まばたきして、次に目を開けたときには、駆け抜けていった銀の髪も、強い意志をたたえた紅い瞳も、
 また自分の隣にあるんじゃないかと。
 けれど振り向いたそこには、脱ぎ捨てられた銀の兜が揺れているだけで……。


「紡がれたもの」


 呆然とするニールの足元で、役目を終えた兜はまだくるくる駒のように回っていた。
 投げ捨てた少女は彼の目の前で、味方のはずの剣を必死で受け止めていて。そう、敵の男に振り下ろされるべき味方の剣を、その細い腕で。
 少年は動かなかった。動けなかった。
 剣のぶつかり合う音も、人の怒鳴り声も、彼の世界には存在しなかった。

 蝋燭と松明が入り乱れる薄暗闇の中、少女の剣が唸りをあげて一閃する。火の光を反射して、煌めく剣は闇の中に白い軌道を描く。
 聞こえてきた男の呻き声。甲冑が崩れ落ちるけたたましい音。続いて剣が床を滑る甲高い音色。
 混乱する頭で彼は一歩後ずさった。出来れば目を閉じて何も見たくなかったが、あいにく彼の意思に反して瞳は大きく見開かれたままだった。
 突然、無防備な殺意を背中に感じ、ニールは反射的に振り返った。頭上に振り上げられた敵の剣を見とめると同時に、体中の熱が引いていく。
 剣を構える暇など彼にはなかった。音を立てて迫ってくる剣から目が離せなかった。

 次の瞬間、剣と彼との間を黒い影が横切り、少年の頬を風が掠めていく。
 来るはずの衝撃はいつまで待っても訪れなかった。
 相手の男の手を離れた剣が、足元で跳ねる。

 ニールの目が影の軌跡を追った。眼前を掠めていったその影は味方の鎧をまとったあの少女だった。
 振り返った少女の瞳には怒りも憎しみも敵意もなく。ニールを見返す紅い瞳に動揺が走る。
 その表情があまりに痛々しくて、少年はそれ以上彼女を追及することが出来なかった。
 自分に剣を向けていた男が呆然としているのを確認してからニールは歩きだす。近寄ってくる彼に少女の肩が小さく揺れる。
「助かったよ……」
「………え?」
 言われた言葉が呑み込めず、少女は首を傾げる。構わず彼女の肩へ伸ばした手が、不意に後ろから別の手に掴まれた。驚いて振り返るニールの目の端に、少女の見開かれた紅い瞳が映る。
「ラ……キア、様………」
「……何だ、こいつは」
 少女が紡いだその名に、少年は身を強張らせた。掴まれた左手が痛かった。見上げたそこにあるバベル帝国宰相の髪は薄闇に同化するほど黒く、紫紺の瞳は闇の中でなお澄んでいた。背中に銀髪の彼女の慌てた気配が感じられた。

「ここまで連れてきてくれたんです。……敵じゃ、悪い人じゃないんです。だから――」
「もう二度と、あんな思いはごめんだ」
「あ、あの……」
「もう二度と、あんな無力感は味わいたくないと言ってるんだ」

 ニールの手を掴んでいた青年の手からゆるゆると力が抜けていく。紫の瞳は真っ直ぐ少女へと向けられていて。見返す真紅の瞳には青年しか映っていなかった。
 その時、どうしてかは彼には分からなかったが、ニールは湧き上がった衝動を抑えられず二人の間に無理やり押し入った。
「リディス! お前もう後ろに下がって隠れて――」
「鎧、外してもらえます?」
 凛と響く声。少年の背後であの青年がかすかに溜め息をついた。
「は? つけてた方が……」
「外してください」
 有無を言わさぬ口調に流されるまま、ニールの手は鎧の継ぎ目へ伸ばされた。
 甲冑が鳴る。
 最後の留め金が外れたと同時に、少女は地面を蹴った。
 驚く少年を後にして、青年が差し出した剣を手にすると、銀髪をなびかせ彼女はふわりと宙に舞う。まるで風のように。
 その瞬間初めて、少女にとって甲冑は身を守る道具になり得ないことをニールは知った。
 金属など、彼女にとってはただの枷に過ぎなかったのだ。





