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甘い、どこまでも優しい穏やかな声が聴こえる。
はちみつ色のその声は、布一枚向こう側から響いてきて。多分きっと、どんなに手を伸ばしても届かないのだろう。
私にはそれが分かる。知っている。
だから黙って耳を傾ける。
ただ黙って、目をつむって、心地よい暖かさに身を任せる。
ねえ、と声は歌うように落とされた。「ねえ、あなたは私の宝物よ」、と。
この世の全ての愛を集めて溶かし込んだかのような、それは夢のような音色。
そう、これは夢だ。
私は甘い夢を見ているのだ。
でもこの空気も、この声も、はるか昔にどこかで出会った気がした。
目を開ければ、もう二度とここへは戻ってこられないだろう。
私にはそれが分かる。知っている。
だから目を閉じる。ここはあまりにも心地良い。全てが無条件で自分を受け容れてくれる唯一の場所。
ああ、でも――……
呼んでるもう一つの声が聴こえるから、聴こえてしまうから。
やっぱりもう帰らなくちゃ。
「さよなら、母上」
少女はゆっくり目を開けた。
伸びた左手が誰かに強く握られている。
もう何の夢を見たのか、全く思い出せなかった。ただ、甘い残り香がかすかに脳裏をかすめただけだった。
「Awaking The Sleeping Beauty」
目を開けてしばらくは、まだ頭に霞がかかっているようだった。まだ残る甘い空気が、脳の働きをさらに鈍らせる。
何かとても穏やかな夢を見ていたはずだった。だがもうそれらの断片を掴むことは出来ない。去ってしまった気配に手を伸ばしても、辛うじてある残像が鈍っていくだけで何の成果も得られない。
視界は痛いほどの光に満ちていた。目覚めたばかりの少女にはきつ過ぎる強烈な光。何度も瞬きしてようやく部屋の中の様子が見て取れた。
無意識に状態を起こそうとして初めて、彼女は自分の左手が誰かに握られていることに気付く。慌てて顔を上げ、目に飛び込んできた光景。切ないほどの既視感。
「……ラキア様」
落とされた音に、彼女の心臓が脈を打つ。
夢ではなかったのだ。
朦朧
(
もうろう
)
とした意識の中で最後に見た姿も、聴いた声も、やはり彼だったのだ。
少女の細い肩を、銀の髪がさらりと撫ぜる。
握られた手から青年の熱が確かに伝わってきて、それが自分に返された答えに思えて、知らず少女は笑みをこぼした。
「ありがとうございます」
ごく自然に飛び出した言葉が、暖かい光に溶け込んでいった。
さて、と小さく呟いて立ち上がろうとした瞬間。
「――……!?」
「今度は逃がさないからな」
痛いほどの力で引き戻された手の先で、青年はふてくされた様に言った。"今度"が意味するところに気付き、少女は苦笑する。
「今度は、逃げませんよ」
そう告げても、繋がれたその手が離されるまでにはしばらくの時間が必要だった。
「だーかーらッ! もう大丈夫だって言ってるじゃないですか!!」
「二晩爆睡してたような奴が言っても説得力がないんだ! 良いから大人しく寝てろって!」
「人を病人かなにかのように……っ」
「同じようなものじゃないか」
違う、と言いかけた口を、少女は無理やり封じ込めた。どうやらこの言い争いが不毛であることには気付いているらしい。
寝台を背にして向かい合う状況は、見ようによっては赤面ものだが、当の本人たちにその気は全く無い。睨み合いの均衡は、少女が先に目を逸らすことで終止符を打った。
「寝てれば良いんでしょう? 寝てれば……」
「俺が戻って来るまでだからな」
はいはい、と投げやりな返答をする少女を一度心配そうにうかがうと、青年は急ぎ足で部屋を後にした。遠ざかっていく足音に耳を澄ませていた少女が小さくため息をつく。
「さて、と……」
「だめですよ」
そこで初めてセラフィーは口を開いた。
一瞬で彼女の表情が不満に曇る。その変化が面白くて、セラフィーの口から思わず笑みがこぼれた。
「あのですね、言っておきますけど、私、すごく、元気なんです」
諭すように、少女は一言一言、念を押して言った。恨めしそうに睨んでくる紅い瞳は美しかったが、今はそんなことにはかまっていられない。彼はいく分語調を強めて言い直す。
