あの日から数日が経つが、ミネルヴァは全くの無表情で軍事面の対処に当たっていた。気にかけてみていても以前と何も変わった様子は見つからない。ともすればあの日のことが夢のように思える。
 ラキアは円卓の向こう側で淡々と現状報告をする男を見ながら、小さく溜め息をついた。


「背負いしもの」


「……――で、処刑の後の段取りは今のところ万事上手くいっております」

 ぼんやりと報告の中途を聞き逃していたラキアが、「処刑」という単語にはっと我に返る。
 失った夜会襲撃犯の命は、別の罪で拘留されていた犯罪者たちの命で埋め合わせた。中には死刑に値するほどの罪ではない者もいた。磔という形で衆目にさらされた彼らの中には「濡れ衣だ」、「誤解だ」と叫ぶ者もいたが、宰相を殺そうとした襲撃犯の言葉に耳を貸す民は当然いない。
 広場で処刑された彼らの断末魔を聞きながら、ラキアは一瞬、この場にリディスがいないことに安堵した。

 処刑の行われた次の日には、近隣五国に特使を派遣した。
「アシュハルトに加担するならばバベルの敵と見なす」
 要約すれば特使がもった親書にはそう記されている。
 いずれの国も単体でバベルに敵うほどの国力などない。その軍事力には天と地との差があるのだ。このシャマイン大陸で唯一バベルと渡り合えるのは現在アシュハルトしかないのが事実。
 隣接しているはずのアシュハルトとギアナ共和国、ラサとの間にはサルディナヤ山脈が、バーデンとの間にはイーサ山脈が横たわっている。仮に三国がアシュハルトと同盟を結んでバベルに反旗を翻しても、例えばバベルにも隣接しているラサが襲われた際にアシュハルトはこれらの山脈に遮られて援軍を出すのは難しい。
 同盟を結ぶからには双方にそれなりの利益があるのが前提で、近隣の小国がバベルへの反逆に対して払う代償は利益に比べあまりに大きい。
 勝敗の見えぬ大陸二大帝国のいさかいに口を出してくる国はないとラキアも予想していたが、慎重を期すことに越したことはない。牽制の意味を多大に含めた親書は明日にはだいたいの国に届くことだろう。

「それで? 『噂』の方は、計画通りに広まったのか?」

 報告が一息ついたちょうどその合間を、ラキアの言葉は縫うように落とされた。
 数人は居心地が悪そうに視線を落とし、他の者は少なくとも表面上動揺は見せずに黙っている。円卓をぐるりと一度見渡してから、ラキアは立ち上がったままの大男、ミネルヴァに視線を定める。紫紺の瞳を向けられたミネルヴァがゆっくり口を開いた。
「都市部にはあらかた伝播でんぱしました。計画通りに。……民たちの間にはアシュハルトへの不満が高まっております」
「…………そうか」

 もともとバベルと同等の国力を持つのはアシュハルトだけで、そのことが互いの民の間で奇妙な競争意識を高めさせている。幸か不幸か二国が隣り合っていることもそれを助けていた。
 しかし「競争意識」はあくまでも無意識の意識でしかなく、間違っても相手を殺したいほど憎んでいるわけではない。もっと言えば、「戦争」を起こすほどの憎しみ感情は持っていないのだ。
 いつの時代も国家間の戦争において国民の意思は無視されることが常だが、実際武器を持って戦うのは国民たる彼らであり、戦争を計画した首脳部ではない。
 だから最後には国民の勝利への執念が勝敗を決める。国民に、ひいては兵士にどれだけ相手を憎ませられるか、勝たなければならないと思わせるか、それが大事だとラキア個人は思うのだ。特に今回の戦争には。

「『噂』が揺るぎない『真実』に変わるまで計画は続けろ。兵士たちの間の迷いも完全に打ち消せ」

 そうでなくては勝てない。
 ラキアはその漠然とした不安を、具体的な手段で拭おうとしていた。今の自分を見たらあの少女はどんな顔をするだろうか、無意味な問いが浮かんでは消える。
 国を動かすため、守るため、時に非情になったり姑息な行為をすることは必要なことであるとラキアは嫌と言うほど分かっていた。分かっているから割り切ることができる。今まではそれでやって来られたのに、この期に及んで誰かの目が気になるなど情けなくて仕方がなかった。
「補給線の確保と、兵糧ひょうろうの貯えはどうなっている?」
 自らの迷いを無理やり内へ押しやる。この時期に宰相たる彼が迷いを見せることは、臣下の間に不安を生み出すだけだ。
「兵糧は三万の兵の四か月分を」
「我が国の今の国力からしましても、そのくらいが……」
「限界か」
 口を挟んだ財政担当官のトリスタンの後をラキアが引き継いだ。無念さを滲ませる彼の顔を一べつし、ラキアは再びミネルヴァに視線を戻した。黙って成り行きを見ていた大男は表情一つ変えず続けて言う。
「補給線の事前準備は滞りなく。あとは進軍の際に敷くだけです」
「今回の戦は遠征だ。分かっているとは思うが補給線の確保が勝敗に関わる」
 軍部最高司令官のミネルヴァにとっては今更のことだったに違いないが、彼は律儀に返答する。

