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「cannot see the wood for trees」
アシュハルトはバベルに遅れること二週間という早さで挙兵した。その報を聞いてからすでに一ヶ月という時間が経過している。
あれほど「冬」という季節にこだわっていたのは一体なんだったのだろうと思わずにはいられない動きだった。まるで全く別の意志が働いているような……。
そこでラキアは思考を中断する。アシュハルトの不可解な行動は今に始まったわけではないし、冬に挙兵するという無謀な噂を鵜呑みにしていたわけでもない。確かにアシュハルトの対応は迅速だったが、予測の範囲内だった。
しかし、まさか、こんなに早く進軍してくるとは思わなかったのだ。
「……………くそッ!」
ラキアは湧き上がる苛立たしさを隠そうともせず執務机を蹴る。怒りを帯びた音が室内に響き渡り、数枚の書類が机上から溢れて床に舞い落ちていった。
バベルとアシュハルトを行き来するには、サルディナヤ山脈とイーサ山脈との間を通らねばならない。通ることができる場所が限られている分、守備の点では両国とも利点があるが、戦をするのにこれほど気を使う地形も他にない。
バベル軍は現在アシュハルトへ向けて北進中であり、計画通りに事が運べば国境を越えたところでアシュハルト軍と対峙するはずであった。それがどういうわけかその手前、バベルの領地内で二軍がぶつかりそうなのだ。
現地からの早馬の報せでは、アシュハルトは軍を三個師団に分けてこちらを迎え撃つ気らしい。
バベル二万、アシュハルト三万。大体そのぐらいの兵力の差がある。一万の兵力差は、ミネルヴァと彼が育てた兵士たちがいれば何とか覆せる数字だろう。
兵力を分散させねばならないのが果たしてバベルにとって良いのか悪いのか、軍人でないラキアには明確な答えは出せない。出来うる限り色んなことを学んできたつもりだったが、しょせん机の上で得られる知識などたかが知れている。
分からないことに対する苛立ちが後から後から込み上げてきて、しまいには城で守られていなければならない自分の立場にまで怒りを覚えた。
こんな時、いつも思う。一国を背負う、その重みと責任とを。
性急に事を進めて何とかバベルより先に国境にたどり着き、敵国に足を踏み入れた。数日中にはかの国と衝突するだろう自分の指揮下の軍のことを考えながら、アゼルは静かな山間を馬に乗って進んでいく。
およそ千という数の兵士が、彼に後続している。彼らのたてる甲冑の無機質な音が反響して、不気味な唸り声のように谷間を駆け抜けていた。その不快な音がアゼルの記憶の一部と結びつき、無理やり先日の情景を呼び起こす。
出陣前に彼はケゼフの元へ立ち寄った。ケゼフは全権を委譲するように迫られた時も、抵抗と呼べる行為を一切せずに成すがままにされていた。玉座から城の一室に移される際、王の手がきつく握られていることに気付き、そしてわざわざ何を握っているのか確かめようとアゼルが思ったのは、本当に気まぐれでしかなかった。
しっかり握っていたわりに、アゼルが触れると骨ばった手は簡単に力を失い握られた物をさらけ出す。
何の悪戯だろう。そう天に問わずにはいられなかった。
ケゼフの手に握られていたものは鍵。古く錆びれた銅の鍵。
アゼルは服の下の腕に鳥肌が立つのを感じた。彼は全く同じ形の鍵を、すでに持っていた。もっと綺麗な、銀色の鍵を。
ずっと自室の戸棚に閉まって磨いてもいなかったから、五年前に見たあの輝きは失われているだろうが……。
ケゼフの手の平から視線を逸らすことが出来なかったが、何とか彼は再び王の手を握らせることに成功した。そうしてケゼフの手に鍵が隠れてしまってもアゼルはしばらく酷い寒気に襲われていた。
同じ鍵が、二つもアシュハルトに揃ったのだ。
本来ならば一つとしてかの国から出てはならないものが。敵国の、しかも自分と王の手に。
