壊れてゆく。
音もなく。
ゆっくりと――……
女は言う、「あなたなど要らなかったのに」
そう言って憔悴しきったため息をこぼす。
俺は言う、「俺も俺など要らなかったのに」
じゃあ早く帰りなさい、とそっけなく言い捨てると、女は静かに目を伏せた。長い睫毛が白い肌に影を落とす。
女はそれきり何も言わなかった。
ただ黙って俺が去るのを待っているのだ。だけど俺は彼女の期待に応えられそうもなかった。
俺は言う、
「どこに帰ればいいのか、もう分からないんだ」
帰り道など分からなかった。
帰る場所など端(からないのだ。ただ、それだけは分かっていた。
女は再び重くため息をついた。肺に溜まった一切の毒を全て吐き出そうとでもいうように。
黒い髪がほおに掛かる。
瞼がほんの少し持ち上がって俺を見る。
紅い、血のような
壊れてゆく。
音もなく。
ゆっくりと……ゆっくりと――……
「真夜中と真昼の夢」
目を開けた瞬間に、全ての意識は明確に浮かび上がる。だが、目を覚ましたその後も、その先に広がるのはただの闇だった。
今が夜だと認識するまでにはやはり少々の時間が必要で。夢の残滓(がさらさらとこぼれて行くのを彼はじっと待つ。
かすかに身を起こすと殺風景な自分の部屋が見渡せて、彼は自嘲気味に笑みをこぼした。
まるで今の自分のようだ。
何も無い、真っ暗で空虚な部屋。
それはそのまま今の自分に当てはまる。おあつらえ向きじゃないかと彼は思う。
彼は先ほど見た夢をぼんやりとだが覚えていた。不快ではなかった。ただ、どうしようもなく空虚だった。
夢の中の女と同じ黒い髪がほつれて乱れて頬に掛かる。琥珀の瞳がわずかな月明かりを反射してきらめく。
「これであんたは満足だろう」
誰にともなく彼は呟く。
声は自分のものではないような気がした。ずいぶん長いこと言葉を発していなかったような気さえした。
「これがあんたの望んだ結末なはずだ」
今度ははっきり、夢の中で途方に暮れていた女に向けて言った。女は答えない。誰も彼に答えない。
「これで良いんだ」
これで――……
女は答えない。
誰も彼に答えない。
あの少女も、今は傍にいないのだから。
「どうだった?」
辺りをはばかるような小声に、女はかすかに首を振ることで応じた。そう、と小さく漏らす吐息には落胆の色が滲んでいたが、彼の表情はこの結末を予想していたようだった。
「一目見ることも?」
「ええ、扉に近づくことさえ出来なかったのよ」
「そう……」
再び少年はため息を漏らした。彼の姉は疲れきった目を伏せ、冷たい回廊の先を促す。
連れ立って歩き出す姉弟の間に会話はない。あるのは淀んだ灰色の空気だけで、重くのしかかるその空気が彼らの口を重くさせた。
「アゼルは………」
少年は金髪の前髪をかき上げる。
「アゼルは……一体何を考えてるんだろう。父上は確かに危険な状態ではあったけれど、こんな風に、僕たちからも隔離するなんて……」
ためらいがちに発せられる言葉からは、兄への信頼がわずかに感じられる。信じきることも疑いきることも出来ない少年の言葉は歯切れが悪かった。対する姉は開き直ったかのごとく笑ってみせる。乾いた笑いは自嘲気味に響き、二人の空気をさらに濁してゆく。
「あの子の考えていることは分からないけれど、状況は最悪よ。父上は監禁状態。バベルとの国交は断絶、信頼関係もずたずた。そして私の可愛い義妹は行方不明。唯一所在を知っていそうなアゼルはだんまりを決め込んで私たちと会おうともしない」
話しているうちに腹が立ってきたのか、彼女の声には怒気が滲んでいる。
「とにかく、アゼルよ。あの子に会って訊くこと訊かなきゃ話が始まんないわ」
「……無理だよ。アゼルは絶対僕らとは会わない気だ。徹底的に僕らを避けてる」
「だったらこっちも徹底的に追い回すだけよ。どんな手を使っても、全部説明させてやるわ」
「そんなに上手くいくとは思えないけど……」
少年が苦笑を浮かべる。心は幾分軽くなっていた。
姉が、わざと判りきった無茶を言っているのを彼はちゃんと知っていた。その気丈さは今の彼にはないもので、同時に彼が憧れるものでもあった。つられて笑って見せながら、少年は姿を消した少女に想いをはせる。
アゼルの手によって軟禁状態にあったあの少女は、自分たちが手をこまねいている間にこつ然と姿を消していた。
自力でどうにかしたのならまだ良いが、どうにも出来ない事態に巻き込まれた可能性だってある。どんなに心配してもし足りないのに、図ったように押し寄せる問題の数々に対処が追いつかなかった。