 着地と同時に薙ぎ上げた剣が、アシュハルトの兵士の甲冑を削った。気圧され後退するその兵の腕の付け根、甲冑の継ぎ目のわずかなすき間に剣を滑らせる。
 呻き声と共に剣を取り落とした兵士に切っ先を向けたまま、リディスは振り返った。喧騒に包まれた大広間の中で、彼女の周りだけは静かだった。
 黙ってこちらを見ている青年。彼がこの国の要、この国の宰相であり実質の統帥者。それを察したアシュハルト兵が剣を構え向かってくる。
「貴方を……」
 広間に配置された蝋燭に次々と火が灯っていく。白い壁が照らし出され、バベルとアシュハルト兵との境界線が顕わになる。
「貴方を守ります」
 ラキアは無言で少女を見ていた。一点の気負いも迷いもなく見据えてくる紫紺の瞳を、リディスもまた見返していた。
「そして、また、ここに帰って来ますから……」
 もう松明の光など必要なかった。大広間はまるで夜会の時のような輝きを帯びている。
「だから……待っていて下さい」
 リディスは身を翻す。銀髪がなびく。
 振り向きざまに細い剣は一閃して、向かってくるアシュハルトの兵士たちの進行を阻む。
 一瞬、時間が止まったその空間を縫うように、青年の確かな声が響いた。
「ああ」
 全てを預けられるような力を持ったその一言に、少女はかすかに笑う。しかしすぐに柔らかな色を顔から消し去り、剣を握りなおした。

 目の前にいるのは彼女にとって自国の兵士。
 彼らが剣を向けるのは彼女が守りたい人。
 この大広間に、殺せる人間など一人だっていやしない。

「……ジル、貴方の言葉を信じます」

 少女の剣は疾風と共に繰り出され、瞬く間に三人の兵士の行動を止める。
 致命傷には程遠い傷を受けた兵士たちは、何が起こったか分からぬ様子で呆然と床にうずくまっていた。





 たった一瞬で三人もの兵士を沈黙させた少女。しなやかに、まるで踊っているかのように剣を操っている。
 動きは軽い。しかし……、彼女を見るラキアの表情は険しかった。眉間にしわを寄せながら彼は口を開く。
「………君、えっと――」
「ニール。ニール・ランディット」
 あからさまな苛立ちを含んだ少年の声に、ラキアはわずかに目を見開いた。しかしすぐに気を取り直して、
「あぁ……、ニール、君は下がっていた方が良い」
 視線だけは、甲冑の間を立ち回っている少女に向けてラキアは言った。
「何であんたにそんなこと言われなくちゃいけないんだ」
「君がまた傷付けられそうになれば、あいつは……リディスは必ず助けようとする。だけど、リディスにとっての『敵』は、今ここには一人もいないんだ」
 取り付くしまもない少年にはそれ以上構わず、ラキアはすぐ傍にうずくまっている男に手を差し出した。
「トリスタン、立てるか?」
 先程ニールに斬りかかった男、トリスタンは呆然とした面持ちのまま自らの力で立ち上がった。行き場を無くしたラキアの手が下ろされる。
 半ば放心状態のトリスタンを含めた数人の男たちに彼は視線を向けた。
「剣を捨てろ」
「――でっ、ですが! ラキア様!!」
「剣をろくに振ったこともないお前たちに何が出来る! ……無駄な抵抗はするなと言ったはずだ、今度は従ってもらうぞ。これ以上……あいつを戦わせたくないんだ………」
 有無を言わさぬラキアの様子に男たちは黙らざるを得なかった。
 
 リディスにこれ以上辛い戦いをさせたくなかった。しかし自分がいる限り、彼女はこの身を守ろうと剣を振るうであろう。望まぬ相手に切っ先を向けるだろう。
 そして目の前についえそうな命があれば、救おうとするだろう。それがバベルであれ、アシュハルトであれ、ひたむきな彼女には関係ないのだ。
 この戦いが続く限り、リディスは剣を振るい続ける。自分たちが争い続ける限り、彼女は戦い続ける。それは確かだった。

