ラキアはぽつりぽつりと話し始めた。
 言葉はゆっくりと空気をつたい、リディスの中へ溶けてゆく。
 それはとても哀しい真実だったけれど、限りない優しさに包まれて少女の心へ届けられた。


「Hush-a-bye , baby」


「もともと、ウォルス陛下、ディアナ王妃、そしてケゼフ王は親交が深かった。ディアナ様はリヴェイラ公爵家の一人娘として、アシュハルトの王宮とも懇意にしてらしたから、結果ケゼフ王とも面識があった。ディアナ様は陛下と出会うより以前に、ケゼフ王と出会っていたんだ」
 ラキアは一つ一つ、言葉を選んでいた。そのおかげで過去はひどく緩慢に紡がれている。だが、リディスは先を急かそうとは全く思わなかった。自分を気遣う優しい言葉が、ただ心地良くて目を閉じる。
「ディアナ様は十八歳……今の君と同じ歳のとき、ウォルス様とご結婚なされてバベル帝国王妃となられた。その四年後、リディエラ皇女………君が生まれたんだ」
 リディスは黙っている。わずかに口を開きかけたがそこから音が漏れることはなく、組んだ手が動くこともなかった。
 ラキアが手を差し出す。その手のひらに乗っていたのは小さな指輪。見事な細工が浮き上がる王族の指輪。
「君をリディエラ皇女だと証明するのは、この指輪と、その瞳と髪。それから年齢や、君が名乗ったゾルディック姓。それだけで充分すぎるほどだと思う。セラフィーは、性急過ぎると言ったが」
「――なぜ?」
「え?」
「なぜ、……指輪や歳はともかく、他のものが証拠になるんですか?」
 部屋は暗かった。
 蝋燭の頼りない淡い光が、リディスの紅い瞳に揺らめいている。
「私は、本当にずっと小さいころから、父さんと母さん……キースとアンと一緒に暮らしてたんです。私は覚えてるんです。……知らない、思い出せない、陛下や王妃のことなんて、全然記憶にないんです」
「俺が覚えてる」
 リディスが思わず顔を上げる。
「俺が覚えてる。君の瞳は王妃から受け継がれたものだ、髪は陛下から受け継がれたものだ、俺が覚えてる。守ろうと……必ず守ると誓ったんだ。誓ったのに、俺は……二度とも君を救えなかった」
「ラキア様……」
「一度目は内乱のとき、駆けつけて、見つけたのは陛下と王妃のご遺体だけで……俺は全然間に合わなかった。二度目は、あの日だ。あの日、俺はわが身可愛さに君を見捨てて逃げたんだ、リディス」
「…………」
「俺はあの日一人で遠乗りに出かけ、君たちが乗っている馬車と遭遇した。避け切れなかった馬車が横転して、君の両親が死んだ。俺は、自分が犯したことから目を背けて、まだ小さかった君を置いて逃げたんだよ。戻って来たときにはもう君はいなかった。何もかも間に合わなかった。君は死んでてもおかしくなかった。俺が殺したのと一緒だ」
「……あなたのせいじゃない」
 リディスの声は震えていた。
 組んだ手に力が込められて白くなる。
「あなたのせいじゃ――」
「違う。俺のせいだ。俺が、君のお父さんとお母さんを死なせたんだ」
「違う……っ!」
「違わない」
「違う違う違う違う!」
「認めてくれ!!!」
 一際激しい叫びが木霊する。
 ラキアは肩で息をしながら次の言葉を探した。こんな風に怒鳴ったことなどあまり記憶になかった。
「認めてくれ、リディス。じゃないと……」
 もう、会えないと思っていた少女だった。
 二度見失って、再び邂逅するなど思ってもいなかった。
 だから会えたとき、彼女は自分の過ちを罰するために帰ってきたのだと思った。
 でも……でも、違ったのだ。
 彼女は罰を与えるために帰って来たのではなかった。死神に見えたのは自分の気の弱さゆえだ。

