窓はとんでもなく高い位置に作られていた。採光のためだけの窓は小さい、そのうえご丁寧にも鉄の格子がつけられている。ほとんど凹凸おうとつのない石の壁を登って窓にたどりつくことさえ難しいのに、鉄の格子を外すのは道具も何もない今、不可能に近い。
 それでも、閉ざされた扉の向こうから何の応答もなく一晩がたった今も、リディス・ゾルディックの紅い瞳は光を失ってはいなかった。


「鬨の声、かの地に上がりて」


 その日、ニールという若い兵士はかつてないほどの不満を抱えて城の廊下を歩いていた。
 彼は本当だったらこんな所を歩いているはずではなかった。本当はアシュハルト軍第四連隊の隊員として、今ごろ来たるべき戦のために準備に追われているはずだったのだ、と、何度目か分からぬ溜め息を漏らす。
 心の中ではいくらでも文句が言えるのに、現実でニールはただの一言も反論などせず、二つ返事で本来なら先輩隊員が負うべき役目を引き受けた。上から命じられた任務を勝手に他人に回したなどということがばれたら……。
 そこまで考えてニールは身震いする。絶対問題を起こしてはいけない。自分にとっては初陣になるはずだった今回の戦に出られないのは不満を通り越して腹が立つが、それ以上に罰を受けるのだけは避けたい。
 今年やっと十九歳になった少年兵士ニール・ランディットは、役目を全うすべく城の外れの石牢へと急いだ。

 何よりも問題ごとを恐れる少年は、大陸二大帝国の未来を左右する大問題の引き金を自ら引くことになるとは、この時は想像だにしなかった。




 小さな格子窓から明かりが差し込むころには、リディスは石壁を登ろうとすることをやめた。それは爪が二つほど剥がれてしまったからではなく、より高い可能性に賭けることに決めたからだった。
 石壁の中途の溝に剥がれた爪は引っ掛かったままになっている。自分の爪以外のものも見つけて、彼女の腕に鳥肌が立った。以前も誰か別の人間がここにいたことを、どうしても考えずにはいられない。
 血の滲む指を口にくわえながら、黙って出入り口の扉の横にリディスは座っている。いつでも立ち上がり、扉から入って来た者に攻撃できる姿勢。
 ケゼフがどういうつもりで自分を閉じ込めたのかはまだよく分からないが、死なせたくないのなら必ず水と食料を持ってこさせるはずだった。その時が唯一にして最大のチャンスだ。
 まず全力でみぞおちを狙って、怯んだ隙に手刀で気絶させ、武器を持っていたらそれを奪って……。何度も何度も頭の中で繰り返し、リディスは成功への確信を深めていった。

 彼女ははなから決め付けていたのだ。見張りに付けられる者は、自分を止められるくらい屈強の男だろうと。
 まさか殴るのをためらうほどの優男だとは、夢にも思わなかったのだ。




「………………………」
 じっと耳を澄ませていたリディスは、扉の外に人の気配を感じて顔を上げた。続いてかすかに地面を踏む足音も聞こえ、一気にその身に緊張が走る。
 戦いなれた者にならばこの張り詰めた空気が伝わってしまうかも知れないと、彼女はすぐさま殺気を消して呼吸を整えた。音を立てず身を起こし、暴れる心臓を無理やり鎮める。
 今まで戦いの中でだってこんなに緊張したことはない。同じようにこんなに必死になったこともなかった。何がしたいか自分でもまだ分からないが、とにかく全ては現状を打破することから始めなくてはならない。
 静かに深く息を吐くと、リディスの瞳から一切の雑念は消え去った。