 今や絢爛豪華な輝きを取り戻した大広間の状況は混乱を極めていた。
 バベルが、アシュハルトが、戦う術を持たぬ城仕えの者たちの祈りの声と共に入り乱れ、一つのうねりとなって空間を蹂躙している。
 その中を、ただ一人、駆け抜ける銀髪の少女。優しすぎるあの少女。
 バベルとアシュハルト、そのどちらの人間も傷付けたくなくて苦しみながら、それでも自分を守ろうとしてくれている。
「…………くそっ」
 強く握りすぎたラキアの手の平に血が滲む。自分の意志で自由に動けないこの身が悔しかった。
 本当ならこの命に代えて守るはずだった少女に、逆に救われている。
 この状況下で宰相である自分が進み出ても、決して事態は好転しない。だから彼は黙っているしかなかった。後方に隠れずにいるのがせめてもの彼の我がままだった。
「あと少し……」
 祈りにも似た呟きがラキアの口から漏れる。
 あと少し、あと少しで練兵場の兵士が駆けつける。そうなれば数で圧倒的にバベルが勝る。アシュハルトは降伏するしかないだろう。
「リディス……………ッ!?」
 一瞬だった。
 何もなかった空間に、突然、前振りも何もなく、唐突に一つの影が割り込んで、

「―――……アゼル!!」

 感情のない琥珀の瞳がしっかりとラキアを捉え、その手に握る細身の剣が彼を襲う。反射的にラキアは後退する。彼の残像が残るそこに、風をまとった剣が打ち降ろされた。
 鼻先を剣風が掠めていく。トリスタンたちがどこかで叫ぶのが聞こえた。
 安堵する間もなく繰り出された第二撃は、横から飛んできた剣に弾かれる。

「……リディス、なぜ、お前がここにいる」

 弾かれた剣を再び構え直し、アゼルは静かに口を開く。
 後方で指揮しているはずの第一王子の突然の行動に、近くのアシュハルト兵たちに動揺が走り、やがてそれは広間中に伝播でんぱした。
 バベル兵の間にも、宰相の身に迫った危険に緊張が走る。
 奇妙な沈黙が広間を満たした。その中を、少女の凛と透き通った声が響く。

「私が、この人の……ラキア・バシリスクの護衛役だからです」
「お前の本来の役目はそれではなかったはずだ」

 両者の剣は一部の隙もなく相手に向けられている。まるでそこだけ時間が止まったかのような錯覚。

「与えられた役でなく、自分で選んだ居場所は、ここだけです!」

 毅然と言い放ったリディスの言葉は、強く、揺るぎない。
 アゼルはしばらく何も言わなかった。全て見透かしていそうな両の目で少女の紅い瞳を睨み据え、切っ先を彼女へ真っ直ぐ向けた。
「良いだろう……」
 そのアゼルの一言に、数名のアシュハルト兵が呪縛を解かれる。駆けつけようと踏み出しかけた彼らを、アゼルは手で制した。
「リディス、お前が私に勝てば、この城から我らは引いてやる」
「貴様ッ!!」
 ラキアが思わず叫ぶ。
 許せなかった。全てを彼女に背負わせるようなアゼルの発言が。
 背中で聞こえたラキアの言葉にほんの少し笑んだリディスは、