衛兵に連れられていくケゼフの小さな儚い背中を見送りながら、アゼルは静かに決意を固めた。誰かが「使え」と言っているのだ、この鍵を使ってしまえと。
彼はその日、自室へ戻るなり五年間開けたことのなかった引き出しの取っ手を引いた。そして無造作に入れられていた煤けた銀の鍵と一枚の古い紙を手に取ったのだ。
「知っているか? バベルが密かに王城から抜ける隠し通路を持っているという噂を」
「………はっ、ぞ、存じておりますが……」
必要なとき以外は滅多に口を開くことのない第一王子の突然の問いかけに、第三連隊長は大いに慌てた。彼の狼狽を馬が敏感に察知してわずかに馬脚に乱れが生じる。
国境を越え、谷あいの道ならざる道を進軍し続け三度目の昼を迎えていた。数人の上級兵士以外はみな徒歩で岩肌を進んでいる。約千人の兵士を集めたこの別働隊の役目を、連隊長自身よく知らされていなかったのだが、指揮官たるアゼルがついているということはそれなりに重要な位置を占めているのだろう。
質問してきたくせに何も言ってこないアゼルは連隊長をさらに不安にさせた。気に障る返答の仕方だったろうかと要らぬ気をもんでいる彼を無視して、馬上の青年は口を開く。
琥珀の瞳は、真っ直ぐ、ある一点を見つめていた。
「脱出口の役割を果たしているからには、どこかに必ず出口があるはずだな?」
「……噂が真実なれば、そうでしょう……ですが」
それが一体どうしたというのだろう、連隊長はちらりと隣の青年の表情をうかがった。相変わらずの無表情からは読み取れる情報は全くないと言って良かったが、彼は無意識にアゼルの視線を追っていた。
「それが、あれだ」
意味を解すまでに充分な時間が必要だった。
連隊長はまとまらぬ思考のまま馬を進め、やがて谷間の岩壁に隠れるようにして鎮座している「扉」を見た瞬間に全て理解した。
確かにこれ以上ないというほど、立派な隠し通路の出口であった。
初めて身にまとう甲冑は重く、サイズは全然合っていない。こんなものを身に着けて戦うなどリディスには到底信じられなかった。
これが夏でなくて本当に良かったと彼女は思う。秋の割合涼しい気候でさえ甲冑の中は蒸し暑い。一秒でも早く全ての鎧を外して身軽になりたかったがそれは無理な願いである。
何度目か知れない溜め息をついたとき、隣を歩く兵士が耳元で囁いた。
「いいか? 絶対に話すな、俺から離れるな。休憩のときも兜は取るなよ?」
「わ、分かってますってば」
吐息交じりの小さな声でリディスも返す。隣の兵士、もといニール・ランディットは王宮を抜け出しこの隊に紛れ込んだ時からずっと同じことを繰り返しリディスに言っていた。リディスの返答も同じである。
約一ヶ月前、鬼気迫るリディスの様子に屈したニールは、彼以外の見張りがいない離れの一室をリディスを連れて抜け出した。
ニールの働きで何とか城を抜け出し(この時リディスが方向音痴であるのを彼は嫌と言うほど思い知った)、リディスの望みで取り合えず出陣していく兵士の群れに紛れこんだのだ。
今までに分かっていることと言えば自分たち二人がいる隊は第五小隊であるということだけ。どこに向かっているのか、何をするのか分からないまま三日間歩き続けている。
ニールは最初「しまった」と後悔した。リディスが女の身でしかも重い甲冑をまとい男と同じ行程を進むなど無理だと気付いたのだ。途中で音を上げても手を貸すわけにいかなければ、目立ってしまうのも得策ではない。甲冑を剥がされれば彼女が女であることなどすぐにばれてしまうからだ。
だが驚いたことに彼女は一向に疲れを見せる様子はない。男の自分だって疲労を感じているのにリディスは弱音の一つも吐かずちゃんとついて来ている。そこに彼女の「意志」を見たようでニールは改めて感心せずにはいられなかった。
こんな女を初めて見た。
湧き上がる想いを何と呼べば良いのか分からないが、取り合えず彼はリディスの望みを叶えてやりたかった。
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