肖像に辿りついた。
それは数多くの名のある骨董品の中にあって、ただ一つ王に愛されている肖像だった。大事そうに掛けられた布を外すと、現れたのは一人の女で。月明かりに淡く浮かび上がったその人物は、まるで月の精みたいだった。人外のもののように描かれた女の瞳は紅く、吸い込まれそうな錯覚さえ感じた。
女の髪は黒く、長く、風が吹けばさらさらと軽やかな音を立てて揺れるだろう。
女の名前は記されていなかったが、ギルヴィアには分かった。
ディアナだ。
王が、ディルタニアに対して用いた愛称、ディアナだ。
王は始めから誰も愛してやいなかったのだ。あの琥珀の瞳は、始めからディルタニアなど映してはいなかったのだ。何もかも偽りだったのだ。プライドの高いディルタニアが、この事実を知って今まで通りでいられたはずがない。
この女が何者なのかは知らないが、一つ確かなのは、この女が全てを壊す引き金になったということだけだ。そして大事なのはその一点のみだった。
幼いギルヴィアを残して、ディルタニアはまもなく死んだ。哀れな王妃の見舞いに、王はとうとう一度も現れなかった。
壊れ始めたディルタニアは、意味のある会話と言えるものは一切しなくなったが、ただ一つ例外があった。
アゼルのことだ。
ディルタニアは確かに狂っていき、発する言葉は意味を持たなくなっていったが、毎日のように訪れるギルヴィアに繰り返し言って聞かせたことがある。
「アゼルには、彼だけには王座は渡すな」と。その言葉だけは、彼女の強固な意志と共に口から吐き出された。紡がれた言葉はギルヴィアの中に溜まっていった。
そんな中にあって、彼は辛うじて『自分』を保った。知りえる全ての情報を自らの手で集め、信じられるものにだけ耳を傾け、それ以外のものには目をつむった。
母も憎めず、義兄も憎めず、姉も、そして父でさえも憎めなかった彼には、そうすることしか出来なかった。
ディルタニアはアゼルを、彼の背後に見え隠れする女の面影を憎みながら、逝った。
彼女がいなくなっても、繰り返し、暗示のように聞かされた呪文は彼をさいなみ、今も決して綺麗に消えてはいない。時折ふとした瞬間に姿を現しては、閉じ込めた負の感情に火をつけていった。
その火を鎮めるのは容易ではなかった。
いつからだろう、鎮めようとする時、必ず彼女を思い浮かべるようになったのは。この陰鬱で血生臭い城の中に、ある日唐突にやって来た少女。暗い影を落としていた彼女がだんだん明るくなっていくのを、だんだん笑うようになっていくのを、いつしか心から望んでいた。
裏も表もなく、いつでもありのままの素直な感情をぶつけてきてくれた彼女が、破滅ではなく希望に歩めるよう願い続けた。
彼女は変わった。ならば自分も変われるはずだ。姉も、父も……。母は変われずに死んでいってしまったけれど。彼女を止める力があの時の自分にはなかったけれど。今の自分には――……
「なぁ、アゼル」
向かった部屋には先客がいた。自分が入ったことに気付かないはずはないのに、彼は身動き一つしなかった。
「アゼル、僕たちも変わる必要がある。これ以上、誰かを傷付ける道を行くのは、やめよう」
ギルヴィアは逆光の中の背中に声を掛けた。
相手は身じろぎ一つせず、肖像画の前にたたずんでいる。月明かりしかない部屋の中では、まともに肖像画なんて見えやしないはずなのに、彼はじっと描かれた女を見ていた。
バベル帝国最後の王妃、リヴェイラ公爵の一人娘、ディアナ・ル・リヴェイラ。
一人の子を産み落とし、そして捨てた女。