 それにしても、兵の数が三万。
 その数字を改めて突きつけられると堪えるものがある。会議室に沈黙が落ち、みな一様に憂いを帯びた面持ちで俯いた。ラキアもわずかに目を伏せ、三万という数の少なさを思った。
 場合によっては「三万」はかなり大きな印象を与えるが、大陸一の帝国であるバベルの、進軍できる兵の数としては少なすぎた。過ぎ去りし日の栄光にすがりたくなどないが、内乱さえなければと思わずにはいられない。
 あの時に兵は半減し、回復しつつある今も少ないことに変わりはなかった。
 本当にアシュハルトが内乱の手引きをしたのなら、なぜその後すぐに攻め込んでこなかったのか。誰もが不思議に思っていたし、逆にそうであるからこそ、アシュハルトは内乱に関係なかったのだと結論付ける者も多かった。実際ラキアも心のどこかにアシュハルトを信じる部分があったのが事実だ。
 しかしそうした疑問も、儚い確信も、彼の信頼する執事がもたらした情報によって脆くも崩れ去った。
 全ての裏にアシュハルトの影が見え隠れする。
 もっと言えばケゼフ・アシュハルト、彼の姿が。
 決着を付けたかった。靄のかかった二国間の関係に。でなければ前に進めない気がした。
 アゼルは冬に進軍するようなことをほのめかしていたが、今となってはそれが嘘でも真実でも関係ない。実質バベルはアシュハルトに宣戦布告したのだからアシュハルトも出てこざるを得ないのだ。

 ふと、ラキアは内乱の起こった日の朝を思い出した。
 内乱と言うものは、普通ならじわじわと広がり行くものだが、あの日起こったのは本当に突然で……。だから直前の朝の景色はいつも通りだった。
 あの日も雪が降っていて、あたり一面真っ白な布がかかったようなこのバベルの地に、沢山の赤い血が落とされたのだ。まるで赤い華が散ったように。純白の雪原はたった一日でどす黒く汚れてしまった。

 あと四ヶ月。この地が、シャマイン大陸が白い布に覆われる季節まであと四ヶ月。
 戦はそれ以上持ち越せない。持ち越せば、備えが豊富で補給線が短くて済むアシュハルトが勝つ。何としてでもそうなる前に勝利をおさめなくてはならない。

「あと四ヶ月だ。それで全て終わらす」

 終わらせたその後、何が待っているのか、誰も分からなかった。





 会議終了後、疲れを取る間もなくラキアは自室で書類の山と格闘するはめに陥っていた。
 決してさぼっていたわけではなく、状況が状況なだけに各所から大量な書類が運ばれてくるのだ。この青年は量が多くてもいちいち端まで目を通さねば気がすまない性分らしく、余計に時間が掛かってしまう。
 以前、リディスが「読まなくてもはんこだけ押してしまえば良いのでは」と言い出したときには、なぜか彼は必死に書類に目を通す必要性を説いたことがある。

 上に立って人をまとめる役割にある者は、軍事や経済を実際に動かす必要がない代わりに、全体を広く見渡して上手く折り合いを付けさせなくてはならない。
 ラキアの持論では、むしろ専門知識が無い方が良いくらいだった。知っていれば自分の性格上、何かある度に口を出さずにはいられずに、「任せる」ことが出来なくなる。バベルにおいての宰相は半分「王」としての存在価値も含んでいるゆえに、それでは駄目なのだ。
 信頼してその分野の者に任せる。幸い軍司令官のミネルヴァも財政官トリスタンも、首脳部の人間はだいたいが信頼の置ける者たちばかりだ。多分それは、同じ凄惨な内乱を体験したもの同士が感じる連帯感が働いている。皮肉にもあの内乱が結束を高めたのだ。

 ふっと自嘲気味な笑みを浮かべた彼の耳に、控えめに扉を叩く音が聞こえた。ノックの音だけで誰が外に立っているのかすぐに分かる。
「入れ」
 許可と共に扉が開き、案の定彼の執事、セラフィーが顔を出す。
「失礼します」
「セラフィー、お前今暇か?」
 突然の問いにしばし間をおいて、セラフィーは苦く笑う。
「暇そうに見えますか?」
 ラキアはじっと執事の姿を見た。どうやってノックしたのか疑問に思うほど両手に大量の書類を抱え、髪は少し乱れている。笑った顔には疲労が色濃く滲んでいた。
「見える」
「……分かりました、分かりましたよ。何ですか? 何か用ですか?」
 セラフィーは諦めたように深く息を吐く。抱えていた書類の塔を部屋の中央のテーブルに置くと、「座っても?」という視線をラキアに向けた。小さく頷いて見せてラキア自身も執務机を立ち、ソファに向き合って座る。