 ずっと自らを責めていた。殺して欲しいと思っていた。
 その前にすべきことを、それより先にしなくてはいけないことを、自分はずっと忘れていた。

「じゃないと、俺は、君に謝ることができない」

 リディスは泣いている。
 ラキアの手がごく自然に伸び、リディスの頬をつたう涙を拭う。
「たとえあれが事故だったとしても、たとえ馬車が急ぎすぎていたとしても、君のお父さんは俺を助けるために手綱を切った。そして、君を見捨てた俺の罪は消えないんだ。認めてくれ、リディス」
 白い手が振り上げられ、それが自分に下ろされるのを、ラキアは黙って受け止める。
 大した力は込められていないのに、何度も振り下ろされる拳は心に痛かった。
「……ッ、あ、あなたが……あの時、逃げなかったら……私は、あんなにあなたを憎まないですんだ」
「うん」
「あなたは、私にただ殺されようとしてた。そんなのずるい……、一人だけ楽になろうとしてた! そんなのずるい!」
「うん」
「また……また、私を一人にしようとした!」
「うん」
「あなたが何も言わないせいで……私、は……赦すことだってできなかった!!」
「うん」
「あなたは……ずるいし、酷いし、卑怯だ。でも……」
 振り上げた手が力なく下ろされる。声は今にも消え入りそうなほど頼りなかった。
「でも、私の方がずっと最低だ」
「………リディス」
 顔を上げたリディスがわずかに微笑む。
「事故だったって知ってた。父さんも母さんも、そんなこと望んでないの知ってた。それなのに……何もしないではいられなくて、生きているのが辛くて、良いようにあなたを利用したの」
 だから謝るのは私も一緒なのだと、リディスは笑って、
「私は、あなたを赦しますから……あなたも、私を赦してくれますよね?」
 言ってから軽く首を傾げてみせる。
 ラキアの口元も自然に緩む。
「なら、俺も赦すしかないなあ」
 くすくすとリディスが笑う。
 背負っていたものが無くなったわけではないけれど、心は遥かに軽くなっていて。こんなに穏やかな気持ちで笑う日が再び訪れるなんて夢のようで。
 その上、隣にいるのが彼女ならば、もうこれ以上に嬉しいことなんてそうそうありはしないだろう。
 この瞬間だけは、確かに自分たちのものだ。
 ラキアはそっと、過去の続きを彼女に語った。