「無事でいれば良いんだけど……」
それはほとんど懇願に近い願い。
「大丈夫よ。あの子は案外丈夫で機転が利くし、絶対大丈夫」
姉は確かめるように強く言う。
「そうだね……、リディスは、多分、僕なんかよりずっと強いんだ」
「そうよ。私の可愛い兄弟たちはみんな見た目よりずっと強いはずなのよ」
「その兄弟たちってのには、僕も含まれてるのかな」
「もちろんよ」
間髪入れずに返ってきた一言はいっそ小気味良くさえあり、自分の中にある壁など軽々と越えてゆくその姿は眩いばかりで。同じ金色の髪でさえも彼女の背に流れると違って見えて。
「そういえば……、一つ気になる情報があるわ」
深い穴に入り込んでいた少年の意識を、明朗な声が引き上げる。振り返った小麦色の瞳が悪戯っぽく光る。
「帰還した兵の中に、一人、裏切りの嫌疑で牢に入れられた兵士がいたって」
「……何それ? 僕は知らないよ。なんで姉さんがそんなことを知ってるわけ?」
「私もね、行き遅れだの何だの言われながらただ黙ってこの王宮に暮らしているわけではないのよ。それくらい知る伝(はあるのよ」
「で?」
「自軍に裏切り者が出たのは正直好ましくはないけれど、この際それは置いておいて。間者だというならバベル側の事情を何か知っているはずよ」
「うん」
今や見るからに活き活きと輝きだした女は、極上の笑みを浮かべて言った。
「脱獄させるわよ」
「了解」
答えた少年の口元にも、わずかに笑みが浮かんだのだった。
「よく戻ったな、取り合えず礼を言う」
本当に感謝しているのか疑わしい平坦な声はこの国の第一王子のもので、よく通るその声は部屋に集まった全員の耳にすんなり届いた。
「王が……」
『王』の一言に、数人の男たちはすでに強ばっていた体をさらに硬くする。
声の主は片眉をかすかに持ち上げた他には何の反応も示さない。
「王が、以前お前たちに下した罰、及び勝手に王宮を不在にした咎は特別に免除する」
男たちがほっと胸を撫で下ろしたのも束の間。
「王はご病気に伏せっておられる。ゆえに王不在の間の指揮は私が執る。ヴォルタ」
「……はっ」
「官を元の配置に。それから空位の官への推薦は全てお前に一任する。しばらくは宮中の立て直しに務めろ」
「は。全てお任せください。……アゼル様、僭越ながら、バベルとは――」
言いかけたヴォルタをアゼルの鋭い視線が貫く。視線は刃となり、冷たい刃先は老人の体をまたたく間に凍らせた。
「バベルとは、停戦条約を結ぶ」
「しかし! そんなに簡単に交渉の席に就くか……」
「向こうもこんな不毛な争いを長く続ける気はないはずだ。ある程度有利になったら、あちらも停戦を持ちかけてくる気だったはずだ。兵力も、国力も、以前よりはるかに劣るのだからな」
淡々と告げるアゼルの言葉に面と向かって反発する意気のある者など当然おらず、部屋には重苦しい沈黙が漂っていた。
「送る使者の人選は俺に任せてもらう。では、各自持ち場に戻れ」
「……ア、アゼル様」
さっさと部屋を出ようとした青年の背後に、弱々しい声が掛かる。
アゼルはわずかに首を巡らせただけでそれに答えた。
「王の、御容態はいかに……、また、バベルより帰還した兵たちの間の不穏な噂を耳にしました」
青年は答えない。ただ、相手の顔を琥珀の瞳に映しているだけだった。
身を縮ませながらも、相手は何とか声をひねり出すことに成功した。
「兵の間に裏切り者が出たとか。あなたは、勝てる機会を自ら放棄したとか。……これは事実でしょうか」
「お前はどう思う」
思わぬきり返しに老人は一瞬言葉に詰まるが、そこは一国の重臣に誇れるだけの精神でもってなんとか口を開く。
「事実だとしたならば……それは、問題ですぞ」
「それはそうだろうな」
今度こそ老人は言葉を失くしたようだった。対するアゼルは何の変化も見せてはおらず、彼が何を考えているかはその外見からは図りようがなかった。
「俺がなんと答えようと、判断するのはお前たちなんだ。信用するもしないも、そんなものは自分たちで判断しろ。ただ一つ言っておくが、俺はこの国の不利益になるようなことをした覚えはない」
それ以上の一切の追求を跳ねのける力を有した言葉。
どうして良いかわからずにいる重臣たちを置いて、青年は部屋を後にする。扉が閉まりきるまで、誰一人呼吸さえできなかった。
足がひとりでに進み、無意識のうちにある場所を目指していたことに彼が気付くのには少々の時間が必要だった。
