「いま、……なんて?」
 リディスの声は掠れて聞き取り辛かった。しかし玉座に抱かれるようにして座る王がそれを聞き返す様子はない。
 明りとりの高窓から朝の光がこぼれ落ちて、よく磨かれた石の床に反射して踊る。
 おとぎ話の中のように妖しく幻想的な玉座の間。忠実で堅実な臣下たちはどこへ行ったのだろう。広い部屋にたった二人、少女と王は向かい合う。


「その闇に抱かれて」


 疑ったことなどなかったのだ。今までたったの一度だって。
 それはよくよく考えれば確かに不自然に違いないのだが、彼を疑うことは少女の選択肢にはなから含まれてはいなかった。
 彼、ケゼフ・アシュハルトはリディスにとって脆さの象徴であり、逃れることのできない闇そのものであり、とても同じ次元で触れ合う対象として見ることはできない相手であった。
 いつだって暗い影を背負っていて、一緒にいれば忘れかけた負の感情がゆるりと喚起される。そう思うようになったのは彼女自身が変わったから。以前は彼の背負う闇がただ心地よく、いつまでもその身を預けておきたいとさえ願った。
 それは同類の生き物に感じる無条件の愛情。その愛情が他者へ向ける憐憫れんびんの情に変わりつつあることを、誰よりも一番ケゼフが知っていた。
 そして両者の均衡は、今静かに崩れようとしている。




「何ておっしゃったんです?」

 いくらか強い調子でリディスは言い直した。そのせいで、自分の声がわずかに震えているのに気付く。
 紅い双眸そうぼうはまっすぐ上段、玉座の王へ。見返す琥珀の瞳はリディスを突き抜け虚ろにその向こうを見ていた。いや、何も見てはいなかった。口元に浮かべる穏やかな笑みが、ひどく場違いな気がした。

「ここへきなさい」

 柔らかい、いたわるような優しい声音。
 リディスは一瞬戸惑い、ついで鉛のような足取りで前へ進んだ。玉座への一段一段がとても険しい道のりに思えた。心は全身で逃げることを訴えているのに、体が勝手に誘われる。心臓が脈打ち体中を血液が駆け巡る。握った拳がじわりと嫌な汗をかく。
 それだけ顕著に体は反応しているのに、リディスの脳は全く機能してはいなかった。彼を前にするといつもそうだった。平素の思考はどこか遠い所へ追いやられ、代わりに何か別の意識体が彼女の体を使って、孤独な王に寄り添うのだ。

 そのとき突然意識の主導権がリディス自身に舞い戻り、気が付けばいつの間にかあと一段で玉座にたどり着くところだった。辛うじて心の準備ができる距離で足を止められたことに、少なからず感謝した。
「もっと近くに」
「王、なぜ……、指輪のことを貴方がご存知なのです?」
 その場から動かずリディスは言った。王は束の間表情を失くしてまたすぐ微笑む。
「私はお前のことなら何でも知っているよ」
「……答えてください、お願いです。私は、一度も指輪のことを話しませんでしたし、お見せしたこともないはずです」
 無様に声が揺れるのを止める術はなかったが、それでも意志は揺るがない。初めて「自分」を保って王の前に立っていた。
 対する王は緩く笑いながら肉の落ちた手をリディスへと伸ばし、対応の遅れた彼女の手を取る。そして痩せた腕のどこにそんな力があったのかと言うほどの強さで引いた。
 リディスは段差に足を取られ倒れながら、反射的に片手で体を支えると、素早く顔を上げた。
 ケゼフは少女の手首をつかんだ右手をそのままに、もう片方の手で足元の銀髪を優しく撫でた。何度か撫でてからその手はゆっくり白い頬をたどり首筋をなぞり鎖骨に触れた瞬間、急に痣ができるほど強く肩を抱いた。リディスが表情を強張らせるのにも構わずケゼフは指を滑らせ、襟の下に隠れた鎖に触れる。
 銀髪の少女はハッとして身を引こうとしたが左手はケゼフに握られたままだった。びくともしないそれに見切りをつけ、せめてもう片方の手が自分から離れるよう身を捩った。しかし抵抗はあまりにも遅く、返ってケゼフの指に掛かった鎖が表に出るのを助けてしまう。
「か……返し――」
「なんだこれは……」
 リディスの視線は自分の首から伸びる鎖を辿り、古びて鈍く光る銅の鍵を捉える。彼女の頭は瞬時にこの場を切り抜ける方法を考えては打ち消し、考えては打ち消し……。必死に混乱する思考を落ち着けて一つの方法に至る。
「指輪は失くしてしまったんです。それで、それは……私の部屋の棚の鍵で………」
 こうしてみれば、さっき指輪のことを言われても白を切り通していればと思えた。馬鹿正直に反応してしまった自分が情けなかった。誤魔化せたかどうか恐る恐るケゼフの顔をうかがって、リディスは言葉を失くした。
「なぜお前が持っている」
 怖いと思った。まるで別種の生き物と対峙しているようだった。
「これはあいつが……」
 言葉が……、一切の言葉が通じない別の生き物。これでは交渉も命乞いもできやしない。
「あいつが持っていたのと……」
 今まで自分はこの人間に恐怖を感じたことなど一度もなかった。正確にはバベルへ赴く以前は。
 どうして感じなかったのか、どうして共にあることができたのか今となってはまるで分からない。
「同じ……。同じ? いや違う、少し違う」
 心が急速に冷えて離れていく。目の前の、かつて仮初めでも「父」と読んだ人物から。この位置に、この距離に立って初めて彼の異常さが手に取るように分かる。ではやはり同調していたかつての自分もまた、はたから見れば「異常」であったのだろうか。
「あいつのは、もっと……。ならばこれはなんだ?」
 ぶつぶつ呟いていた低く虚ろな声が止む。痛いほどの静寂を身に受けて、リディスはすがるような目でケゼフを見た。
「これはなんだ?」
 言ってからケゼフは面を上げ、じっとその琥珀の瞳に少女の姿を捉える。身動き一つ出来ず、少女もまた黙って見返す。心は異常に冷えていた。
「これはなんだ?」
 無防備な言葉が落とされる。思いつきで発せられた言葉のように。