「傷はまだ塞がってはいないし、疲労も抜けきってはいないでしょう。そんな体であの方の護衛につかれても困ります。信頼できる者が付いていますから、寝てろとまでは言いませんが、せめてこの部屋でじっとしていなさい」
「…………」
昼過ぎの強烈な光が部屋全体を輝きで満たしていた。陽光を受けた彼女の銀髪は、まるでそれ自身が光を放っているかのようで。
そう、その否応にも人目を引く容姿が問題なのだ。
一度見れば忘れられない、他の誰かと見間違うなどできないその姿が。
その上、彼女に自覚が無く、無防備すぎるのが手に負えない。
「はっきり言いましょうか?」
「………え?」
小首をかしげた少女の首筋に銀糸がかかる。
最後に見たときより確かに痩せている。さっき言ったことは嘘ではない。嘘ではないが、もっと重要なことがある。
「今、あなたを人目に触れさせるわけにはいかないんです。リディス・ゾルディック」
予想外に厳しい声音に、リディスの身に緊張が走る。
「それは……私が、アシュハルト側の人間だって――……」
「違います。たとえそうだとしても、あなたはラキア様を守った。あなたを疑っているゆえのことではない」
「じゃあ……」
リディスの表情は困惑に満ちている。立ちっ放しにさせていては後で主になにを言われるか分からない。セラフィーは無言で椅子を勧め、自らも腰掛けた。
「あなたは派手に動きすぎた」
その一言だけで全て察したかのように、リディスはグッと俯いた。セラフィーは続けた。
「あれだけの衆人の前で、派手に動きすぎたんだ。『ただの護衛です』と言って通用するとは思えない。今、宮中がごった返しているから一時的に忘れられているだけで、必ずあなたの存在は言及される。言い訳を考えるまで、じっとしていなさい」
「言い訳……」
少女が小さく繰り返す。
なにを考えているかよく分からないぼんやりとした表情のリディスを、セラフィーもただ静かに眺める。
本来なら、目を覚ました彼女のそばにいたいはずの主は、今も事態収拾のために奔走している。もし彼が皇族ならば、一応の収拾がつくまで休息をとっていることも可能だったろうに。あいにく彼は「宰相」という肩書きの持ち主だった。
ラキア・バシリスクに休息が与えられるのは一体いつになるのだろう。
「帝国」とは名ばかりの、ほんの少しの余裕もない今の宮中を見ればきっとどの国も呆れ返るだろう。
十七年前に全ての形が崩れ去ったこの国で、自分たちは必死に綻びを繋ぎ合わせている。端から崩れていこうとする破綻を、必死になって食い止めようとしている。
「セラフィーさん、状況を……」
漂いかけていた思考が、少女の清涼な声に引き戻される。
反応の遅れたセラフィーに、リディスは重ねて言った。
「今の状況を教えてください。まだ何も、終わってない」
真摯な瞳は燃えるようで。
淀
(
よど
)
みなく向けられる心は痛いほどで。
止まっていたこの国の歯車が再び回り始めるかすかな気配。
そうだ、まだ何も終わっていない。
見つめてくる紅の瞳をしっかりと見据え、セラフィーは静かに口を開いた。
アリヤはドアの前で固まったまま、どうにも出来ずにいた。ノックをするために振り上げた手はいつまで経っても下ろされることはなく、片手で支える盆は小刻みに震えている。
一枚のドアの向こうには、セラフィーとリディスがいる。お茶を持ってきたまでは良かったが、今、中で話されていることは一介の侍女にすぎない自分が耳にしていいものではない。
黙って立ち去るべきなのに、どうしても足が動かなかった。
傍にいたい、と。同じ場所にいたいと思う心は否定できない。
中にいるのはあの二人だ。気付かれるのは時間の問題……いや、もう気付かれているかも知れない。
早くここから立ち去らねば――……
「何やってる?」
「――ッ!?」
とっさに声も上がらなかった。
取り落とした陶器たちが立てるはずの音に、思わず目をつぶる。
「――…っと、……声掛けた俺が悪いのか?」
待ち構えた音はいつまで経っても訪れず、代わりにバツが悪そうな声が降ってくる。少女は恐る恐る目を開けて、
「ラ…ラキア様っ!」
「悪い、落ちはしなかったが……倒れた」
彼の手に受け止められた盆の上では茶器が倒壊を起こしていて、こぼれたお茶がギリギリの均衡で器に留まっていた。湯気が立っていないということは、自分はかなり長い間ドアの前で立ち往生していたということだ。改めてラキアに詫びながら、アリヤは慎重に盆を受け取った。