気付いた後も意志とは裏腹に足が止まることはなく、結局彼は流れに身を任せ薄闇の中を静かに歩いていく。
たどり着いたのはあの絵の前で。白い布を取り去ると黒い髪の女が妖しく彼に微笑みかかける。
「これであんたは満足だろう」
答えの返ってくるあてのない問い。
彼の右手がふと、手放せなかった鍵に触れる。錆びてしまった小さな鍵。かすかに差し込む光を反射するだけの力もない鍵。
輝きを失ったそれが彼の手のひらに転がる。
眩い銀色を放つもう一方の鍵は、きっとあの少女の元にあるはずで。あの少女と、彼女が全てをかけて守った青年とが持っているはずで。
「あんたの娘は、あるべき場所に返した。これで、あんたは満足なんだろう」
全ては良いようにまとまったように思えて。
自分も、壊れてしまった父さえも、これが正しい姿であるように思えて。
「これで良いんだ。全ては、終わったんだ」
自らに言い聞かせるように二三度繰り返してから、青年は再び白い布を取り上げる。
姿が隠れるその一瞬間、女の瞳が寂しそうに光った気がした。
「で? ということはつまりは貴方は間者ではないというわけね?」
いくら自国の姫君に対する礼儀を知っているものであっても、この問いがもう八度目ともなれば少しは苛立ちも募るというもので。それが短気な少年なら尚更で。
「そうではない、とあと百回誓えば牢に戻して下さるというのであれば、俺……私はあと百回言いますが」
丁寧に言ってはいるが滲み出る怒気はすでに隠せないところまで来ていて、そのせいもあってかようやく女は頷いて見せた。
「分かったわ。貴方の言うことを全面的に……いえ、六割くらいは信用しましょう。牢に戻る必要はありませんわ。貴方はここで、私たちに、知りうる限りの事実を告げるの」
アリシアはそう言ってから自分は部屋の片隅の椅子に腰掛けた。
残された少年はひざをついたまま、どうして良いか分からないという様子で顔を上げる。そのまま助けを求めるように傍らにいた金髪の少年に視線を移した。
目が合った少年は困ったように眉を下げ、
「ごめんね。姉さんはいつだってこうなんだ、気にしないで。僕たちが知りたいのは……バベルで何があったのかってこと。君が間者でないのなら、どうして牢に入れられる羽目になったのかってことなんだ、ニール・ランディット三等兵」
やっと分かりやすい命令を下され、ニールはほっと胸を撫で下ろした。
たとえ自国の姫であっても、アリシアは彼にとって苦手の部類に入る女だった。だからニールは自然とギルヴィアに向く形で口を開いた。
「俺……私、が……牢に入れられたのは、えーっと、とある人物の手助けをしてしまったからであって、別に敵に精通していたからというわけではありません。それで、バベルで何があったのかっていうのは……これは俺にもよく分からないんですけど……」
「ちょっとちょっとちょっと!! 結局何があったのかなんて全然分からないじゃない! ちゃんとありのままを述べてちょうだい! 訊きますけど、それであなたが手助けをした人物がつまり敵の間者だったというわけね?」
「違います!!」
ニールが大声で反論する。相手が王族だなんて知らないかのような勢いだった。
「違います、それは違う。彼女は……彼女には敵も味方もなくて、そんなんじゃなくて……ただ必死だったから、だから俺は手を貸したんだ。それを、俺は間違いだったとは思わない」
確固たる意思で紡いだ言葉は強かった。
俯いたニールの頭上から、「あ」という微かな声が降ってくる。思わず見上げた視線の先で、ギルヴィアが何とも言えない表情を浮かべていた。
「ねえ、もしかして……その子、リディス……リディスって言うんじゃない?」
あ、と視界の端でアリシアが席を立つのが見えた。
ニールはと言えばなんと答えるのが正解なのか見当がつかない様子で、俯いたきり口をきつく結んでしまった。
しかしその態度はギルヴィアの予想を肯定するに足るもので。
「リディスは、やっぱり強いんだ。僕なんかより、ずっと……。でも、」
ギルヴィアの心に、眩しい光を放つ少女がよみがえる。それと同時に、一切の光を拒絶する青年の姿も浮かんでくる。
まだ、出来ることは残されていた。それは、リディスの力だけでは成し得ないことなのだ。
「でも、僕も、君の手助けくらいしてやれるよ」
だから、今度会うときはきっと笑顔で。
それが不可能なことだなんて、誰にも言わせない力が、今の彼には欲しかった。