まるで誘われているようだ。
 急ごしらえの粗末な司令部で、ミネルヴァは唸った。


「忍びよる足音」


 主力軍同士が衝突してから、三度の夜を迎え、同時に三度目の日の出を見た。
 イーサ山脈の山際から昇ってくる朝日は戦場の草原を美しく照らし出す。もし輝き出した草原が血に染まっていなければ絵に残しておきたいほどである。
「見たまえ、戦線が三日でこんなに移動している」
 机の上に乗せられた地図に、ミネルヴァの大きな節くれ立った指が滑った。わずかな重みで机はきしむ。
「……どういうことでしょう。まさか、罠、ですか…?」
 傍らの若い男が声をひそめて囁いた。
「分からない。斥候せっこうは特に何も見つけられなかったと報告を受けている。兵が隠してあるわけでもないようだ」
 アシュハルト軍は剣を交えながら徐々に引いていく。バベルは追う。そしてとうとう国境を越え、アシュハルトの領に戦場は移った。
 これ以上追ってはいけない、ミネルヴァの本能がそう告げている。
 追う側であるバベル軍の兵士の間には「勝っている」という感覚があるが、それは間違いだった。負けているわけではないが勝ってもいない。戦況は特に変化しておらず、戦場だけが動いている。
 普通、後退していく兵士の指揮は著しく下がるものだ。しかしアシュハルトの兵には引いていながらにして勝利への欲望は消えていない。よほど将の手腕が優れているか、あるいはすべて計画通りのことなのか……。
 とにかく、バベルは勝っているわけではないのだ。敵を押しているからといって油断していれば、反撃にあった時の軍の衝撃は計り知れない。
「各将に伝えよ。戦線を一直線に保ったまま、軍を国境まで後退させる」
「………っ! ミネルヴァ様、しかし――」
「事は早急を要する。アシュハルトが動く前にだ」
 ミネルヴァは己の軍人としての勘に従った。
 このとき、彼よりもずっと後方、バベル帝都の地下に敵の軍が蠢いていることなど、いかに彼が優秀な司令官だとは言え知る術はなかった。





 地面を叩く雨音に、ラキアはふっと目を覚ました。
「…………寝て…いたのか」
 いまだ覚めやらぬ目をこすり、再び深い眠りに沈もうとする体を必死で起こす。
 どうやら書類を片付けていた途中に居眠りをしてしまっていたらしい。いつもなら起こしてくれるはずのセラフィーの姿は今はない。本来ならバシリスク家の執事というだけの男だったが、この緊急事態に彼の処理能力は良いように使われているのだ。
 背後の窓を振り返ると、空は早くも紫色に染まっていた。赤から青に移り変わっていく空の色は見事としか言いようがなく、夏の影は見えない。一目見ただけで秋の空だと分かる。

 ぼんやりと視線を漂わせていたラキアの背中に、コンコンと扉を叩く音が聞こえた。セラフィーではない。
「……入れ」
 まだ寝ぼけているらしい。ラキアは自らの声の歯切れの悪さに内心驚く。
「失礼します。ラキア様、トリスタン様がお呼びでございます」
「アリヤ、か……。トリスタンが? 分かった……すぐ、行く」
 丁寧に礼をしてみせる少女の眉が少ししかめられた。
「ラキア様、失礼とは存じますが……お疲れとお見受けします」
 遠慮がちな物言いの中にはっきりとした意志を感じさせる彼女の様子が一瞬セラフィーと重なり、ラキアは反射的に頷いてしまった。「ああ」と呟くように肯定しながら、やはり自分は寝ぼけているのだと改めて思った。そうでなければ簡単に弱みなど見せるはずがなかった。
「少々、お待ちください。私、お飲み物と軽い食事を持って参ります。何かお口に入れなくては」
「しかし……」
 そんな時間はないのでは、と言いかけるラキアの言葉を遮って、
「トリスタン様のご用は急を要するものではないようです。それより今はラキア様のお体が大切です」
 にっこり微笑んで扉の向こうへ消えて行ったアリヤを、ラキアは止めることが出来なかった。ずるずると椅子に体を預けて深く息を吐く。

 果たしてこんな自分の身に心配されるだけの価値などあるのだろうか。
 自嘲的な笑いを浮かべて目を閉じる。
 考えるだけ無駄な問題だった。それでも考えずにはいられない。誰かが自分の身を案じるたびに、彼の心にはいつだってその考えがよぎるのだ。
 みな、ラキア・バシリスクという人間を心配しているのではなく、バベル帝国の宰相の存在を気遣っているのだと。
 それは当たり前のことだ。当たり前すぎて、改めて考えるのも馬鹿らしいこと。考えるだけ無駄なこと。分かっているのにラキアは繰り返す。

 彼女もそうだったか?

