何が起こったのか理解するのは容易ではなかった。
 事実は視覚を通して脳へ届いても、思考がそれに追いついていかない。
 さっきまで、たった今まで、隣で笑っていた仲間が足元に横たわっている。
 背中はどす黒く染まっていて、侍女の制服は確か黒ではないはずなのにと不思議に思った。
 手から滑り落ちた銀製の食器が床に吸い込まれるようにして落ちて行き、甲高い音が鼓膜を揺らす。
 硬直して動かない手からパンの一欠けらが無音でこぼれ落ち、白い床に辿りつくとなぜか赤く染まった。その色が何を示すのか分からなくて、分かりたくなくて……。
 なのに目の前で、見慣れぬ甲冑はガチャリと不穏な音色を奏でる。

 アリヤは何も考えられず、ほとんど無意識に懐の細く小さな護身用の刀に触れた。
 それは「抵抗」と呼ぶに充分な行為であると、アシュハルトの兵士は狂気じみた笑みで解釈した。


「その両手で抱えたいもの全て」


 兜のせいで表情は全く見えないのに、なぜだかアリヤには相手が笑ったのが手に取るように分かる。同時に自分の行為がとても短慮で愚かなものに思えて仕方なかった。
 いや、もし抵抗しなかったとしても、目の前で無抵抗そのものであった彼女の同僚は斬りつけられたのだ。今はもうピクリとも動かない同僚のことを考えれば、武器を持って少しでも反抗した方が懸命かも知れなかった。
 一歩、兵士が前に進む。動きに合わせて甲冑は耳障りな音を立てる。手にした大剣から赤いしずくがポタポタと床に落ち、柔らかな絨毯じゅうたんに赤い華を咲かせていく。
 アリヤもじりじりと後ろへ下がっていく。背を向けて走り出すことはどうしてもできなかった。敵に背を向けたその瞬間、必ず自分も同僚と同じ運命を辿ることになる……、彼女の本能が最悪の未来を予想させる。
 男が踏み出す一歩が、アリヤにとっては死への一歩に等しかった。

 後退した背中に、トンと軽く何かが触れ。
 触れた箇所から一瞬にして恐怖が広がる。
 冷たく硬い壁から這うようにして広がったその恐怖に、アリヤは全身からどっと汗がにじみ出るのを感じた。

 凍った顔の筋肉は、彼女に無表情を強いていた。心臓は煩いほど暴れまわり、血の気は音を立てて引いていく。
 まるで一つの生命体のごとく痙攣を続ける両手はそれでもしっかりと小刀を握り締めていた。しかし目前に迫った男の持つ血に濡れた大剣に対して、彼女の武器はあまりに非力、あまりに意味を持たない。震えた少女の手ではまともに扱えるはずもなかった。
 金属の擦れる不協和音が突然止まる。
 なぜなら男はもう歩く必要がなくなったから。手にした剣が小さな少女に届くには充分な位置まで来ていたから。
 愉悦で歪む顔を男は抑えられなかった。
 彼が重い剣を高く振り上げたその時、アリヤは自分の抵抗はほとんど無意味であり、むしろ相手を喜ばせるだけの行動であったことを悟った。しかし理解したところで、壁を背にして辛うじて立っている彼女の体は小刀を握る以外の動作はできなかった。

 ずん、と剣の切っ先が傾いていく、少女へ向けて。
 斬るのではなく相手を押し潰すように作られた鉄の塊。
 アリヤの栗色の瞳は、狂気に任せて風を押し切って振り下ろされるだろうそれをただ映していた。
 叫びなど上げる暇もなく、目をつむる暇もなく。もはや呼吸さえ忘れ、心はまるで崩壊を恐れるように何も感じなかった。
 だから幻影だと思った、視界の隅に捉えた姿など。
 死ぬ間際に都合の良い夢を見たのだと。

 重く、鈍く、何の前振りもなく、その音は響いた。
 一分の情もなく、躊躇もなく、肉を断ち切って突き破るくぐもった音。

 アリヤの目と鼻の先に鋭くきらめく切っ先があった。
 かすかな光を跳ね返す細く長い鉄色が、眼前の兜と鎧のすき間から生えている。薄暗がりの中、その刃だけが白く浮き上がって見えた。
 時が止まったのはたった一瞬のこと。
 男の首から伸びた剣が引き抜かれると、甲冑がぐらりと傾いだ。アリヤの頬に赤く生ぬるい液体がわずかに飛んだが、彼女に気付くだけの余裕はなかった。
 けたたましい音を立てて、まるで糸を失った操り人形のように床に倒れた男の背後にあった姿。よく見知ったその姿に、アリヤの思考はやっと動きだす。