「良いですよ。その勝負、お受けします」

 答えた瞬間、二人の剣は激しく重なり合った。





 広間に足を踏み入れた瞬間、異様な空気がセラフィーを包んだ。
 誰もが息を詰めているような、緊迫し張り詰めた空気。触れればたちまちプツリと切れてしまいそうな細い糸が張り巡らされているような。
 痛いほどの静寂の中で一つだけ音がする。剣が斬り交わされる鋭い音。
 裏口の前に群れている城仕えの者たちをセラフィーはかき分けて進む。後ろからアリヤがしっかりと追いついてくる気配がした。
 一気に視界が開けたと思ったら、人垣が割れて広がるその空間には見知った二人の姿があって。その二人の「時」だけが、唯一この広間で動いている。
「…………これは……何が――」
 セラフィーは最も気にかけていたラキアの安否を確認する前に、思わずそこで足を止めた。目の前で繰り広げられる光景から目を逸らせなかった。
「リディスが勝てば、引いてくれるそうだ」
「ラキア様!」
 不意に耳元に落とされた呟きに、セラフィーの心臓が跳ね上がる。振り向けば真っ直ぐ少女を見つめるラキアの横顔。視界に入る彼の身体のどこにも怪我と呼べるものがないことに、セラフィーは改めて安堵した。そしてもう一度、視線を少女とアシュハルトの第一王子に向ける。
「リディス様っ」
 遅れてたどり着いたアリヤが小さく叫んだのが聞こえた。


 リディスの繰り出した剣が空を斬る。
 切っ先の一寸先で琥珀の瞳が冷たく光り、アゼルの黒髪が剣風に揺れた。
 剣をかわしたそのままの体勢で青年の剣が突き出される。相手の剣身をなぞるようにして迫ってくる切っ先を、リディスはとっさにつばで弾いた。
 一歩後退したアゼルを追ってリディスが踏み込む。瞬きする間もなく距離をつめた少女の剣が、両者の間の空間を薙ぐ。
 上体を捩ってその一閃をかわしたアゼルは身を翻し、剣の柄でリディスの胴を薙ぎ払った。
 防ぎきれず少女は背中から床に叩きつけられ、しかし素早く空いた手で地面を押しやるようにして立ち上がる。
 体勢を立て直す暇もなくアゼルの鋭い突きがリディスの喉元に迫る。上体をのけ反らして彼女はそれをかわしたかのように見えたが、
「………リディス様ッ!」
 悲痛な叫びを上げるアリヤの瞳は、かすかに飛び散った赤い血を捉えていた。
「掠った……だけです」
 絞り出すようなセラフィーの言葉に、ラキアは答えない。
 一度体勢を崩したリディスは、連続的に繰り出される突きに攻撃に転じる機会を見つけられずにいた。辛うじて避け続けているが長引けばどうなるか分からない。喉に受けた傷は浅くとも、血は一向に止まる気配を見せずにいる。
 その時、外の雨の音に紛れて別の物音が広間に届いた。その音の正体を考えるより先に、裏口の扉が勢い良く開かれる。

 ほんのわずかな隙。隙と呼べるかどうかも分からぬその一瞬に、リディスは身を屈め地を蹴った。一気に青年の間合いに入り込むと下から剣を突き上げる。
 次の瞬間、剣を握る手から衝撃が跳ね返ってくる。アゼルの剣に防がれた細い剣身が、リディスの身体ごと地面へ打ち据えられた。
 間髪いれずに降ってきた切っ先が少女のわき腹を撫でる。痛みを感じている暇はなかった。両足で床を蹴り、地面すれすれに身体を回転させ距離をとろうとした。が、容赦なく踏み込む青年の足がリディスのみぞおちに食い込む。
 少女は腰を浮かしたが起き上がることが出来ず肩膝をついて顔を上げた。その眼前にアゼルの剣が向けられる。
 リディスの握る剣は構える途中で動きを止めたが、彼女の紅い瞳はいまだ射るような強い光を帯びていた。
「……終わりか?」
「まだ私は戦えます」
「動けなくなるまでやらねば分からないか?」
 少女は黙って青年の琥珀の瞳を見つめていた。その目には怒りも憎しみも存在してはいなかった。殺意のない敵意だけが宿った紅い瞳が、真っ直ぐアゼルを見据える。
 眼前の切っ先がかすかに揺らいだ。