「じゃあ、父さんも母さんも、後宮仕えだったってことですか!?」
「そうだろうな。俺も、キースとアンと言う名前はなんとなく覚えてる。キース・ゾルディック、アン・コールマンという名が王宮の資料にも残っていた」
「うーん……母さんはともかく、父さんはピンと来ないですねえ」
 少女は腕を組んで考え込んでしまっている。よほど想像の範疇外なのだろう。
「確かに、ジェラルダン殿もそう思っているような節が資料の随所から垣間見えるけどな」
「………ジェラルダン?」
 ばっと振り返ったリディスの顔には、何とも言いがたい期待と不安の入り混じった色が浮かんでいた。
 つられてラキアも不安になる。
「この、資料を残した者の名だが……どうした?」
「ジル……」
 今度はラキアが驚く番だった。なぜ、彼のあだ名を彼女が知っているのか。
「じゃあ、ジルが、ジェラルダン……? その人も後宮に?」
「ああ、本来は男子禁制だが、ミネルヴァの息子で陛下の信任も厚く、後宮で警護の役についていたと……剣の腕も相当だったと聞いている。……それがどうした?」
「ジルが……。そういうことだったの。だから父さんと母さんの友達で……」
「おい、どういうことだ?」
 一人で納得しているリディスに、ラキアの焦れた声が掛かる。少女は心ここにあらずの(てい)で答えた。
「あの日、父さんと母さんが死んだ日、ジルが、迎えに来てくれて……それから六年、一緒に暮らしてたんです。彼が、私に剣を教えてくれた。ジルは私を守ってくれたのに、私はジルを守れなかった」
「……君は、あの後アシュハルトと接触したんじゃなかったのか」
「アシュハルト? 私が義兄上に会ったのはジルが死んだ日です」
「…………そうか」
 ラキアの顔が一瞬で曇ったのに、リディスは気付かなかった。
 ――話が出来すぎている。
 彼はずっと、キースとアンが死んだあの日から、リディスがアシュハルトと接触を持つまでの空白の時間が気になっていた。でも聞くことはどうしてもできなくて、思えば今の今まで、彼女がここに至るまでの経緯など全く分からないに等しかったのだ。
 リディスはきっと、キースとアン、そしてジェラルダンの手によって内乱の場から助け出されたのだろう。それからずっとキースとアンが親代わりになっていた。彼らが死に、今度はジェラルダンが引き取った。
 本当なら路頭に迷うところを、なぜかアシュハルトの第一王子が助けたのだ。
 出来すぎている。
「ジェラルダン殿が亡くなったのは……」
 リディスの顔が歪む。それでも聞かないわけにはいかなかった。
「盗賊が出たんです。ジルと私は山の中の小屋で暮らしてたんです。それまで人と出会うことなんてなかったのに……あの日、突然盗賊に襲われて、私は隠れてて……ジルは私を守ってくれて、相手もみんな死んだけれど、ジルも一緒に死んでしまった」
「そして君はアゼルに出会った」
「義兄上はちょうど狩りへ来ていたんです。そして私を拾ってくれたんです。ジルを埋めるのも手伝ってくれて……アシュハルトの王子だっていうのには驚いたけれど」
「……ケゼフ王は君を快く迎えてくださったのか?」
 ラキアの言葉に見え隠れする疑念には気付かない様子で、リディスは苦笑気味に答える。
「王はとてもお優しい方でした。私を、なんと養女として迎えてくださったんですよ? お城に置いて頂けるだけでも凄いことなのに。公式ではないですけどね。そのおかげで私には義姉と義弟ができました」
「………そうか」
 二人の間に沈黙がおりる。
 先に口を開いたのはラキアの方だった。
「落ち着いて聞いてくれ。十七年前の内乱……ジェラルダン殿が必死に調べ上げた資料がここにある。この中で、彼は……」
 一度言葉を切る。この先を言うのにはどうしても勇気が要った。
「彼は、ケゼフ王こそが、あの内乱を扇動したのではないかと書いている」
 リディスは、何を言われているか理解していないようだった。
 何の反応も返して来ない彼女に、ラキアは慌てて資料をめくる。
「ディアナ様は陛下とご結婚なさる前、二年間人前に姿を現さなかった時期があったんだ。ジェラルダン殿もはっきり断言はしていないけれど、どうもその空白の時間にディアナ様は身ごもっていたんじゃないかと……。そしてそれが、ケゼフ王との……子ではないかと」
 非常に言いにくそうにラキアは眉をしかめた。確かに、これが公になれば、リヴェイラ公爵家としても、このバベル帝国にとっても醜聞に他ならない。きっと子供は秘密裏に殺されたのだろう。リヴェイラ公爵家としてはそうするしかなかったはずだ。
「ケゼフ王は………ディアナ様に執着していらっしゃったんじゃないかと。俺としては、どうしてその結果が内乱の扇動につながるのか理解しがたいが、ケゼフ王はただ、この王都を陛下、妃殿下もろともに破壊してしまいたかったんじゃないかと……あるいは、」
 資料をめくっていたラキアの手が止まる。意味もなくめくり続け、もう最後の一枚になっていた。
 そこには達筆と言うには少し癖のある文字が走っている。

「『あるいは、彼はただ、ディアナ様を取り戻そうとなさったのではないか』、と」

 もしこれが本当だとしたら、なんて稚拙な行動だろう。なんて愚かなことだろう。
 セラフィーが、馬鹿馬鹿しそうに真相を語った気持ちは痛いほど分かる。
 たった三人の行き違い。
 本当ならたった三人の間で解決すべきことが、彼らが王という肩書きの持ち主であったために全てが狂ったのだ。
 だから怖い。
 だから権力は怖いのだ。
 ラキアは静かに目を伏せると、深く息を吐き出した。