「………セ……セラフィー…様……」
「…………無事だな?」

 確かめるような間をおいて、セラフィーは言った。言いながら手にした剣に付着した血を振り払う。
 彼の表情はよく見えなかったが、その存在だけでアリヤには充分すぎた。込み上げる涙を止める術などなく、溢れた雫が頬をつたって床の絨毯に吸い込まれていく。
 とたんに全神経がぷつりと切れてしまったかのごとく彼女は床にずるずるとへたり込んだ。もう立てる気がしなかった。

「……アリヤ、貴方に構っている暇はないんだ」

 頭上から降ってくる厳しい声音に少女はゆるゆると顔を持ち上げた。
 暗くても、セラフィーの顔に滅多にない苦渋が浮かんでいるのが予想できた。

「立って、走れ。生きたいなら、ついて来い。……今度は抱えてやる余裕はない」

 座り込んだ者の答えなど彼は待ってくれなかった。剣を鞘に戻さないままセラフィーは出口へ向き直る。
 向けられた背中に少女の甘えを許す隙は全くない。遠ざかっていく背中に声を掛けたとしても引き止めることは出来ないだろう。必死で手を伸ばし、震える足に力を込める。
 両足で何とか床を踏みしめると、アリヤは廊下へ出て行った青年を追った。

 一度だけ、青年は振り返って駆けて来る少女の姿を見止めると、誰にも分からないくらい小さく笑った。






 セラフィーに渡された剣が汗で滑る。
 ラキアはもう一度、両手でしっかりと剣の柄を握りなおした。
 半ば命令をするような形で広間の裏口から追い出してしまった彼の執事は、もう少女の元へたどり着いているはずだった。何の障害もなければ……。いや、とラキアはすぐに自らの暗い考えを打ち消した。あの青年に限って途中で行方を阻まれるようなことはあるはずない。きっと無事に主である自分の元へ帰って来るのだろう。

 だから、今は、確かな剣の腕を持つセラフィーではなく、帝国の宰相である無力な自分の身を案じるべきだ。

 少し前から、この大広間へ通じる最も大きな扉が一定の間隔でもって振動を続けている。必死で内開きの扉を押さえる兵士たちには悪いが、もう一分と待たずその場所は大口を開けアシュハルトの兵を迎え入れるだろう。
 扉が鈍い音を立てて揺れるたびに周りの人間も震える。恐怖で小刻みに震えるいくつもの唇から女神イシスへの祈りの言葉が紡がれる。ぼそぼそと呟かれる小さな音が幾重にも重なりさざなみのように辺りにこだます。
 その波に耳を傾けながらも、ラキアの頭は別のことを考えていた。
 彼は神の存在など全く信じてはいなかった。だから他のバベルの民のように、このような極限の状態ですがることのできるものは持っていない。
 だが国を動かす立場にいる者はそれでいいのだ。神を信じるのは別に構わないし、正直すがる何かがあるのは羨ましい。
 それでも、神は結局は何もしてくれない。

 何度目かの振動に広間の天井からパラパラと何かの破片が降ってきた。ラキアの耳が扉のきしむ嫌な音を拾う。

 神は何もしてくれやしない。
 どうやら練兵場からの応援は間に合わないらしかった。覚悟を決め、彼は相変わらず祈りの言葉を夢中で唱えている者たちに向き直る。
「いいか! 抵抗はするな、大人しく、じっとしていろ。良いな!?」
 自分の口から発せられる気丈な言葉が精一杯の虚勢であることなどラキア自身が一番よく知っていた。念を押すように再度同じことを繰り返した時、横から聞きなれた声が飛んできた。
「………トリスタン?」
 首を巡らし視線を落とす。見返してくる男の瞳の力に、青年は一瞬息を止めた。
「嫌です。嫌ですよ……。私は守りますよ、貴方を……。私たちのような老いぼれが生き残って何になりましょう」
 揺るぐことのない確かな決意を宿す瞳が、ラキアを見上げていた。トリスタンの後ろにも同じような光を持った瞳がいくつもあって、そのどれもが彼を見ていた。
「――……待っ……」
 喉でつかえた言葉を言い終わるより先に、ラキアの背後でいくつもの叫び声と雄叫びが上がった。恐怖と歓喜と狂気、全てが入り混じった様々な声が四方八方に飛び散る。
 振り向けば一瞬前まで閉じていた空間が切り裂かれ、四角く開いた口から鈍く輝く甲冑の光が雪崩れ込んでくるのが見えた。
 黒光りするアシュハルトの塊に、一斉にバベル兵士が飛びかかる。薄暗がりの中、両者の見分けは遠目ではつけられず、喧騒と共に交じり合う人間が蠢きあう様子は不気味だった。

