「リディスは?」
小声で落とされた問いに、アリヤは小さく首を振って答えた。
「まだ、お部屋でお休みになられています。でも、お食事はなんとか……」
「そうか。……あ、俺が来たことは伝えなくていい。お前には悪いがもうしばらく一緒についててやってくれ」
「もちろんです」
アリヤの答えは明瞭だ。真っ直ぐ見上げてくる彼女に頷き返して、青年は足早に去ってゆく。
アリヤは知っている。
彼が政務のわずかな合間を縫ってやって来ていることを。来るたび心配そうに、開かない扉を見つめていることを。
アリヤは知らない。
なぜリディスが一度もそんな彼に姿を見せないかを。なぜ扉を閉ざしたまま塞ぎこんでいるのかを。
でも、アリヤは解かっているのだ。
リディスがまだ何も諦めてなんかないことを。
毎日苦しそうにしながらも、ちゃんと食事を取っている。新しく与えられた剣を持ち、決まった時間に素振りをしている。
彼女はまだ、何も諦めてなんかいないのだ。
「潮騒が止むまで」
潮騒が聴こえる。
あの日からずっと、耳の奥で潮騒が聴こえる。
止むことのないその音が、必死でまとめた思考を端からほどいて闇の中へ放り込んでゆく。
誰かに助けてと言って、縋って、その力を借りればあるいは、ざわめく波だって再びおさまるかも知れず。だけどこれは自分の、自分だけの問題なのだ。
だから彼には会えない。
彼の、あの優しい紫の瞳を見てしまえば助けを求めない自信など全くなく。助けを求めてしまえば、彼は全力で応えようとしてくれるはずで。
それだけは駄目だ。
「これは私の問題。私だけの……私だけの記憶」
今まで父と母だと信じていた人たち。その友人。
自分を拾った義兄。その父親にして、アシュハルトの王。義姉、義弟。
そしてこの国、バベル帝国の最後の王と王妃。
事実なんて関係ない。
自分が、父と母とを信じられるか。
キースとアンとを信じられるか。ジルを信じられるか。アゼルと、ケゼフを信じられるか。アリシアとギルヴィアを信じられるか。
問題はただそれだけなのだ。
真実が例えどうであれ、彼ら自身を信じていられれば揺らがなくてすむのだ。揺らぐ必要などどこにもないのだ。
「私が、ラキア・バシリスクを信じることができるなら……」
記憶のない、バベル帝国の王と王妃を信じることができるなら。
「私が……」
潮騒は止まない。
まだ、心は揺らいでいる。
主が知らずにこぼした溜め息に気付かないほど、ラキアの隣にいる男は鈍くはなかった。
「あなたは悩みすぎなんだと思いますけどね」
「……まるで俺の心の中なんてお見通しだって感じだな」
どこか刺々しいセラフィーの言葉に、ラキアは肩をすくめてみせる。この執事はどうも最近機嫌が悪い。正確に言えば、この間リディスに真実を――セラフィーに言わせれば「憶測にすぎないこと」を――告げたときから機嫌が悪い。
原因も理由も判っているが、こればかりはラキアもお手上げであった。
「見なくたって分かりますよ、今のあなたの心なんて。だから彼女に告げるのはまだ早いと申し上げたんです」
いつになく饒舌な執事の小言に、ラキアは書類に目を走らせながら何度もうなずく。最初こそいちいち相手をしていたが、三日もこんなことが続くと返事も心ここにあらずであった。
「これで彼女の扱いは、途方もなく面倒になりますよ。こんな言い方はしたくありませんけどね」
「じゃあするなよ」
「せざるを得ないでしょう。本当に分かってますか? 彼女が王族の生き残りだったとしたら――」
「"だったとしたら"じゃない。そうなんだ、彼女は」
書類から顔も上げずにラキアが言う。その声は普段どおりで、憤るわけでも逆に冷たくなるわけでもなくて。あまりに自然すぎるそれを聞いた瞬間に、セラフィーには道は一つしか残されていなかった。
「……いいですよ。あなたがそうなら、私はもちろん従いますが……彼女の自由は著しく制限される。それはもう覚悟の上ですね?」
ようやくラキアが顔を上げる。目はしっかりセラフィーを捉えながら、持っていたペンをインク壷に立てかけた。そうして手を止めておきながら無言で問いただすような視線をセラフィーへ投げかける。
先に沈黙に耐えられなくなったのは執事の方だった。
「彼女に、アシュハルトへ戻りたいなどと言われても、もう絶対に行かせるわけにはいかないんです。それどころか、この王宮から外へ出すのもためらわれる。変に動き回られれば、こちらにとっても痛手だと、そう言っているんです。アシュハルトだって、どこまでこの事実を知っていたか疑わしい。全く知らないにしては、行動が妙過ぎる」
「すまない」
「ラキア様?」
唐突にかけられた謝罪の言葉。
