「二つの赤」


 もし詩人だったなら、今夜の月の素晴らしさをなんと形容しただろうか。清廉そのものの見事な白い月は、どこまでも神秘的な光をたたえ漆黒の空に浮かんでいる。わずかに掛かる薄い雲を含めて、まるでそれ自体が何かの絵のような静けさだった。
 不意に呼びかけられた気がして、少女は視線を地上へと戻した。月明かりが落とされる城の裏庭は静寂に包まれている。薄闇の中でもう一度名が呼ばれた。
「リディス、あまりそっちへ行くと近衛兵に見つかるぞ」
 澄んだ声は落ち着いていた。リディスは小さく返事を返し、声のほうへと歩み寄る。歩くと冷気がちくちくと体を刺すようだった。
「どこだか分かりますか? 私、確かに通ってはきましたけど、正確な場所は覚えてません」
 本当はただの方向音痴が原因だったが、少女はそれを言葉の中に巧みに隠した。もっとも、屈みこんだ青年にとってはどうでも良いことだったらしい。大丈夫だ、とひとこと言って芝生の地面に手をつけると、例の鍵を地面のある一点に押し込めた。
 捻ると同時に重々しい金属の音が響く。静かな夜更けに、その音は驚くほど大きな振動をもたらした。
「今ので……開いたんですか?」
「開いたな」
「私が先に下ります」
 今までずっと黙っていたセラフィーは二人の横からすっと前へ出ると、鍵の刺さった地面のあたりへ手を伸ばした。手早く取っ掛かりとなるものを見つけて上へ引っ張る。が、わずかに地が揺れたばかりで、「開いた」と言われた扉はびくともしない。結局三人がかりでやっと扉は口を開けた。
「真っ暗ですね」
 三人の中では唯一この中へ入った経験を持つはずのリディスは、今初めて見たというように感嘆してみせる。空洞を覗き込む彼女の横で、セラフィーがランプに灯りをともした。
「先に中を見てまいります。私が合図するまでお二人はそこでお待ちください」
 そう言ってセラフィーは地下へと続く階段を足早に下りていく。がらんどうの空間に響く彼の足音はまたたく間に小さくなって、暗闇に吸い込まれるようにして消えていった。とたんに、リディスの心を締め付けるような不安が襲う。それを紛らわそうとして視線が傍らの青年へ向かった。気配など無いに等しかったのに、まるで見計らったごとく彼は振り返る。
「どうした?」
「え、あ……なんでもない、ですけど……」
 心細さを見破られたような気恥ずかしさに、リディスの頬が紅潮する。視線を宙に泳がせた彼女は見なかった。青年の紫紺の瞳によぎった、わずかな逡巡を。
「リディス、君は……」
「ラキア様?」
 予定外に飛び出してきた言葉は、続く先を求めるように彷徨っている。短い言葉だったのに、何かが突っかかるような気がして少女の心が小さく震える。
 やがてラキアは冷え切った手をごく自然にリディスのそれに重ね、静かに口火を切った。
「リディス、君をここへ連れてきたのには訳がある。セラフィーは、全て憶測に過ぎないというが、俺は、全ての条件を考慮して、多分、自分の考えは当たっていると思ってる」
 自分が何に引っかかりを覚えているのかリディスには分からない。ただ、警鐘は止むことなく心を揺らしている。思わずリディスは重なったラキアの手を握った。青年もそれに応える。
「全てを、正しい方向へ戻さなくてはいけない。リディス、君も、戻るべき場所がある」
「それは――……」
 どういうことですか、と聞き返そうとしたが、言葉は途中で喉の奥にこびりついて出て来なかった。
 彼女の思考はセラフィーの呼ぶ声に寸断される。ラキアにうながされ下りていく階段の途中で、リディスは先ほどの違和感の正体に気付いた。
 彼はリディスのことを「君」と言ったのだ。
 それは確かに些細なことだが、無視できない違和感を突きつけてくる。
 訳の分からぬ不安と焦燥を封じ込めようとして、リディスは先を行くラキアの服のすそに手を伸ばす。その手が服を掴むより先に、青年の手が少女の冷たい手をとらえた。
 無言の背中に漂う優しさを見つけて、少女は小さくため息をもらす。
 空洞から吹き上げる風が、彼女のこぼした吐息をさらって行った。