「……朝食だ」
 憮然とした口調、ノックは感情に任せ荒っぽくなってしまう。ニールは分かっていながら直すことはできなかった。
 この牢に閉じ込められているのは王が拾ってきたという女の子らしい。ニールたちの間ではもっぱら愛玩動物だと言われているが、真実かどうかは定かではない。今の彼には彼女が王のどういう存在であるかよりも、そんな人間のために自分の初陣が台無しになったことへの怒りが勝っていた。
 自分の他は誰もいないのを良いことに、ニールは食器の載ったトレー片手に鍵を開けると、乱暴に扉を開け放つ。

「ほら、朝食を――……ッ!?」

 一瞬、誰もいないことに驚いた。次の瞬間、誰かいたことに驚いた。
 そして結局、何が起こったか分からなかったことに驚いた。

「うッ…………ッ――!!!」

 空白の時間はすぐに過ぎ去り、残ったのは腹の痛み。役目のことなど忘れニールは腹を両手で押さえると無様にも石の床を転げまわった。彼の横で金属が床にぶち当たる音が響く。
 呼吸が出来ず喘ぐ彼の背後に、人の気配が近づいた。
「あっ、あの! え!? こ、こんなつもりじゃ……というかこんな弱……じゃなくて、大丈夫ですか!?」
 ひどく狼狽した声が落とされ、ニールはギリギリと首をめぐらす。最初に目に入ったのは赤。紅い瞳。心底慌てた様子で顔を歪めながら、女は腹に当てたニールの手の上に自分の手を重ねた。冷たい手だった。白い頬に銀の髪がかかる。
「えーっと、あの、大丈夫ですか? 大丈夫ですね? じゃ、じゃあ、あああの……私はそろそろ…………」
 離れていく女の手をニールはとっさに渾身の力で引きとめた。紅い瞳が見開かれる。
「ちょ……っと待て、逃がさないからな」
「………………っ」
 彼女は困ったように眉を寄せた。捕らえた手首は細く、ニールの片手で余裕で握り締めることができた。その手首に刹那、力がこもる。
「……お前が逃げたら、俺が罰を食らうんだ」
 言った瞬間白い顔に戸惑いが走ったのを、ニールは見逃さなかった。握った箇所から力が抜けるのが伝わってくる。
 畳み掛けるように床に横たわった少年兵士は言った。
「それはそれは酷い罰なんだ。鞭打ち五十回、訓練場百週、一週間メシ抜き」
「………………」
「だから逃げるな」
 肩を落とした少女を見て、ニールは心の中で「勝った」と思った。









 思ったより時間がかかってしまった、そう心の中で呟きながら、アゼルは城の窓から外を見る。
 彼の琥珀の瞳は城の前の広場を映していた。城の窓から見る広場の石畳は、様々な色の髪を持つ民衆によってその姿を隠している。

 アゼルとヴォルタが内密に会談をし、各官に根回しをさせてからもう九日はたっていた。二日前にやっと狂った王を城の一室に閉じ込めることに成功したのだ。そして昨日お触れを出し、今日ここで、指揮はアゼルが取りバベルを迎え撃つことを公表する段取りである。
 ケゼフを丸め込むのに少々手間取ったが、それ以外は順調に進んでいる。そう、政務に関わることは全て思い通りに運んでいた。

 城の廊下を無言で歩いていたアゼルは、会釈しすれ違いそうになった軍人にふと目を留めた。第一王子に呼び止められた第四連隊長は一気に体中に緊張を走らせる。強張った視線を気にする様子もなく、アゼルの起伏のない声が廊下に響いた。
「命じた件は、問題無く済んだのか?」
「はっ! 手練の兵士を二名向かわせました。滞りなく済んだとのことです」
「………なら、良い」
 その身に感情の一切を含まぬ冷たい言葉を落とされて、男は掠れた声でやっと返答し深々と敬礼した。最後まで見ることもなくアゼルは歩き出す。
 何とはなしに腰の方へ手をやれば、硬く冷たい異物に触れる。引き出して見るまでもなく、それが今度の戦の勝敗を決す鍵であることは分かった。本来ならばアシュハルトになどあるはずのない鍵。あってはならない鍵。
 二つの国を図らずも深く結び付けてしまった少女は、今この城の一角に閉じ込められているはずだった。さすがにあの石牢にいつまでも入れておく気になれず、離れの一室に閉じ込めるよう命じたのはアゼルである。
 ケゼフがどういうつもりであの牢に彼女を封じたのか青年は考えあぐねた。二度と出す予定のない者を収容する所なのだ。その証拠に牢の扉には食事を出し入れする穴がない。
 餓死させる気がなければ一度扉を開けねばならないし、そうすればあの少女が逃げ出すのは比較的容易なことだ。ゆえに戦闘慣れした者を見張りに付け、監禁場所を移動させた。