 傍らの少女が落ち着くまで、今日はいつまででも隣にいるつもりであった。





 しばらく一人にしてくれと願ったのは自分だが、いざ暗い部屋に独りきりになると寂しさは一層深いものとなって精神を蹂躙していった。蝋燭の灯りはとうに消え、手元を照らすだけの月明かりのみが部屋に漂っている。
 寝台に深く深く身を沈め、意識が引き込まれるようにして途切れるその一瞬前。
 コン、というごく控えめな音がリディスを深淵から引き戻した。
 誰だと考えるより先に彼女の体が動く。条件反射で剣に伸ばしかけた手を押しとどめ、そのまま人の気配の漂う扉へと向かった。
「………どなたでしょう?」
 こんな夜更けに自分を訪ねてくる者など一人しか思い当たらなかったが、扉の向こうの気配がその可能性を否定する。相手は少しの間を置いて答えた。
「……ミネルヴァ・コンスタントです」
「え?」
 その名をリディスは知らない。
「ジェラルダン・コンスタントの父親にございます」
 あ、と声にならない声を発して、少女の体が硬直する。彼がなぜ訪ねて来たのかも、自分がどうすべきなのかも考える余地はなかった。ジルの最期の瞬間が脳裏にちらついて彼女の思考の邪魔をする。
「……大変失礼な時間に申し訳ありません。自分はまた明日から多忙につき、少しでもお話できればと……。……しかし、非常識な時間でした、申し訳ありません。またお伺いいたします」
 そう言って離れかけた気配を追って、リディスは反射的に扉を開けた。
 今を逃してはならない、と、誰かが頭の中で囁く。

 蝋燭を手にしたその老人には見覚えがあった。ラキアの護衛についていた時、何度か視界には入っていた人物だ。その顔にジルの面影を探したが、暗すぎてよく分からなかった。
「このような時間に申し訳ありません。お初にお目に掛かります、ミネルヴァ・コンスタントにございます、リディエラ様」
 呼ばれた名に反応が遅れる。
「ラキア様に事情を少々伺いました。少し……お時間を頂けないでしょうか」
「どうぞ……それから、私の名前はリディス。リディス・ゾルディックです」
 静かに放たれた言葉に、老人は面を上げる。その表情は彼の心を知るにはあまりにも感情が見えなかった。
「承知しました」
 ミネルヴァの答えは簡潔だった。
 リディスの心に恐怖が混じる。

 彼は何のために自分を訪ねたのか。ラキアからジルのことを聞いたに違いないが、ジルの最期を聞いてこの老人は何を思ったのか。
 自分は彼に詰られても仕方ないのだ。今度は自分が糾弾される番なのだ。
 この時になってリディスは初めてラキアの気持ちが分かったような気がした。
 罪悪感が全ての行動を凌駕する。罪の意識にがんじがらめに縛られるこの気持ち。

「ジル……ジェラルダン殿は、」
 何を言っていいか全く見当がつかない。もつれる唇から意味のない言葉が漏れる。
「あの、私が――」
「息子は、貴方を守ることができたのですね」
「え?」
「息子は、貴方を守れたのだ……」
 老人はじっとリディスを見つめながら、独り言のように呟いた。堪らずリディスが小さく叫ぶ。
「私はあなたの息子を死なせました!」
 ゆらりと蝋燭の火が揺れる。
「私はあなたの息子を守れなかった!」
 ジルが必死に戦っているのを、自分はずっと戸棚に隠れて見ていたのだ。
 彼から剣を習ったのに、恐怖に負けて自分は彼を見捨てたのだ。
「ジルは沢山のものを私にくれたのに、私は何一つジルに返せなかったんです!」
 言葉はしばらく闇に漂っていた。
 蝋燭の火がまた揺れる。
 ミネルヴァがふと、穏やかに笑んだ。
「息子はきっと、いえ絶対に、最期まで幸せだったでしょう」
「そんな――」
「幸せだったのです」
「でも、」
「貴方が認めて下さらなければ息子が気の毒だ」

 ――認めてくれ

 なりふり構わず叫んだ青年の言葉がよみがえる。
 ジルの最期がよみがえる。
 そうだ、思い出すべきはあの惨状じゃない。思い出すべきは、心に思うべきは最期の彼の笑顔。「誇りだ」と言って晴れやかに笑って見せた彼の笑顔。
「貴方が、今、ここに存在しているということが、息子が確かに存在したという証明です。それが、私の……救いです」
 ミネルヴァの目から雫が一つ、こぼれ落ちる。
「ありがとうございます、無事に生きていて下さって。ありがとうございます、息子を想って下さって」
 それだけ言うと、老人は無音の中で涙を流した。リディスがそっと、彼の固い節くれ立った手に触れる。
「ジルは、時々お父さんのことを話してくれました。自分と父親とはあまり仲が良くないのだと」
 父親の話をする時、決まってジルは困ったように微笑んだ。
「でも、小さい頃はよく一緒に遊んだんだと。尊敬できる父親なんだって……。普段はしっかりしているように見えるけれど、案外家の中では抜けていて、ちゃんと生活しているか不安だって……そう言って、笑って……」
 その話をするたびに、会いに行けば良い、手紙を書けば良いのにと言ったのは幼い自分。ジルはそのたびに笑って「そのうちに」と答える。
 連絡をしなかったのは出来なかったからなのか、他に原因があったのか、今となっては分からないけれど。困ったように笑う彼が、ここで静かに涙を流す父親を嫌っていたなんてことは絶対になくて。それだけは確かで。