「入らないのか?」
不思議そうに彼は問う。
「いえ、あの……」
口ごもるアリヤをよそに、ラキアの手がノブにかかる。さっきまで動かしがたいもののように見えたドアは、いとも軽く内側へ開かれた。
「入るぞ。……おい、寝てろってあれほど……」
溜め息混じりの言葉に導かれて、アリヤの瞳が部屋の中へと向けられる。その双眸が真紅の色に行き当たり、彼女は思わず駆け寄っていた。
「リディス様! リディス様っ、よくご無事で……本当に、本当に心配したんです。良かった……」
「アリヤ……あ、あの、お茶っ! こぼれてるけど!?」
勢い込んで駆け寄ってきたアリヤの足元には、盆に収まりきらなかったお茶がしみをつくっていた。それに気付かないのか、アリヤは潤んだ瞳をリディスに向ける。上気した頬に一しずくの涙がつたった。
「良かった……良かった………」
「……ありがとう、アリヤ」
困ったような笑みを浮かべたリディスが呟く。
そんな二人を少し遠くで眺めながら、ラキアが穏やかに笑った。
「なにをにやにやしてらっしゃるんですか?」
いつの間にか隣に来ていたセラフィーがぼそりとこぼす。
「……っ、にやにやなんかしてない。人を変態扱いするな。……それより! 寝てないじゃないか。お前何を話してた?」
「気になりますか?」
もったいぶったように問いかけてくる男に、ラキアの恨めしそうな視線がぶつかる。横目でそれを見とめて、セラフィーはクスクスと忍び笑いをもらした。
「済みません、つい。まだ何も話してませんよ。ちょうどこれから状況を整理するところだったんです。……アリヤ」
さっと真剣な声音を帯びた呼びかけ。アリヤの体がビクッと揺れる。
「新しいお茶を。それと……言いたいことがあるのなら、はっきり言いなさい」
厳しい言葉の裏にかすかな配慮が見え隠れする。その声に後押しされて、アリヤはリディスに視線を合わせる。やっとで押し出したような掠れた声だった。
「差し出がましいことは充分承知でお願いします。厚かましいことも分かっております。……ですが、ですが……どうか私もお傍にいさせてくださいませ」
何も言えずにいるリディスから視線を逸らし、少女はラキアを振り返る。
「決して聞いたことに関して口外いたしません! 秘密は守ります。邪魔なときは遠慮なく仰ってください。ですからどうか…微力ですが、私にも何か手伝わせてください」
少女の言葉は必死だった。
怖かったのだ。何の前触れもなく消えてしまったリディスが。また同じように、知らないうちにいなくなってしまうのではないかと思うと胸が押し潰されそうだった。
もう目の前で大切な人を失っていくのはたくさんだった。
知らないところで大事な人を失うのはもっと嫌だった。
だから無理を承知で彼女は言う。
向き合うラキアは何かを考えるように紫紺の瞳を軽く伏せていた。アリヤの胸に焦りが広がる。
突然、背にしていたリディスがかすかに動くのが感じられ、続いてどこかとぼけたような澄んだ声が落とされた。
「私は、それ、当たり前だと思ってたんですが……違うんですか?」
張り詰めた空気が一瞬にして崩れ去る。
次の瞬間、心底面白そうな笑い声が部屋に響いた。腹を抱えて笑っていたのは他でもない、ラキアである。
「良いんじゃないのか? アリヤは……信頼できる」
笑いながらもはっきりと彼は断言した。
パッとアリヤの表情が明るくなる。
「ありがとうございます! ……っ、きゃあ!?」
勢い良く頭を下げた彼女は、自分が水の張った盆を抱えていたことを忘れていたようだ。ラキアとリディスの手が同時に伸びる。盆を支えた二人の手がぶつかり、事態はさらに悪くなる。少し離れたところでセラフィーが小さくため息をついた。
今だかつてないほどの騒々しいその部屋を、夕暮れ時の赤い陽光が包んでいた。
薄闇の中、ゆらりと傾いだ細い体を青年が慌てて支えた。
「もう横になった方がいいだろう」
かすかな焦りを滲ませた声は真摯な音を帯びていて。黙って頷いたリディスが寝台に横たわるのを見届けてから、ラキアはくるりと踵を返した。
「待って……待ってください」
「リディス?」
不意な呼びかけにラキアが立ち止まる。振り返って見た彼女が、気恥ずかしそうに笑う。
「もう少し、傍にいてください。……その、忙しくないのだったら」