 剣を握る手の強さとは裏腹に、ラキアの足は一歩後ろへ下がっていく。そんな彼の横を、反対に進み出る黒い影があった。
「トリスタンッ!?」
 混乱を混ぜ返したような空間の中に、ラキアの声は呑まれていく。背を向けて自分の前に立つトリスタンと数人の男たちを、彼は信じられぬ気持ちで眺めた。
「下がってください。死んではいけない、貴方は死んではいけない」
 熱に浮かされたうわ言のようにトリスタンは繰り返す。剣など一度だって持ったことないような老人たちが、ラキアと蠢く影との間に立っていた。
 剣身の放つ光が揺れている。
 それはつまり彼らの剣を持つ手が震えているということに他ならなくて。

 割り切って自分の身だけを考えるできず、目の前に晒される無力な命を見捨てることもできず。
 それでも全てを守りきるだけの力はなく。ゆえに、いつまでも迷う。

 目の前の暗闇から一つの影が浮き上がる。見慣れぬ甲冑が剣を振りかざし、トリスタンに躍りかかった。


「あなたは、生きて」
 よみがえる少女の言葉を、たった一つの彼女の願いだけを、今この時は考えよう。


 剣と剣がぶつかり合い、かすかに火花が散る。
 両腕に受け切れなかった衝撃が駆け抜け、骨がビリビリと震えた気がした。
「――………っ、ラキア様ッ!! ――ラキ」
「トリスタンっ!!」
 それ以上その名を呼ぶな、と。相手の剣を辛うじて弾き飛ばしたラキアが、背後の男の声を遮る。
 闇の中ではどの影がこの帝国の宰相であるか、アシュハルトは元より、見方の多くも判別できないだろう。が、名を呼んでしまえばそれまで。敵に居場所を知らせてしまうようなものだ。普段ならこんな失態など起こさないはずの老人が、後ろではっと息を呑む気配があった。
 ラキアの神経は今までにないほど張り詰めていて、音も気配もいつもの数倍近くに感じられた。
 思わぬ抵抗にあった上、間近で呼ばれた名前に敵の表情が兜の内側で驚きに染まったのが分かる。
 次の瞬間、仲間を呼ぶ声を上げるため息を吸った相手に、ラキアは剣を振るった。叫ばれるわけにはいかないのだ。


「あなたは、生きて」
 少女の言葉を、ラキアは守ろうとしていた。
 あと少し、少なくともセラフィーが現れるまで、彼が戻ってくる場所と理由を守ろうと思った。
 あの少女はきっと、他の全てを犠牲にしてでも自分に生きろと言ったわけではないと思ったから。今度会ったときには、真っ直ぐ彼女の瞳を見つめられるよう、今は逃げるわけにはいかなかった。


 力任せに振り切ったラキアの剣は、アシュハルトの兵士の甲冑に一筋の傷をつけるに留まった。しかし彼の意図は全うされ、兵士は味方を呼ぶのを忘れ再び剣を構えなおす。
 甲冑の継ぎ目は首と両肩、足の付け根。そのどこかに剣を潜り込ませることが出来れば、直面している危機は避けられるはずだ。
 柄を握る手の震えはもう収まっていた。執務室で書類の処理をしている時と同様の、あの冷静な感情が戻ってくる。

 向かい合う相手の背後の開け放された扉から、新たな敵がわいてくる。手に松明を持って。
 ラキアが剣を振るうより先に、相手の兵士の影が動く。
 燃える炎に照らされた鈍色にびいろの鎧が夕焼け色を放ちながら向かってくる。
 頭で考える前に動いた手が、肩に落ちてくる剣を防いだ。
 腕に掛かる負荷は一瞬で消え去り、押し返していた力が行き場を失い前のめる。
 無防備になった彼の背中へ風を切って鋭い刃が振り下ろされる。
 それが分かっていても、重心を失った彼の体は敵の切っ先に背中を向け続ける。


 刹那、視界の端に赤く輝く銀色を見た気がした。
 ここにあるはずのない色を。


 金属がぶつかり合う重い音。
 背後で鳴り響いたその音が何を意味するのか、一刻も早くその目で確かめたくて。ラキアは床に手が付くなり身を捻った。

「引きなさい。この方には、指一本触れさせません」

 鼓膜を揺らす声は忘れようにも忘れられないあの声で。
 薄闇の中、燃える松明の光に浮かび上がるのはあの銀色で。
 ラキアの背中に振り下ろされるはずだった剣身を押し返しているその後ろ姿。

「………引けッ!!」

 振り向けばその瞳はきっと紅く輝いているのだ。

「………………リディ…ス…?」


 ああ、どうして。
 君はそんなに強く在れるのだろう。






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