 ふと、目の前から突然姿を消した少女が脳裏によみがえった。
 夜会のあの日、自分を守ったあの少女はどういうつもりで自分を守ったのだろうか。考えてみると不思議だった。あの場であのとき彼女が自分を守った理由はなんだったのだろう。
 復讐のために近づいたのだから、防ぎきれなかった振りをして見殺しにしてしまえば良かったのに。いや、やはり彼女は自らの手で息の根を止めたかったのかもしれない。だから守ったのかもしれない。

「貴方は、生きて」

 そう言って泣いた彼女の真意を、ラキアはまだ図りかねていた。
 でも分かっていることが一つだけある。
 それは、彼女が見ていた人間はバベル帝国の宰相ではなく、ラキア・バシリスクだということ。
 彼女が殺そうとしたのも、守ろうとしたのも、ラキア自身で。そこには肩書きなど存在しなかった。それだけは確かだった。
 あの少女が自分をただの一人の愚かな人間だと思ってくれているのなら、それで全ては良いような気がした。

 夕闇はいつの間にか濃い藍色に染まり始め、星がいくつか煌いているのが見える。一向に雨は止む気配を見せず、雨足はむしろ激しさを増すばかりだ。地上に存在するあらゆるものに天の恵みは降り注ぎ、細い雨の線は辛うじてまだ目に捉えることが出来るが、もうすぐ闇に同化して音だけの存在となるだろう。
 ラキアは視界の隅に何かを見た気がして眉を寄せた。
 目を凝らして外の草地を見る。あまり視力が良い方ではない彼は、しばらく黙ったままじっと暗闇を睨んで、表情を一変させた。
「……………ッ!?」
 声にならぬ叫びを上げ、思わず一歩後退する。背中が執務机に当たり、崩れそうになる体を手で支えた。机上の数枚の紙切れが宙に舞う。インクの壷が倒れ硬質な音を立てた。
「セ……セラフィー…、セラフィー!」
 大声で執事の名を呼びながら、壁や机の上にあった蝋燭やランプを全て消す。部屋は闇に支配される。

 窓の外、あの草地に、無数の影が蠢いていた。
 わずかに残った明かりに照らし出された甲冑は、決して見慣れたバベルのものではなかった。彼の知識が正しければ、あれは――

「アシュハルトだ……」


 ラキアの思考が目まぐるしく動き出す。全ての事象を瞬時に繋げさせながら、彼に現状を把握させた。
 叔父は何と言っていたか。
 自分があの飾り気のない庭に花や木を植えたいと訴えた時、彼は何と答えたか。
「………あの場所は、ただの芝生で良いんですよ」
 そう言って笑ったあの人。彼は知っていたのだ、隠し通路の入り口を、外から来たものには「出口」となる場所を。


 ラキアは壁に掛かっていた装飾用の剣を手に取った。執務室の扉を開けて廊下に出る。控えていた衛兵二人が深く頭を垂れるのを待たずに口を開いた。
「城中のものに伝えろ。アシュハルトが城内に侵入した、全員大広間へ! 敵に遭遇したら抵抗するな、そうすれば……命は取られまい。あと余裕があれば出来るだけ城の明かりを消してくれっ」
 何も分かっていない様子で見返してくる兵士にラキアはもう一度声を張り上げた。
「城内にアシュハルト軍が侵入した。城の者を大広間へ避難させろ。……早く!!」
「……は、ハッ!!」
 半ば気圧されるようにして兵士の一人は廊下を駆けて行く。途中でぶつかったメイドに指示を飛ばしているのを見てラキアは残った一人に視線を合わせた。
「お前は練兵場に言って兵を収集させろ、それから兵営場に人をやって近衛師団長のランディ-ルにさっき言ったことを伝えるんだ。分かったな!?」
 まだ年若い兵士は一度口を開いたがそこから声は出てこなかった。もう一度小さく息を吸って短く返答すると、踵を返しさっきの兵士とは逆方向に走り出す。


 ジェラルダン・コンスタントという青年が残した資料にあった隠し通路がそれだ。
 叔父が最期に自分に渡したのがその鍵だ。
 そしてその鍵は、今、リディスの手にあるはずだ。
 ではリディスは……


