「遺されたもの」


 セラフィーは、彼の話し得るすべてのことを伝え終わった。どういうわけか、あれほど伝えることを拒んでいたはずなのに語り終えた彼の気持ちは話す前より楽になっていた。もしかしたらそれは、真実を知った者に課される責任を誰かと共有することが出来たからかも知れない。いや、まだ真実かどうかさえ確かでなかった。
 永い永い、永劫続くかに思われた沈黙はかすかに漏れた溜め息に破かれる。
 一気に脱力したようにラキアの身がソファに沈み、黒髪が背もたれに影を落とした。
「じゃあお前は、それが原因だと言うんだな?」
「私の意見ではありません。調べて行き着いた結果の事実として伝えているに過ぎません」
 ラキアが目を伏せる。革張りのソファから立ち上がったその足で、音もなく月明かりの差し込む窓に寄った。今しがた語られた言葉が、彼の頭の中でぐるぐると回っていた。
「ディアナ王妃は……誠実な方で、ウォルス陛下を、彼との間にできたリディエラ皇女を、本当に愛しておられた」
 明かりといえば、仄かに青白い月明かりと庭を照らす人工的な松明たいまつの暖色だけ。
 夜になれば否応なく闇に包まれるこの世界で、窓辺に立つラキアの表情は良く分からなかった。分からなかったが、その声音には過去の日々に思いを馳せる者特有の色が含まれていて。答えを求めないその呟きを、セラフィーは黙って聴いていた。
「だからセラフィー、その話が、例え真実だとして。内乱の原因が、たった三人の人間の感情のもつれのせいだとして。それでも俺には、その三人を責めることなんてできない」
 ラキアの横顔は逆光で影となり。彼の執事はそのシルエットをただ黙って見ていた。
「生き残ったのはたった一人。……どんな気持ちで…、今まで、生きてきたんだろうな」
 生を甘受して?
 愛した者と、友だった者とを、自らの意志の刃で傷つけ殺し。どんな気持ちで、何を支えに彼は生きてきたというのだろう。
 かつて自分の父親に気さくに声をかけてくれた人。小さな自分に笑いかけ、内緒だといって高く抱き上げてくれさえした。自分にも同じぐらいの息子がいると、そう言って。
 どこで道を踏み外し、いつから彼は狂っていったのだろう。
 最初からか。
 小さな自分に笑いかけてくれていた時にも、もう狂っていたのかもしれない。あの時、何もかもずいぶん幸せそうに思われたけれど、それは思い出が時間と共に美しく色づけされていっただけで、本当はもっと色々あったのかも知れない。
 そうでなければ彼の理解は追いつくことが出来なかった。「何かあった」と思わなければ、その後に起こった悲劇を認められなかった。何もかもが本当に幸せそうに彼の目には映っていたから、その幸せがああも容易く壊れるのかと思うと、もう何も信じられない気がした。

「賢君と謳われた、あの方だぞ?」

 愛する者たちのいたこのバベルを、バベルの王宮を、その手にかけるなんて。
 大陸二大帝国と称されるアシュハルトの王ケゼフ・アシュハルトが、あんな暴挙に出るなど……。
 どこかで分かっていた。
 全ての発端にアシュハルトがあったことなど。反旗を翻した公爵たちの裏に、それよりもっと巨大な黒い影があったことなど。証拠などなくとも消去法で可能性を一つずつ潰していけば、「アシュハルト」というその一つしか舞台に残っていなかったのだから。だからこそ、全面戦争に踏み切ったのだから。
 しかしそう決意したのは「バベル帝国宰相ラキア・バシリスク」であって、一介の青年でしかない彼自身ではない。
 完全な統合を成しているわけではない二つの心が、彼の中で、自分でも知らない奥底で、それはそれは静かに音もなくせめぎ合っていた。