「これはなんだ!!」

 獣のような俊敏さでケゼフは前触れなく立ち上がった。ブチッという不穏な音がすると同時に首筋に鋭い痛みが走る。声を上げる間もなく鍵は鎖を断ち切りケゼフの手に収まった。リディスは豹変した王を前に、奪い返すことも忘れ一歩後ずさる。

「あぁあぁぁぁッ!!! まただッ!! また私から奪おうとする! やっと手に入れたと思ったときに奪う、お前もか! お前も私から離れるのか!? リディス、お前も私から……私から………」

 燃え盛った火は一瞬で鎮まった。
 糸が切れた操り人形のようにケゼフは玉座に倒れこむ。
「………大丈夫です…か……」
 俯いて表情の見えないせいで恐怖が薄れたのか、それとも単純に彼が心配になったのかリディス自身判断がつかなかった。しかし口を付いて出た言葉も、ケゼフの肩へと伸ばした手も、もう震えてはいない。
 リディスの白い手が彼の肩に触れた瞬間、狂気は再び息を吹き返した。
「お前は私から離れない」
「…………ッ!?」
 見上げてくる瞳は血走っていた。とっさに身を引こうとしたリディスの手はもう一度ケゼフに捕らえられる。玉座からなんの戸惑いもなく立ち上がった彼は、しっかりとした足取りで上座を後にし、引きずられるようにしてリディスも段を駆け下りた。
「王、王! は……、離して下さいッ!!」
 無理な体勢で引きずられる彼女の腕は痛みしか伝えて来なかった。言葉は相手に伝わらない。そこにいるのは別の生き物。人間の言葉は素通りして空の空間をむなしく漂ってやがて消える。
 王の間から外へとつながる荘厳な両扉の前で、ケゼフ・アシュハルトは歩を止めた。そこに小さな希望を見出し、リディスは彼の背中を見た。
「お前は私から離れない。そうだな?」
 背筋が凍る。何も通じない。そこにあるのは絶望だけだった。

「そうだな? 私のリディス」

 瞳を見ずとも、男の背中から飲み込まれそうな闇色の狂気は伝わって来た。すでに掴まれた箇所は感覚を失いつつあり、そこから男の闇は彼女の体に入り、しまいには思考を蝕まれているような気さえした。

 返答を待つことはなく、男は扉を押し開いた。外に控えた衛兵が声を上げるのを無視して、長い廊下を何かに追われるようにしてかつての賢君は歩いていった。








「今、何と仰いました?」
 アシュハルトに残された数少ない臣下の一人、ヴォルタ・シューリングスが聞き返した。顔に刻まれた幾本ものしわがそれにつられて動く。
「お前は老いて耳まで悪くなったか。……ケゼフを退けて俺が全権を握る、と言ったんだ」
「……………まさか……ッ!!」
 やっと理解の域に達したのか、ヴォルタの顔に驚きが広がる。そこに王に対する恐怖はなかった。
 その様子をつまらなさそうに一べつし、アゼルは視線をそらす。シューリングス邸の庭の外れにある東屋からは、というより今のアゼルの位置からは空は望めなかった。別にこれといって他に見るものもない。仕方なく向かい合って座る老人に視線を戻す。
 老人と言ってもヴォルタはまだ五十代だ。年齢以上に年老いて見えるのはここ数年のことで、それより前は実際より若く見られるのが彼の密かな自慢だったのをアゼルは知っていた。
「まさかも何も、あの男はもう王として機能していない。これからも機能しない。そいつにこの国の命運を預けられるのか?」
 黒髪の青年は有無を言わさぬ調子で言い放つ。何の飾りもない歯に衣着せぬ物言いは王族らしからぬものであったが、それゆえに老人の心に大きな衝撃を与えた。本当は当の昔に気付いていたことだったが、こうして第一王子の口からはっきり言われるとわずかに残っていた希望も音を立てて崩れてしまう。
 うな垂れて黙り込んでしまったヴォルタを無感情な琥珀色の瞳に映しながら、アゼルは静かに口を開く。
「このままあいつに全てを任せていたら、本当にシャマイン大陸の厳冬期の中を進軍することになるぞ。赤子でもしない愚行だ」
 愚かすぎて逆に何か秘策があるのだろうと他国には思われている、そう言ってアゼルもまた言葉を切った。開放的な小さな東屋にいながらにして閉塞感がヴォルタを襲う。気詰まりを感じたのは青年も同じだったのか、それとも押し黙ったままの相手に見切りをつけたのか、アゼルはおもむろに腰を上げ昼の光の中へ出て行った。