 ほんの一時、目を離した。その間に彼らは姿を消していた。
 アリヤは宰相の執務室で、ギュッと両手を胸の前で組み合わせる。それは寒いからではないのは分かっていたが、彼女自身、自分の感情を把握しかねていた。ただどうしようもない不安に駆られる。
 待っている、と言ったのは自分だった。
 誰に言われずとも、自分がついていくのは場違いだと分かっていた。告げた時、不思議そうに首を傾げたリディスの表情が忘れられない。しかし彼女が何と言っても、今度ばかりはついて行くわけにはいかなかった。
 地下には王家の遺品が……。それは一介の侍女が見て良いものではない。だから彼女は待っている。誰もここへ入ってこないように。裏庭に続くラキアの執務室を守っているのだ。
 ならばリディスはどうなのだ。
 心のどこかで問いかける声がする。
 彼女だとて一介の護衛役ではないのか。たとえラキアが彼女を大事に思っていても、その事実は変わりなく、誰が許しても本来ならセラフィーが止めるはずなのだ。
 ならばなぜ止めない。
 不安が小波(さざなみ)のように押し寄せる。ついていくのをセラフィーが許したのは、当然のごとく連れて行こうとラキアがしたのは、彼女にその資格があるからだ。
 それはどんな……
 そこまで考えて、アリヤは無理やり思考を止めた。憶測でこれ以上考えても仕方のないことだった。すでに「一介の侍女」の分を過ぎている。これ以上は踏み込んではいけないのだ。
 人影の消えた庭にじっと視線を注ぎながら、アリヤは組み合わせた両手に力をこめた。





 階段を下りきったラキアは、目に飛び込んできた光景に唖然とした。何も言うことができなかった。
 「開いた口が塞がらない」とは、まさにこんな場面で使われるべき言葉だと心底思った。それくらい常識外の光景だったのだ。
 見渡す限り――といってもこの暗闇の中、ランプ無しでは一歩先も見えないのだが――闇が果てしなく広がっている。どこからともなく生暖かい風と冷たい風が織り交じって、呆然と立たずむ彼の頬をなでていく。
 城の地下に……というよりも国の地下にこんな世界があるなど、到底理解が追いつかなかった。
 何も無い。四方八方闇の中に落とされた不安がラキアを襲う。ランプと、入り口から差し込む月明かりがなければ前も後ろもなにも見えないに違いない。際限などなかった。ひたすら空洞と無音が続いている。
「何なんだこれは……」
 吐き出した声が反響もせずに闇の中へ呑まれていく。背筋が冷えた。
「改めて見てみると……大きいですねえ」
 多少驚きつつも、ラキアとは比較にならないほどのんびりした調子でリディスが呟く。その場違いな声音が青年を落ち着かせる。
「大きいなんてものじゃない。これがサルディナヤ山脈の方まで延々と続いてるんだって?」
「そうです………おそらく。完全にアシュハルトの領内にまで続いているはずです。出入り口がそこだけなのかは分かりません。それに、果てがあるのかどうかも定かではありません」
 リディスは思い出しながら硬い声で言った。ここを通ってバベルまで来たのはついこの間の話だ。その時に傍にいてくれた少年はもういない。彼が今どうしているのかと考えると心がざわついて仕方がなかった。
 兄や、あの少年を含めた兵は、またこの暗い闇に閉ざされた道を戻っていったのだ。この行軍の本来の目的も果たせぬまま敗走を喫した。
 その原因は他ならぬ自分なのだ。そんな自分が彼らの身を案じるなどおこがましいに違いないが、考えずにはいられなかった。
「こんなものが自分たちの地下にあるなんて知ったら、民はよほど慌てるだろうな。一体どこまで広がっているんだか……」
 黙ってしまったリディスの横で、青年は誰に言うでもなく呟いた。その声にはどこか疲れたような呆れが滲んでいる。
 実際にこの地点から、アシュハルトの地に掛かるサルディナヤ山脈まで地下通路が続いていることは、リディスたちが事実として証明している。だが、それ以外のことは何一つ分からないのが現状だ。果たして単純にそれだけで事が済むのか、それとも……
「考えても分からないな。地図でもあれば良いんだが……」
「それですが。地図がない状態で、こんな道を行軍しようとするでしょうか」
 セラフィーが横合いから口を出す。
「じゃあお前は、アゼルが地図を持っていたって言うのか?」
「それは分かりません。ですが……」
 こげ茶の瞳がランプの灯りに照らされきらめいた。その目は何も見えない闇の彼方へ向けられる。
「ですが、彼が何らかの方法で道順を知っていたとしか考えられません。当の私たちが知らないバベル城の脱出路を」
「問題だな。それは」
「ええ。彼が鍵まで持っていたのも……」
「………ああ」
 曖昧な返答をするラキアの横で、少女がわずかに身を硬くする。
 ラキアの鍵を自分の指輪と交換して、アシュハルトへ持ち込んでしまったのは彼女だ。だがアゼルはそれとは別の鍵を示した。銀と銅の鍵。鍵は二つあった。
 ラキアの古びた銅製の鍵はおそらく今もアシュハルトにある。
 では彼の手元に今ある鈍い銀の鍵は……ジェラルダンが持ち出した鍵は、なぜアゼルの手に渡ったのか。
 考えて、一番たどり着きたくない答えに行き着く。考えるまでもなく、理由など一つじゃないのかと、どこかで確信している自分がいる。
『私の息子は、もう……この世にはおりますまい』
 何者にも屈しぬ巨体が、俯いて肩を震わせていた。
 思い出すたび、やるせない気持ちになる。