 バベル帝国軍司令部最高司令官ミネルヴァ・コンスタントは、内乱の折に行方不明となった自分の息子をずっと探していた。
 しかし周囲の誰一人として、彼が不和のまま別れた息子を探し続けていることを知る者はいなかった。それは彼らが鈍いのではなく、ミネルヴァ・コンスタントはそういう男であったということだ。
 つまりは、彼が表に見せる「感情」はたいていが名前の付けられる類のものではなく、あえて一言で言い表すなら、「無感情」という言葉が一番合っているのだろう。彼はそういう男だった。
 だから、妻も息子も亡くしたというのに、少なくとも皆の前では平然と振舞えるこの男が、影で「冷血漢」だの「無感動男」だのと呼ばれるこの男が、自分の仕える者の執務室の前で呆然と立ち尽くしているのはある意味見物だったろう。
 けれどあいにく人払いを済ませた廊下にはミネルヴァ一人しかおらず、彼の表情を見ることのできた者はここにはいない。
 先には通せないと告げた衛兵を押しのけてここまで来たのは火急の用があったからだ。それなのに、扉の前で立ち尽くしている。
 取っ手を持つ手が震えた。震えた手が扉に当たり、耳を澄ましていても聞こえないほどかすかな音を立てる。
 瞬間、手を掛けていた扉が勢いよくミネルヴァの眼前に迫った。
 彼はこの日、二度目の失敗をした。無様なことに、彼ともあろう者が床に投げ出され尻餅をついた。
「………………ミネルヴァ様」
 少し意外そうな声が上から降ってくる。ゆっくり顔を上げれば、そこにラキアの執事たる青年が目を見開いて立っていた。
「こんな所で、何をしておいでです?」
 驚きを含んだ声音は和らいだ気配とともに消え失せ、一転して硬質なものへと変わる。ミネルヴァはいまだ何も考えられない頭でよろよろと立ち上がった。
 眩暈がする。頭が、心が。
 地面が揺れているのかと思ったら、どうやら自分の方が揺れているらしい。
「……ミネルヴァ様?」
 訝しげに問うてくる。その声はミネルヴァには届かなかった。

「ミネルヴァ、どうした?」

 明朗な声が響き、そこで初めて大男の瞳に生気が走った。
 ゆっくりと緩慢な動作で視線を向けてきた男に、室内のラキアの眉が寄る。
「……入れ」
 一瞬の思案の後に発せられた言葉は、ミネルヴァの脳に半強制的な力を持って響いた。言葉は「命令」の形をとり、軍人である彼の脳に働きかけ、反射的に体が動く。
 おぼつかない足取りのミネルヴァを室内へと誘導し、セラフィーは一度廊下に人気がないのを確認してから扉を閉めた。
「そこへ……、取り合えず座れ」
 まるで操り人形のように男は動いた。ラキアの言葉だけが彼を動かしめているようだった。
 ミネルヴァは焦点の合わない瞳を虚ろに開いたまま、革張りのソファに身を沈めた。ただならぬ、今だかつて見たこともない彼の様子に、ラキアもセラフィーも掛ける言葉はなかった。だからと言ってこのままにしておくわけにはいかない。ラキアは戸口に立っていたセラフィーに小声でランプに火を灯すよう指示を下すと、自分はミネルヴァに向かい合うようにしてソファに座った。
「ミネルヴァ……、一体どこから聞いていた?」
 問われた大男の口がわずかに開いたが、しかし音を発するには至らなかった。
「お前らしくないじゃないか。盗み聞きなど……、それに、誰も近づけるなと兵に言ってあったはずだ。それを押し切ってここまで来たのだろう? 何か……あったんじゃないのか?」
 しゅっとマッチをする音と同時に、室内にオレンジ色の人工的な明かりが満ちた。ランプに移されたその光はさらに明るさを増して、人の表情を暗闇に浮かび上がらせる。ランプがミネルヴァとラキアの間の台に静かに置かれた。
「報告が……報告があります。我が配下の不手際で、夜会の襲撃犯の残り四人全てが………自害、しました」
「………最悪だな」
 これで戦を始める口実、同盟を破る口実が一つ減った。
 どんなに馬鹿らしく愚かで無駄な行為であったとしても、口実は必要であった。それがなければ帝国は一方的に同盟を破った国となり、そういうレッテルが一度貼られてしまえば、外交の上で多大な悪影響が出てくるであろう。そのレッテルは一年や十年で消えるものではない。
 夜会の襲撃犯がアシュハルトの手の者であると公言することは、今挙げた問題を解決できる有効な手段であったのだ。彼らを広場で処刑する日取りは決まっていた。明日の午後一時だった。