「アゼル様ッ! 敵の援軍がもう……時間がありません!!」

 静寂を切り裂く悲鳴のような叫び。
 それにつられて広間に喧騒が舞い戻る。我を忘れて戦いに魅入っていた者たちが、急に思い出したかのように動き出した。
 さきほど裏口の扉を開け放ったバベルの兵士もやっと自分の役目を思い出しラキアに駆け寄る。
「練兵場の兵士たちが城に到着しましたっ。近衛師団もランディール様の指揮の下、こちらへ向かっております!」
 慌てて早口にまくし立てる兵士にラキアは目もくれなかった。返事がないことに更に慌てた伝令役の兵士はもう一度口を開きかけたが、言う前にセラフィーに遮られた。
「分かりました。戻って練兵場の兵士に西の裏庭に行くよう伝えて下さい。執務室の裏手ですよ。そこでアシュハルト兵の撤退を食い止めるように――」
「やめろ」
 突然割り込んできたラキアの言葉にセラフィーも兵士も驚いて青年を見やった。ラキアの紫の瞳は相変わらず銀髪の少女へと向けられている。今、彼女の目の前からゆっくりとアゼルの剣が引いていく所であった。
「そこには行かず、真っ直ぐこの大広間へ。怪我人が多数いる。衛兵にその旨伝えろ」
 そう言い置いてラキアは一歩足を踏み出した。今度はセラフィーが慌てて引き止める。
「しかし――」
 このままでは、アシュハルトは動けぬ者を除いてまんまと全軍逃げおおせてしまう。アゼルという重要人物を捕らえられる絶好の機会を、このままみすみす見逃す手はないのだ。ラキアとて分かっているはずだった。しかしセラフィーの制止むなしく彼はまた一歩進む。
「何をしている、さっさと行け!」
 振り向かぬまま怒鳴るラキアを後にして兵士は駆け出した。
「……ラキア様!」
 セラフィーは責める口調になってしまう自分を抑えられなかった。ラキアが立ち止まる。
「セラフィー、お前言ったな? 『間違っているかどうかは誰にも決められない』と。……そっくりそのまま、その言葉を返す」
「…………っ!」
 広間の中央、片膝を付く銀髪の少女の前から、アシュハルトの第一王子は踵を返し去っていく。去り際に何かを投げ捨てたようだったが、それが何かは分からない。一度も振り返らずにその背中は大広間から消えた。
 彼に続いて退却した数名の兵を最後にして、この大広間から動けるアシュハルト兵は消え去った。

「俺の真実は、やっぱり俺だけが知ってるんだ」

 立ち尽くすセラフィーを置いてラキアは進む。しだいに小走りになり、最後には駆け寄って崩れた少女をその腕に抱きとめた。
 アリヤもセラフィーを追い越していく。

 ラキアの無事を確認して、リディスは屈託なく笑った。激しい運動に呼吸は乱れ、喉に受けた傷で話しにくそうだったが、それでも彼女は言葉を紡ぐ。
「ラキア様……、わたし、約束守ったでしょう? 待って……いて、くれて、ありがとうございます」
「ああ、分かったから。……何も出来なくて、悪かった。もう喋るな。血が出る」
 リディスが言葉を発すたびに、喉を動かすたびに、そこに受けた傷から血が溢れる。ラキアは片手でリディスを支えながら手早く上着を脱いで傷口に押し当てた。
 喉とわき腹を始め、体中に傷はあった。しかしそのどれもが致命傷ではない。アリヤが自らの前掛けを外してリディスのわき腹に当てる。白い布は一瞬で真紅に染まった。
「ラキア様? 何かしたくて……それを、我慢して……何も、しないでいるのが、一番辛いんですよ?」
 リディスは笑う。
「だから、おあいこってことで……良いでしょう?」
「………ああ」
 ラキアも微笑を浮かべて返答した。気持ちに余裕が出来たからか、そこでふと、あの少年のことを思い出して彼は不安になった。背後で上がるバベルの歓声や雑多に入り混じった物音も不安を増長させる。
「リディス、ニールって兵士は……」
 リディスの顔が一瞬で曇る。
「……ニールさんは………引き止めたけれど、駄目で。自分は、アシュハルトの兵だからって……そう、言って――」
「戻ったのか」
 戻れば、何らかの形で罰が与えられるのは分かりきっていることだ。リディスをここまで連れてきた罪は、状況を見る限りかなり重い。彼女がいなければラキアの命はアシュハルトが握ることができたのだから。
 それでも戻るのかと、ラキアは思わずにはいられなかった。思っておきながら、そんな自分も同じであることに気付く。
 バベルを離れるなんて考えられなかった。例えどんなに優遇されようとも、アシュハルトに居すわる自らの姿など想像できない。
 立場は違えど、根本的な想いはラキアもニールも同じ。
「それが彼が選んだ道なら、仕方ないだろう」
 流されたわけじゃなく、彼は自分の意志でここまで来て、そして行った。ならばしてやるのは同情ではない。
 リディスは目を伏せる。乱れた呼吸がだんだんと落ち着きを取り戻していた。
「『お前を恨んでなんかない』って……そんなこと言うんですよ?」
 目尻に涙を浮かべて少女は苦く笑った。
「優しすぎる……ニールさんも、………兄上も…」
「……………………」
 片腕で覆い隠したリディスの瞳から一しずくの涙が零れ落ちる。ラキアは黙って、彼女を抱く腕に力を込めた。