「ラキア様ッ! これは……一体――」
 急いで駆けつけたのだろう。珍しく息を切らせたセラフィーがラキアに怪訝そうな表情を向けた。
「城内にアシュハルト軍が侵入した。……多分、隠し通路からだ」
 とにかくこの場所から一刻も早く離れなくてはならない。装飾用の、実践には不向きな剣を握り締めて、ラキアは駆け出した。セラフィーの足音が後ろに続く。すでに大方の者たちに伝令は伝わっているようで、廊下には混乱した人間が溢れていた。
 口頭であのような言葉を伝えればこのような状態になるのは火を見るより明らかだったが、方法を選んでいる暇がないのだから仕方がない。
「全員大広間へ! 急げ!!」
 地の利はこちらにあった。この暗闇のなか城内の明かりを消してしまえば敵を撹乱かくらんできるだろう。だが逃げるだけで手一杯の者たちに、なおかつ火を消せなど言えるはずもない。
「セラフィー……、俺は、死ねない」
 人込みの中を駆け抜けながら、ラキアは言った。
 帝国の宰相として、ラキアは自分が死ぬことに対する影響は痛いほど分かっていた。彼は死ねなかった。
 目の前で誰かが敵の手に掛かろうとしている時でも、身を挺してかばってやることはできないのだ。
 見捨てて逃げる、それが最良の選択。
 誰かを見捨て、踏み台にしてでも、帝国の宰相たる我が身を守り続ける。その何と情けないことか。
「分かっております。……守りますとも、この命に代えても」
 すぐ後ろから付いて来る彼の執事は、全て心得ていた。

 せめて、せめて出来うる限りのことをしようと、ラキアは喉が痛いほど声を張り上げる。
「大広間へ! 敵にあっても抵抗はするな!!」
 はるか後方で、ガラスの割れる音が聞こえた気がした。






 暗い地下からやっと空の下へ出たというのに、視界に映るのは依然として闇しかなく。おまけに勢いよく降り注ぐ雨が、服の上から肌を叩きつけてくる。
「………ここか…」
 吐息混じりに呟いたアゼルの言葉は誰に届くともなく、降り注ぐ雨に紛れていった。
 本来なら「入り口」となるはずのそこは、今アゼルたちにとっては「出口」だ。大掛かりかつ複雑な仕掛けがしてあるのだろう、出口は人の手を借りずその口を開け、一度に十人ほどが通れるほどの大きな出口がやけに簡単に開く様子にアゼルは驚いた。
 外に見張りが立っているかと警戒したが、むしろ隠し通路の入り口の周りは意図的に人を遠ざけているような雰囲気が漂っている。城の、おそらく裏手の庭にあたるこの草地にアシュハルトの別働隊は何の抵抗も受けず整列し始めた。

「第一小隊はただちに城内への進入路を確保、第二小隊及び第三小隊はライス隊長の指揮下に、第四小隊及び第五小隊は私と共に城内へ、第六小隊はこの場に残って通路の入り口を死守せよ!」

 しだいに強まってくる雨音に負けない低く強い声があたりに響きわたる。アゼルの指示に素早く兵士たちは動き始めた。
 ふっと、視界の端になにかの明かりが瞬いたような気がしてアゼルは近くの窓を見る。一面ガラス張りのその部屋で、確かに明かりが消えた気がした。
 気付かれたか、無表情のままでアゼルは思う。彼の後ろで兵士たちはせわしなく動き、進入路を探すべく湿った草地を走っていく。
「第四小隊、第五小隊、全隊員揃いました!」
 無言でたたずんでいたアゼルに、怒鳴るような声が掛かった。振り返れば月明かりもない闇の中に甲冑を纏った兵士が居並んでいる。少ない光に銀色の鎧が浮かび上がる様子は気味が悪い。亡霊の集団のようだった。