 ミネルヴァの手が少女の手を握り返す。
 きつく握り返された手が少し痛かったけれど、少女は黙って身を任せていた。
 その手の痛みが、ただ寂しくて。





「ごめんなさい。こんな夜に……。でも給湯室の場所が分からなくて」
「リディス様が気になさることなんて全然ないんです。私、正直困っていたんですよ? 私はリディス様付きの侍女なのに、貴方が我がままを言ってくださらないから、侍女仲間たちから『楽してる!』って文句言われて……」
 ゆっくりお湯を注ぎながら、アリヤはにこにこ笑って見せた。
 その笑顔が心底楽しそうだったので、リディスもつられてクスクス笑う。
「さあ、それを飲んで、暖まったらぐっすり眠れますよ。私の家でよく飲んでいた紅茶なんです」
 眠れない夜におすすめです、と自信たっぷりにアリヤが言う。
 ミネルヴァがいなくなった後も目が冴えて眠れなかったリディスは、この侍女の明るい空気に心が落ち着いてゆくのを感じていた。
「この紅茶、なんだか懐かしい味がする」
 なんとなく香りも味もひどく懐かしい気がして、リディスの表情が自然に緩む。
「ねえ、アリヤ」
「何ですか?」
「なにか歌を歌って?」
 突然の申し出にきょとんとしたアリヤに悪戯っぽくリディスが続ける。
「私の我がまま。……なくて困ってたんでしょう?」
「分かりました。その代わり下手でも笑わないでくださいよ?」
「笑わない。誓う」
 じゃあ、としばらく迷ってから、少女は聞き取れるかどうかの小さな声で歌い始めた。

ハッシュアバイ、赤ちゃん
木の上で
風が吹いたら
ゆりかご ゆれる
枝が折れたら
ゆりかご落ちる
赤ちゃん、ゆりかご、みな落ちる

「それ……」
 二番目の歌詞を歌おうとしたアリヤが振り向く。
「それ、知ってる」
 穏やかな子守唄。その唄は確かにどこかで聴いた音色だ。
 ジルは歌なんか歌えなかったから、それより以前、そう、両親と暮らしていた頃に母親がよく歌ってくれた子守唄だった。
「リディス様もご存知でしたか。これ、よく叔母が唄ってくれた子守唄なんです。母が歌ってくれた子守唄はちょっと難しかったので――」
「アリヤ、あなたの叔母様……お名前は?」
 別に何の根拠があったわけでもない。同じ子守唄などどの家でも唄われている。
 だけど、リディスは訊いた。それはあるいは懐かしい紅茶の香りのせいかも知れず、あるいはどことなく雰囲気が重なるアリヤのせいかも知れなかった。

「私の叔母ですか? アンっていう名前ですけど。アン叔母さんは母の妹で、アン・コールマンって………え、リ…リディス様!?」

 ああ、繋がっている。
 自分はまだ、両親と繋がっている。
 母の面影が目の前の少女に重なる。もっとよく見たいのに、溢れてくる涙に目がかすんで何も見えなかった。
 アリヤの呼ぶ声が遠ざかる。
 唐突に、リディスは自分がもう大丈夫なのを悟った。
 もう多分自分は揺らがない。何があっても大丈夫だろう。
 帰るべき場所がある。どこに行っても帰ってくる場所がちゃんとある。待っていてくれる人がいて、必ず自分を迎えてくれる。
 だから大丈夫だ。
 過去はもう重りにはなり得なかった。
「ありがとう。……ありがとう」
 近くで、遠くで、支えてくれていた沢山の人たち。それに今、やっと気付けた。
 だから自分は大丈夫。



 ハッシュアバイ、赤ちゃん
 ゆりかごゆれても
 大丈夫よ
 ママがそばにいるからね
 あっちへゆらゆら こっちへゆらゆら
 ハッシュアバイ、赤ちゃん



 アシュハルトへ戻る。
 そこに、今度は自分が支えるべき人がいるから。






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