「さあ、いつまでもここにじっとしている訳にはいきません。こちらへ」
 ランプをかざした場所に浮かび上がったのは滑らかな岩壁だった。果てのない暗闇を見た後では、有限の壁にさえもほっとする。セラフィーは無言で二人を促し、壁のすぐ傍まで近寄った。
 間近で見てみればその壁の異様さがいっそう際立つ。人為的に切り出されたものなのだと一目で知れた。
「ここに鍵穴が」
 そう言って執事は道をラキアに譲る。小さな鍵穴に銀色の鍵は音もなく吸い込まれ、何の抵抗もなく回された。簡素な戸は蓄積した埃を撒き散らしながら横滑りし、ぽっかり開いた空間にセラフィーがスッと身を入れる。

 仄暗い灯りに照らし出された光景に、三人は思わず息を止めた。
「『数点』……これが『数点』?」
 一番最初に口を開いたのはセラフィーだった。
「確かに、ジェラルダン殿と俺たちとの間で、決定的に言葉の捉え方が違うな。これは、『数点』じゃなく『大量』と俺は表現する」
 ラキアの意見に他の二人も無言で賛同する。全くもってその通りだった。
 書物の類から装飾品、衣装、陶磁器に至るまで、ここには内乱の際に紛失したものと判断された王宮の宝物が無造作に置かれていた。城の宝物担当官が見たら真っ青になるような煩雑さだった。一見ただのガラクタ置き場にさえ思えた。
 ほう、とリディスが感嘆のため息を漏らす。
 壁際に掛けられていた木の棒を手に取ると、セラフィーのランプの火に近づけた。途端に棒は勢いよく燃え盛る。あらかじめ用意されていた松明はどうやら湿気ることなく保存されていたようだ。
「よくもまあこれだけ集めたものだな」
「保存状態も良いですね」
 金色に照り返す杯。それに引っ掛かるようにして置いてあったペンダントを手にセラフィーは呟いた。中央に(きら)めく赤い宝石に濁りはない。捨て置かれた年月などものともしない輝きがそこにはあった。
「取り合えず……書物だけでも運び出そう。ここに置かれてるってことは重要書類だろう。俺とお前とリディスとで手分けすればなんとか………リディス? どうした?」
 うんざりする量の書物の山から顔を上げたラキアの目が、リディスの細い背中を捉える。
「この人……」
「え?」
 リディスの向こうには一枚の肖像画が置かれていた。彼女の手には絵に掛かっていたはずの布が握られ、床に広がった白い布が鈍く光を反射する。少女の立つその場だけ、仄かな淡い光が立ち上っているようだった。
「この人、私、見たことがあります。アシュハルトで……」
 セラフィーがランプを持ち上げる。照らされた肖像画。描かれたのはバベル帝国最後の王妃。
「でも、雰囲気は全然違う。この人――……」
「ディアナ・ル・リヴェイラ」
 ラキアの声には淀みがない。少女が初めて振り返る。その続きを促すように、紫の瞳をじっと見つめる。
「バベル帝国最後の王妃、リヴェイラ公爵の一人娘、ディアナ・ル・リヴェイラ。君の……」
「ラキア様! それ以上は……」
 全ては証拠のない憶測。咎めるセラフィーの言葉を、ラキアは自分の本能が訴える事実で黙殺する。

「君の、母親だと俺は思ってる」

 リディスは何の感情も返さない。ただじっと青年の瞳を見返すだけ。

「君は、ウォルス陛下とディアナ王妃の娘……リディエラ・トゥル・イシリスじゃないのかと、俺は思っているんだ」

 吹き抜ける風が炎を揺らす。
 それよりもさらに濃い、少女の深紅の双眸。
 肖像画の中の女の瞳が、立ち尽くす三人を静かに見つめていた。血よりも紅い、少女と同じ、深紅の瞳。






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