「向かってくる者は構わず斬れ、抵抗しない者は捕虜としろ。バベルの宰相は私が直接やる、見つけたら手荒な真似はせず捕縛しておけ………行けッ!!」

 アゼルの声が闇に上がる。不穏な足音が重なり合う。

 さぁ……、もう、前に進むしかない。






 大広間に足を踏み入れたラキアを、すでに集まっていた者たちのどよめきが迎えた。彼に向けられる瞳はその全てが濃厚に恐怖と不安を訴えており、青年は安心させるようにかすかに微笑を浮かべた。
 後から押し寄せてくる城仕えの人間に押されるようにして、ラキアは広間の中央に歩を進める。セラフィーは一歩後ろに無言でついて来る。
 バベル城に駐在している兵士はざっと二百人程度。侵入者が総勢何人か分からないゆえ二百という数が多いか少ないか分からない。だが、ラキアの勘では、圧倒的に少ない数字だった。
「みんな、静かに!……聞いてくれ。城内にアシュハルトが侵入してきたのはおそらく……間違いない」
 彼が一声かけたのと時を同じくして、ぴたりとざわめきは収まる。一人一人の鼓動の音さえ聞こえてきそうな静寂の中、遠くから雑音のような雨の音が耳に届いた。不安をより一層掻き立てるような、嫌な音色だった。
「兵士以外は抵抗せず、大人しくしていろ……抵抗しなければ…これだけの人数だ、命までは取られないだろう」
 広間にひしめく全ての無抵抗の人間の命をとるなど、普通の精神の持ち主であり指揮官ならばまずありえない。分かっていても確信を込めて言うことが出来なかった自分をラキアは恥じた。安心させてやらねばならないのに、自分が一番怯えていてどうするのだ、と。
 縋ってくるいくつもの瞳を振り切って、ラキアは広間の入り口に集まっている兵士に向き直った。皆、手には剣をつかんで極度の緊張で顔の筋肉が強張っている。
「練兵場と兵営所には伝令を飛ばした。……練兵場の兵士が駆けつけるまで、なんとかこの場を死守しろ。残存兵士が間に合えば敵を挟み撃ちにできる。地の利はこちらにあるんだ、何としてでも敵を防げ!」
 瞬間、張り詰めた空気と、湧き上がる士気が絡み合う。奇妙な空気の中で兵士たちは短く、しかし強く頷いた。喧騒はやみ、ひっそりと互いの息づかいだけが空間に漂う。

「セラフィー……、俺は間違っているんじゃないだろうか」
 剣を握りしめ封鎖した出入り口の前に立つ兵士たちを見ながら、ラキアは呟いた。先程とは打って変わって頼りない声音だった。
「ここにいる全員の命を救いたいのなら、本当にそうしたいのなら、別な方法があるんだ」
 セラフィーからは沈黙しか返ってこない。でも意識はちゃんとラキアに向かっていることを彼は知っていた。
「全員に抵抗させなければ良い。ある一人が犠牲になれば、それで皆の命は救われるんだ」
「それが最善とは限りません」
 わずかに遠慮を含んだ言い方だった。本当はこう言いたかったのだ、「それは最善ではない」と。セラフィーの声はラキア以外には届かないほど小さく、強かった。
「私には、他の全ての者が犠牲になっても、貴方が生きていればそれが最善です」
「それは、間違ってる」
「間違っているかどうかは、誰にも決められません。私の真実は、私が知っています」
 何も言い返せず、ラキアは再び口をつぐんだ。出入り口から遠ざかるようにして後ろへ下がっていく。

 そうだ、それが最善だ。
 ラキアとしてではなく、帝国の宰相として。それが最善だ。
 分かっていて、セラフィーに問うたのだ。はなから自分が犠牲になるという選択肢などなかったのに、真っ当な人間の振りをしたくて、そう言ったのだ。

 後退した背中が誰かにぶつかり、短くかすかな女の叫びが上がる。ラキアは慌てて彼女を起こしてやりながら、不意に何か忘れているような焦燥感に襲われた。
「……………アリヤ…」
「どうしました?」
 助け起こした侍女に視線を合わせたまま固まってしまった主を、セラフィーは不審に思って声を掛ける。緊迫の色を宿した紫の瞳がセラフィーを捉え、
「アリヤが……、セラフィー、行って来い」
「………………」
 執事は心もち目を見開いただけで何も言わない。
「アリヤは、きっとまだ給湯室だ……。セラフィー、行って――」
「行けません、……行きません」
 そう言ったきりセラフィーは口をかたく結んでしまった。
 もしかしたら自分の取り越し苦労で、とっくに彼女はここへ避難して来ているかも知れない。壁一枚向こうの雨音しか聞こえない静かな広間の中で、ラキアは一度少女の名を呼んだ。思いのほかよく響いたその声に対する返答はない。
 しばらく経って進み出たアリヤより少し背の高い少女が蒼白な顔で言った。
 給湯室へは、伝令が行ってない、と。
 みんな報せに動転してしまい厨房の脇の給湯室にいた者たちはここに見当たらないのだと。

 ラキアはもう一度セラフィーを見た。
 セラフィーはラキアを見ようとはしなかった。

 広間の扉の向こうから、甲冑の擦れる無機質な音と、重なる足音がだんだんと大きくなってきていた。さっと空気が凍るのを身に感じた。血が一斉に引いていくのが良く分かった。

「セラフィー」
「………行きません」

 貴方が、希望なのです。そう言ったきりセラフィーは硬く口を閉ざした。






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