「前々から思っていたんだが……、人材が少なすぎると思うんだ」
「それは仕方ないでしょう。内乱の際に首脳部の多くがやられましたからね。後を継ぐはずの若手も……」
 そう言ってセラフィーは視線を落とす。
   その通りバベルは人材不足だ。今でこそまだ成り立っているが、ラキアたちの世代に当たる後継者は圧倒的に少ない。宰相であるラキアもその辺はよく熟知しているはずだった。
 意図をつかめず見返してくるセラフィーと、ラキアの紫の瞳がかち合う。

「今、俺が死んだらどうなる?」

 唐突に投げかけられた問いは、なかなか聞き手の理解の域にまで達しなかった。
 やがてセラフィーの瞳がすっと細められて、本当に怒った時の顔だと、ラキアは人事のように思う。
「死ぬ予定でもおありですか?」
「無いさ。だけど現状を考えてみろよ。俺がもし死んだらバベルはどうなるか――」
「だから他の皆さん同様、早く跡継ぎをと申し上げているんじゃないですか」
「いやそれは……まあ、それも一つの案だが――」
「『唯一の案』の間違いでは?」
 自らが招いたとはいえ、触れたくない話題を出されたラキアは黒い髪をかき上げながらしどろもどろに答えた。本当だったら宰相と言う立場の彼が、そこまで臣下に跡継ぎを望まれることは無いのだが、王家が滅んだ今の状況ではそうも言ってられなかった。
 睨んでくるセラフィーの視線をかわしつつ、俯き加減で再び口を開く。

「いや、俺が言いたいのは宰相と言う役職の下に……、例えば補佐官とか作りたいということなんだ」
 それはつまり、王の下に宰相が就くように、万が一ラキアが欠けても対処できるように新たな役職を設けたいということだった。
 今まで誰も口にしなかったが、必要性は皆感じているし嫌と言うほど分かっていた。あの王家が滅んだと知れた時の絶望は二度と味わいたくなかったのだから。口に出すのがためらわれたのは、実際誰がその職につくか腹の探り合いをしていたからに過ぎない。
「今度の会議で提案してみたらどうです? なぜわざわざ私に……」
 そこまで言ってセラフィーは固まった。みるみるうちに眉間にしわを寄せていく様子はそうそう見られるものではない。
 ラキアはソファから身を起こすと、彼より少し背の高いセラフィーを見下ろしながら意地の悪い笑みを浮かべた。

「まあそのつもりで心積もりはしておいてくれ。本格的に決まったら、バシリスク家の執事としての仕事は別の奴に回すよう手配する」
「ちょっ……他の方が黙っていませんよ!?」
 自らも立ち上がりながらセラフィーが叫ぶ。
「そんなの知るか。他に適任がいないんだから仕方ない。第一今だにお前が一介の『執事』に収まっているのがおかしい」
 返す言葉もなく茶色の髪の青年は立ち尽くした。
「俺の言いたかったのはそれだけだ。で? お前の用件は何だ?」

 「それだけ」と括るにはいささか大きすぎる内容だ。さっさと椅子に腰掛けて軽い調子で問うてくる主に言いたいことは山ほどあったが、優秀な執事はギリギリの所で思いとどまった。諦観の溜め息とともに、紫紺の瞳を真正面から見据える。


「先日の……手に入れたジェラルダン殿の資料、全て読み尽くしましたが一つ気になる点が」

 ジェラルダン、ジェラルダン・コンスタント。仲間内から「ジル」と呼ばれていた青年。
 剣術に長け、後宮の警護に当たっていた青年。
 ミネルヴァ・コンスタントの一人息子。もうこの世にはいないであろう人物。

 数日前、この部屋であったミネルヴァとのやり取りを思い出し、ラキアの心に暗い影が落ちる。思い出すだけで胸が痛かった。
 ジェラルダンという青年と直接面識があったわけではないから、彼が死んだと聞かされても別段「悲しい」という感情は湧いてこない。
 しかし、消え入りそうな掠れた声で自らの息子の死を告げた大男のことを思うと、どうしようもなくやるせなくなるのだ。何があっても動じない不動の山のように思われた男の、あんな儚い姿を見せられると心細くて仕方がなかった。

「……ラキア様、『鍵』、と言われて何か思い当たるものはありますか?」
「………………鍵?」

 ぼんやりした頭でラキアは問い返す。セラフィーは「えぇ」と小さく頷いた。
「鍵です。銀……、いえ銅かもしれません。二つあるそうなのですが、それが……『隠し通路』への鍵になっているようなんですが」
 瞬時に思い当たるものがあった。無意識に手が首に掛けられたあの指輪へと伸びる。
「一つは内乱の際に、ジェラルダン殿が使用しそのまま持って王都を出たとなっているのですが……、もう一つは――」
「ウォルス様が持ってらっしゃったんだな?」
 ラキアは確信を持っていた。視界の端で茶色い髪が頷くのが見えた。


「リディスだ」
「……は?」

 呟きはぽつりと落とされた。

「鍵は、今、リディスが持っているんだ」
「なぜ……」
「俺が聞きたい。……なぜ、こんな大事なものを置いて行ったのかってな」

 そう言ってラキアは自身の胸に静かに手を当てる。服の上から硬い感触が伝わって、この国の宰相は無性に寂しくなった。






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