 屋敷からこの小さな建物を隠すように幹の太い大樹が植えてある。反対に東屋周辺には人一人を隠すことも出来ない花々が風に揺れていた。その中の一つにリディスが昔好きだと言った花を見つけて、思わず口元を緩める。

「あの娘が来てから……王はお変わりになられた」

 背後でもらされた呟きに、青年の笑みがかき消された。ヴォルタは背中越しに不穏なものを感じ取って小さく喉を鳴らす。

「あいつが来る前から、とうの昔に奴は狂っていた。むしろ被害者はリディス、あいつの方だ。自分たちの王が狂っていくのを止められなかった俺たちの責任の方が、頼る相手を他に持たなかったあいつより、はるかに重いんじゃないのか?」

 言葉は相変わらず無感情に流れていくが、彼が一息にこんなに話すのは珍しいことだった。自分の失言にヴォルタは素直に謝罪を述べるが、アゼルは何の反応も返しては来なかった。
「さっきの話だが」
 青年の、王族のわりには質素な衣服に包まれた背中を、老齢の重臣は見た。
 陽光の中にさらされた背は二十代のものとは思えないほど生気に乏しく、つい自分の若いころと比べて心配に駆られた。
「実行に移す前にお前には言っておいた方が無難だろうと判断しただけだ」
 つまりは協力も承諾も望んではいないと、おそらくそういうことなのだろう。
 ヴォルタの解釈を裏付けるように、アゼルは黙ってもと来た道を引き返していく。緑の庭に赤い彼の服が際立つ。

 何も言えず無言で見送っていると、太い幹の手前で青年は立ち止まり初めて振り返った。改めて見てみると、花が咲き乱れる庭園が、そもそも彼にはそぐわない気がした。清々しい光の中でその青年の所だけ影が落ちているような。楽園に迷い込んだ地獄の使いの図を思い浮かべて、すぐにその考えを打ち消す。
 アゼルがまだずっと幼かった時分から見知っているヴォルタにとって、今の彼の様子は憂いしかもたらさなかった。こんな成長を望んでいたわけではなかったのだ。確かに政治的能力については申し分ないが、欠けたものが多すぎる。
「分かっていると思うが……」
 琥珀の瞳は何の感慨もなくまっすぐヴォルタを見つめている。竦む気持ちを何とか奮い立たせて、アシュハルトの総務大臣はその冷たい瞳を見返した。そよ風が青年の黒髪を弄ぶ。
「全権移譲の際には立ち会ってもらう。逃げた奴らも呼んでおけ。どうせお前がかくまっているんだろう?」

 「逃げた奴ら」、それはすなわちヴォルタ同様何らかの役職に就いている者たちのことであり、アゼルが言った通り彼らをかくまっているのはこの老人であった。
 王宮は王の変貌と共に様変わりし、多くの家臣が言われもなく任を解かれたり自ら捨てて逃走した。気丈にも王を諌めた忠臣たちの内の何人かは殺された。もはやケゼフに、アシュハルトに希望を見出せなくなった者の多くが王宮を後にしたのだ。
 それを、アゼルは呼び戻せと言う。
 沈黙を承諾と受け取ったのか、青年は顔を背けると幹の陰に隠れて見えなくなってしまった。

 すっかり白くなってしまった頭を壁に預けて、残された老人はかくまった大臣らへ誰を使いに出したものか、と深く溜め息をついた。








 肩が痛い。一体何度体を打ちつけただろう。
 息を切らしながらリディスは左肩を抱え込んだ。左肩の痛みと引き換えに分かったことと言えば、目の前の古い木の扉は意外に頑丈であることと、いるかいないかは分からない扉の向こうの人間は自分をここから出す気は全くないということだけであった。
「――て、出して……」
 絶望に目の前が一瞬暗くなる。ぐらりとかしいだ体を石の壁に手を付いて何とか支えた。不気味な冷たさだけを伝えてくる石の壁が、そうやって彼女の周りを囲んでいる。上を見れば途方もない高さまでそれは続いていて、リディスは身震いした。
「出して……、出して下さいッ!!」
 無駄だと分かっていながら唯一の出口であり希望である目の前の扉を叩かずにはいられなかった。手の感覚が失われてもなお叩く。
「王、父上! 開けて!!」
 扉を叩く鈍い音が石の塔に木霊する。

「あ……ッ…、――あぁぁあぁぁぁぁっ!!!」

 意味を成さない叫びを上げて、少女の体は暗く冷たい床に沈みこんだ。
 遥か上に取り付けられた小さな窓の外から、小鳥の愛らしいさえずりが聞こえる。






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