『俺が使ったのはこの鍵だ。お前がいてもいなくても結果は変わらなかった。お前がしたことなど無意味だったんだよ』

 冷酷にそう言い放ち、銀色に光沢を放つ鍵を投げ捨てた青年。冷たい言葉の裏に隠れた優しさに、リディスは気付いていた。
 決して致命傷となる一太刀を振るわなかったことを、リディスは知っていた。
 お前のせいじゃない、と。こうなったのはお前のせいじゃないと、冷たく残酷な仮面の裏で言っていた。
「兄上は、優しすぎるんです」
 震える声でリディスは呟く。アリヤが心配そうに眉を寄せる。
 ラキアは傷に障らぬように、だけど強く少女を抱き締めた。何か言おうと口を開きかけた時、
「医者を呼びましたよ。命に別状はないでしょうが、こんな所でそんなこと……どうかと思いますけどね」
 頭上から落とされた声は、どことなく不機嫌そうで。いつもならあり得ないその声音にラキアは小さく笑った。
「分かってる分かってる。………死傷者は?」
 腕の中からリディスを解放してやりながら低く問う。
「負傷者は多数、重傷者はざっと二十名ほどでしょうか。死者は二十数人……暗かったのが幸いしましたね、この数で済んだのは幸運でした。取り残されたアシュハルト兵のうち死者は二十人ほど。他は捕虜として地下へ連れて行かせました」
 口早に報告を終え一つ溜め息を落としたセラフィーに、少女の呼ぶ声が届いた。
「セラフィーさん、剣……刃こぼれさせてしまいました。ごめんなさい」
 セラフィーは床に投げ出された剣を横目で見やる。確かに使い物にならないほど剣身は痛んでいる。しかし今さら気にすることでもない。間に合わなかった自分の代わりにラキアを守ってくれた彼女に感謝こそすれ、文句を言うなどあり得ない。彼は少女に礼を言おうと口を開きかけた。
「あー……何だか、眠い」
 口に出して言った瞬間、さらに強力な睡魔に襲われてリディスは目を閉じた。
 開きかけた口を閉じてセラフィーは口元に笑みを浮かべる。
「眠っていい」
 ラキアの言葉が言い終わらないうちにリディスの身体から力が抜けた。
「今は、ゆっくり寝てていい」
 力を失った少女の身体をラキアは抱え直す。

「……おかえり」

 優しくそう言って、青年は穏やかに笑った。




 受けた傷は決して浅くはないけれど、失ったものも決して小さくないけれど。
 問題も山積みで、何ひとつまだ終わってはいないけれど。
 それでも今は、腕の中のこの小さな身体に休息を与えたって誰も文句は言わないだろう。言える権利なんかないだろう。例えそれが神であっても。
 だから、もう少しだけ、彼女に穏やかな夢を。

 壁の向こうの雨音が遠ざかる。
 まだ外は暗いけれど、明日はきっと晴れるだろう。

 きっと未来は光に満ちている。






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