どこか困ったような、気後れしたように笑うのが彼女の癖なのだろうと、ラキアにはもう分かっていた。別れる前に、薄れゆく思考の中で見た彼女の顔も、確かそんな笑顔だった。
セラフィーとアリヤの去った部屋は驚くほど静かで。そういえば、再会してから二人でゆっくり話すのはこれが初めてだ。
思い至った途端に目の前の存在がどうしようもなく愛おしく思えて、知らずラキアの口元も緩む。
「お前が寝るまで、傍にいるさ」
寝台の傍らに椅子を引き寄せ、青年は腰掛けた。薄闇に溶け込むような漆黒の髪はリディスが最後に見たときよりいく分伸びていたが、紫の瞳は相変わらず綺麗なままだった。
リディスの両目が自分を見つめているのに気付いて、慌てたようにラキアは口を開いた。
「さっき言い忘れたが、アシュハルト……お前たちが入ってきた隠し通路はもう閉じてある。城内をこれ以上不安にさせるわけにはいかないし、隠し通路の存在も伏せておく必要がある。だから、城下に密かに敵が侵入していたことにしてあるから……お前もそのつもりでいてくれ」
リディスは答えるでもなく、頷くでもなく、ただ静かにラキアを見ていた。聴いていないはずはないだろうと、彼はさらに続ける。
「それから……隠し通路には、通路以外の意味もあったらしい」
そこまで言ってから、ラキアはしばらく何か考えるように口をつぐんだ。視線を遠くへさ迷わせているその間も、リディスは静かに彼を見守った。
やがて紫紺の双眸が真っ直ぐ少女に向けられる。
「王家の遺品が数点そこに隠されている」
ミネルヴァの息子、ジェラルダンの几帳面な字を思い出しつつ、ラキアは言った。かの氏が遺した資料は、隠し通路に避難させた後宮の品々についても述べていた。たった二、三行に綴られたその遺品が、どんな効果をもたらすかはラキアにも図りかねた。
実際に見てみるしかない。その時に、リディスを除け者にすることはどうしても出来なかった。たとえ結果、彼女を傷つけることになったとしても。
「明日の晩、もう一度通路を開く。鍵は……お前が持ってるな?」
あの日、アゼルが投げ捨てた錆びた銀色の鍵は、色こそ違えどラキアの持っていたものと全く同じ形をしていた。あまりに細かい複雑な作りになっているから一目見て比べることなど出来ないにせよ、逆にその複雑さが、両者が同じものだと物語っていた。ジェラルダンの資料にも、二つの鍵の存在を示唆していたから間違いない。
リディスは硬い表情で自身の胸元に手をやる。放られた鍵は気を失う前にしっかりと握ったはずで、今日目覚めた彼女の枕元に何事もなかったように置かれていた。
「……済みませんでした。勝手に、貴方のものを持ち出して」
「本当にな。最初訳が分からなかった。どうして――」
「繋がりが……」
言い終わるより前に、リディスが半身を起こしてラキアを見上げた。
「繋がりが、欲しかったんです。どうしても。必ずまた貴方に会わなくてはいけない理由が……。でも、ごめんなさい」
リディスの手がきつく鍵を握りしめる。まるでそうしていないとどこかへ行ってしまうかのように。
「卑怯だな……」
「え?」
小さく呟いた言葉は少女に届かなかったらしい。見返してくる深紅の瞳を見て、ラキアは本当に卑怯だと思った。
そんなことを言われたら怒るに怒れない。
勝手に紅潮していく顔をどうにもできなくて、彼は誤魔化すように片手で顔を覆った。そんな彼の横で、リディスはよみがえった記憶に身震いした。
『お前は私から離れない』
ケゼフの狂気が彼女を捕らえて放さない。もし、自分が指輪を持ってアシュハルトへ戻っていたらどうなっていたのか。
王は指輪の存在を知っていた。誰にも話した事のないその存在をよく知っているようだった。
「ラキア様……」
リディスは鈍く光る銀の鍵を差し出して言う。
「鍵は、お返しします。指輪も……どうか貴方がまだ持っていてください。きっと、多分、それが一番良い」
「リディス?」
どこか鬼気迫る様子で言い放つ少女。それに何か引っかかるものを感じつつも、青年は頷いた。
「とにかく、今は寝ろ」
落とされた声は心地良く。忘れていた睡魔が彼女を襲う。
やがて少女が安らかな寝息を立てるまで、青年は黙って細い手を握っていた。
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