 こうまで処刑が遅れたのには訳がある。
 最大の理由は、彼らの精神力が存外に強固なことにあった。最終的には自白剤を用いたが、襲撃犯はいずれも強靭な精神力を有しており、バベル軍が望んだほどの情報は得られなかった。
 ミネルヴァが「残り四人」と言ったのは、襲撃犯の五人のうち一人は捕縛して間もなく死んだからだ。死んだ一人は五人の中でも気の弱そうな男で、彼を追い詰めれば有益な情報を聞きだせると誰もが思った。しかし、彼は死んだ。
 捕縛した直後、たった一瞬、都合上五人を一緒の牢に入れた。見張りの兵が激しい物音に驚いて駆けつけたときには既に遅く、その男が床に倒れている所だった。首の肉が食いちぎられていた。
 情報の漏れることを恐れたのだろう。それから以後、四人を同じ牢に入れることはまず無かった。自害する危険は全て取り除いたにも関わらず、処刑を明日に控えたこの時にこのような事態に陥るとは、何と言う不手際だろう。
 ラキアとしては溜め息をつくしかなかった。
「………身代わりを立てるか?」
 誰に言うでもなく、ぽつりと彼は呟いた。
 重苦しい空気が漂っている。ラキアは顔を上げてミネルヴァの表情を窺い、違和感を感じて眉を寄せた。
「どうした? 政略上まずいことにはなったが、お前がそこまで態度に表すほどのことじゃない」
 この程度のことで不屈の男が崩れるはずがない。妙な胸騒ぎがした。
「ミネルヴァ、他に何があった?」
 鼓動が早くなる。胸騒ぎは消えず、ミネルヴァの無言は恐怖さえ感じさせる。
「……ミネルヴァ!」
 男はゆっくり顔を上げた。そこには何の感情も表れてはいなかった。口がわずかに開く。ラキアは待った。
「……………セラフィー殿…、あの情報は、どういう形で………貴殿に伝わったのか……」
 規律を守ることを最大の美徳としているはずの軍人が、宰相からの問い掛けを無視して、よりによってその執事に逆に問い返すなど、本来ならば有り得ないことだった。が、ラキアは少し目を見開いただけでミネルヴァの無礼を黙認し、咎めようと身を乗り出したセラフィーを目線で制した。開きかけた口を閉じ、セラフィーは無難な答えを探す。
「とある資料を見つけたのです」
「アルジャーノ・ゴードンが持っていた?」
 間髪入れずに返してきたミネルヴァの言葉に、執事は瞠目した。
 彼の反応の意味する所を見て取って、遅ればせながらラキアにも驚きが走る。
「………なぜ、それを……」
「資料の末尾にはサインが?」
 セラフィーは答えなかった。黙って男を見下ろしていた。背を丸めて俯くミネルヴァは、いつもより数段小さく見えた。
「名が、記されていたでしょう」
 もはや明らかな確信を帯びた言葉だった。
 セラフィーは判断を仰ぐような眼差しで、ラキアに視線を向けた。
 ランプの明かりしかない薄暗闇の中、ラキアの髪はなおさら黒かった。
「あったのか?」
 静かに問うラキアの声に、やっとセラフィーは口を開いた。
「ありました」
「なんと――」
 書いてあった?
 数瞬の間があった。記憶を手繰り寄せる、わずかな間。

「ジル」

 ビクッとミネルヴァの肩が揺れる。まるで怯えたように。その名に、骨の芯から軍人である彼を怯えさせるどんな力があるというのだろう。ラキアとセラフィーにはまるで心当たりがなかった。
 ミネルヴァはゆるゆると、重しでもついているような緩慢な動作でおもてを上げた。この数分で、彼はすっかり年老いて弱々しくなってしまっていた。
 生気のない皺の浮かぶ顔はさながら幽鬼のようで。ラキアはとっさに「大丈夫か」と言おうとした口を意識的につぐんだ。言ったところで今のミネルヴァには意味のないことだと悟ったからだ。
「『ジル』は……仲間がつけた、愛称です」
 焦点の合っていない瞳に、ランプの光がゆらゆら揺れた。

「本名は、……ジェラルダン、……ジェラルダン・コンスタント」

 二人同時に、その名の意味を理解した。次の瞬間には心臓を鷲掴みにされたような息苦しさに襲われた。
 嫌な予感が、した。

「私の、一人息子。その資料が――」

 声はかすれて途中で途絶えた。

「その資料が、貴殿の手に渡ったのならば……」

 沈黙が痛かった。

「私の息子は、もう……この世にはおりますまい」


 それきり誰も、何も言わなかった。






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