 アゼルはリディスに会うつもりはなかった。もっと言えば会いたくなかった。
 今、あの瞳に向き合いたくはない。意志がぐらつくのも決意が揺らぐのも、嫉妬を覚えるのもごめんだった。だから閉じ込められているのは彼にとっては都合が良かったのかも知れない。
 平静をまとった青年は真っ直ぐ歩を進めた。

 同盟を破った隣国、バベルへ応戦することを民に知らせるために。






「あのー……、ニールさん」
「…………駄目だ」
「まっ、まだ何も言って――」
「言わなくても分かる、これで何度目だ? 駄目ったら駄目ったら駄目なんだよ!」

 三回も続けて言わなくてもいいじゃないですか、と眉を寄せた少女を複雑そうにニールは見た。どういうわけか少女の見張り役であるはずの彼まで彼女と同室しているのだ。それだけに留まらず、向かい合ってソファに座っている。始めは誰かに見られでもしたら……、と内心ビクビクしていたが、この忙しい時期にわざわざ城の外れのこんな場所に用のある人間はいないようだった。いや、自分以外は、とニールは心の中で付け足す。
 彼女と出会って八日という日数が経過した。今まで噂で耳にした「王の愛玩動物」という意識は、たった一日、いや出会って一瞬で払拭されたと言って良い。とにかく卑猥な噂で汚して良いような人間じゃなかったのだと、ニールは八日間で嫌と言うほど理解していた。本人は影でどう罵られていようと苦笑するだけな気がするが……。

「何で……、そこまでして逃げたいんだよ」
 窓の外を見ていたリディスの瞳がニールに向けられ、彼は少しうろたえた。リディスは一度目を伏せ、わずかに俯いた拍子に銀髪がさらりとこぼれる。一連の動きにニールは目が離せなかった。
「逃げたい……、というより、行きたい場所が、会いたい人が……会わなくてはいけない人が、いるんです、多分……」
 戸惑いがちに発せられた言葉には虚言も演技も含まれていなかった。こんなに真摯で、こんなにつたなく剥き出しの思いをニールは他に知らない。ふと愚かで素直だった子供のころを思い出す。
 自分で聞いておきながら何も言えないニールの目の前で、リディスは腰を浮かす。二人の間を隔てる低い卓の上に両手を乗せ、彼女は身を乗り出した。ニールがあまりに近い顔の距離に狼狽し固まる。

「だから、お願いです。黙って私を行かせて下さい」

 理由なんて、訊かなければ良かった。
 少年は紅潮した顔に冷や汗を浮かべ、必死の思いで目をそらす。

 その時、沈黙が支配していた部屋で、地を揺るがすほどの歓声がリディスの鼓膜を揺らした。彼女の全身に鳥肌が立つ。やっと視線をそらされて安堵した少年は、自分の頬の赤さを誤魔化すように口を開いた。
「あっ、あぁ……今日、だったか…。ほら、同盟破って挙兵したバベルに、アシュハルトも宣戦したんだ」
「な……そんな……」
 言うべき言葉を見出せずに、紅の瞳をもった少女は喉を詰まらせる。言いようのない息苦しさが、彼女を襲っていた。






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