意味を図りかねたセラフィーが首を傾げるのを、ラキアは黙ってしばらく見つめて「すまない」と繰り返す。
「お前に、嫌なことばかり言わせた」
軽く腕を組むラキアの瞳は穏やかだ。黒い髪は幾分伸び、それを無造作に結わいている様は普通の青年となんら変わるところはない。しかし、その瞳の奥に宿る鋭い光は隠しようもなく、放つ気配は指導者のそれである。
この国は、今ラキア・バシリスクという新しい指導者の下、ようやく立ち直ろうとしているのだ。
セラフィーにとって大事なのはただ一人。目の前の青年だけで。
だから本音を言えばリディス・ゾルディックという存在は邪魔なのだ。彼女が行方不明のリディエラ皇女だとしても、それを明らかにすればなに一つ良いことはない気がするのだ。
彼女がリディエラでなければ、まとまりかけたこの国に波紋を投げかけることもなく、アシュハルトに弱みを握られることもなく。また、ラキアと結ばれることも、彼が本気でありさえすればそれなりに簡単なことである。
しかし彼女がリディエラであれば、再びこの王宮は騒動にまみれ、国の復興は遅れ、その上宰相であるラキアと皇女である彼女が近づくのは色々と問題がある。
どう考えても前者の方が都合が良い気がしてしまうのである。
「もう、損得の問題じゃなくなってるんだ」
まるで思考を読んだかのようにラキアが呟く。ドクンとセラフィーの心臓が脈を打つ。
「この辺で、そろそろ色んな過去にけじめをつけないと、未来へ手を伸ばせない。多分、これは女神が与えてくれた最初で最後の機会なんだよ。これを逃したら、もう二度と……」
一度そこで言葉を切ると、ラキアはゆっくり目を閉じた。
長い間、全貌も分からずに絡まりあっていたありとあらゆるものが、今、少しずつ解れだしているのが彼にははっきりと分かるのだ。この瞬間を逃して他に機会はない。それが痛いほど分かるから。
鍵は未だ沈黙を続ける少女。そして彼女が自分に預けた王家の指輪。
例え求める真実の先に辛い現実しか待っていなくとも、それを受け容れるのが彼にとっての償いだった。十一年前、目の前の事実から逃げ出した自分が唯一できる償い。
ラキアは目を開ける。
もう迷いなど残ってはいない。
「もう二度と、俺は目を逸らさない」
真実はずっとそこにあって。
手を伸ばしさえすれば手に入れられるのだ。
今が、その伸ばす時なのだと、ラキアは確信していた。
月の淡い光が部屋中に満ちている。
純白の月は完全な円となって空に浮いていた。時が満ち、円となり、そしてまた欠けてゆく。
リディスの手が、傍らに立てかけてある剣に伸びる。
シャラリと金属が滑る音と共に、よく磨かれた刀身が姿を現す。
『………人はね、何かを守るために戦う時が一番強くなれるんです』
ある男が言った言葉の意味が、今なら分かる。
長い時を経て、ようやく言葉は彼女のものになった。
『何かを守るために戦う時、貴方は一番強くなれるはずです』
それが本当なら、
「私は、今、一番強いはずよね? ジル」
虚空へ問う。
返されるはずだった答えは、全て自身の中にこそ存在する。過去の記憶は、全て彼女の中で生きている。
心の中で、波は静かに反復を繰り返している。
鈍くきらめく刀身を静かに鞘へと戻しながら、リディスは扉を振り返る。
ずっと閉ざしていた扉。その扉に手を伸ばした。
ぐっと力を入れて勢いよくそれを押したリディスの手に、予想外な音と抵抗が返ってきて。
「い……ッ!?」
「え!? え、え? ラ……ラキア様っ!?」
目に飛び込んできたのは眦に薄っすらと涙をためたこの国の宰相で。片手で顔面を押さえたその姿を見れば、自分が何をやらかしたのかはもう明白で。
たっぷり数秒間黙ってから、リディスはぼそぼそと呟く。
「……大丈夫ですか」
「大丈夫だ」
青年は涙声で答える。リディスは扉にかけた手に力を込めた。
「人の部屋の前で、一体何をしてたんですか?」
「人聞きの悪いことを言うな。別にずっといたわけじゃない、つい五分ほど前に来たんだ。今からノックするとこだったんだ」
「一体五分も何してたんですか」
「…………」
墓穴を掘ることなどあまりないであろう青年はしまったとばかりに黙り込んでしまう。その様子が、緊張していたリディスの心を溶かしてゆく。自然に口元が緩むのが感じられた。
「私も、話したいことができました」
「……そうか」
ラキアは顔を覆っていた手をゆっくりと下ろした。紫紺の瞳は途方もなく穏やかで、それがリディスを安心させる。
もう、彼は全てを決意したのだと知れた。その上で、自分が落ち着くのを待っていてくれたのだろうと。
リディスは笑う。もうこれ以上の時間は必要なかった。
「全部聞きます。聞かせてください」
潮騒が遠のいてゆく。
湖面は静かに凪いでいた。