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あかるいお星さま かがやくお星さま
今夜 はじめのお星さま
わたしのお願い 叶えてね
今夜のお願い 叶えてね
「Star Light, Star Bright」
「…………ん…」
大きく伸びをした少女の口から微かな声が漏れる。
目を覚ました彼女の視界にまっさきに飛び込んできたのは干草の山。起き上がって服についたそれらをはたきながら、リディスは一晩の寝床を貸してくれた馬たちに礼を言う。
厩舎から外へ出ると身を切るような寒さが彼女を襲った。雪こそまだ降ってはいないが、冷気はもう冬そのものだ。さすがのリディスもこの寒空の下で野宿する気にはなれず、かと言って宿に泊まっては足がつくし節約もかねて人気のない厩舎に入り込んだのである。
まだ陽は昇ってはおらず、紫に染まり始めた空には乳白色のもやが漂っていた。ここは広いバベル城の城下町、庶民が入り乱れる雑多な三の郭の中であった。
「これで家出、一日目」
ぼそりと少女が呟く。
アシュハルトへ戻ると決意した夜、旅の支度をして城を抜け出したのは次の日の未明。我ながらなかなか素早い行動だと思う。
だが一つ誤算だったのは、バベル城の警戒態勢が意外に厳しいことであった。
前に城を抜け出したときはアシュハルトの手引きがあった。あの有能な義兄が簡単に城郭を通れるよう手はずを整えていてくれたのだ。
それがいかに有難い事であったかは昨日一日で嫌と言うほど理解した。
外から入ってくる者を厳しく取り締まるのは当たり前だが、内から出る者にあそこまで厳しいとは思ってもいなかったのだ。リディスは中郭、一の郭、二の郭の三つの門を抜けるのに丸一日を費やした昨日を思い出す。
とにかく大変だったのは中郭の門。やむを得ず、ラキアの護衛役で外への使いを命じられたという作り話をするはめになった。自分がいなくなったことに気付いたラキアが足取りを掴むのは容易いだろう。探そうとすれば、の話だが。
寒さに凝り固まった体を一通りほぐしてやると、リディスは腰に剣を佩き、髪を一つに束ねると目深にかぶった帽子にまとめて入れた。銀の髪は目立つのだ。なるべく揉め事は避けて通らねば夕暮れの閉門までに三の郭の門へたどり着けない。
格好だけを見れば少年に見間違うほどだった。帽子に隠れて肩より長い髪は見えないし、羽織ったマントの下から覗くのは男がはくようなズボンだ。声さえ出さなければ少年そのもの。
これらの衣服を調達したのは三の郭に入ってからだった。貴族主体の二の郭までは逆に目立ってしまう。
今まで着てきた服と交換してくれと言ったら、質屋の主人は変なものでも見るような目つきをしていた。無理もない。彼女が着ていた服は王宮の制服なのだから。
リディスは最後にマントの埃を払うと。厩舎の戸を元通り閉めておく。錠を掛ける穴が開いているということは、たまたま昨晩は付け忘れたのか。なんにしろ運が良かった。
今日、三の郭を抜け、馬を借りて走らせれば七日でゆうゆうアシュハルトとの国境へつけるだろう。関所のことは後で考えるとして、今は取り合えず先へ進むことしか考えていなかった。
人通りが増えてきた街中をリディスは歩く。
一の郭、二の郭はともに貴族階級の邸が広がっていた。それは実に綺麗な眺めであったが、こういう雑多で活気あふれる場所の方がリディスには心地よかった。
軒を連ねる市場で簡単な朝食を手に入れると、そのまま大通りを人の流れに身を任せ進んでゆく。このまま真っ直ぐ行けば昼には三の郭の門へたどり着けるはずだ。
本当は人通りの少ない小道を急ぎたかったが、彼女はその十八年の人生で自分には無理なのを承知していた。彼女の方向音痴は筋金入りなのだ。
買った朝食は美味しかった。あつあつのパンの生地の中に焼いたばかりの肉が挟まっている。他にも色々入っていたが、料理に縁遠い彼女にはそれが何なのかよく分からなかった。
そろそろ露店も途切れるかというところに差し掛かったとき、前方に人だかりが見えてリディスは足を止めた。
「何かあるんですか?」
野次馬の端にいた男をつかまえて、リディスは訊ねる。男は疲れたため息を吐いて答えた。
「男の子が兵隊さんに絡まれてんのさ」
なんだか心が騒いで、人混みをかき分けたリディスの目に飛び込んできたのは一人の男の子と、彼を囲む二人の兵士だった。
「お前らなんか、何の役にも立ってないじゃないか!!」
幼い声にはやり場のない憤怒が滲んでいる。それは人だかりの中心にいた少年のもので、無謀としか言いようのない叫びに、集まった群衆がビクッとしたのが空気で分かった。
「言わせておけば……いくら子供でも言っていいことと悪いことがあるのが分からんか!!」
対する兵士もどうやら頭に血が上っているようだ。もう片方の兵士も少年に詰め寄る。
「うるさいな! お前らのせいでおれの父さんも母さんも死んだんだ! お前らは戦うばっかりじゃないかっ、病気のときも、食べるものがないときも、何にもしてくれなかったじゃないか!!」
少年はぼろぼろの布を巻いただけの格好で、腕も足も棒切れのように細かった。瞳だけが大きくギラギラと異様に光っていて思わず息を呑む。その目が、以前の自分に重なった。
兵士たちはもう我慢できないようだった。大衆の面前で罵られ、彼らとて黙っているわけにいかないのだろう。自制の糸が、切れる音がする。
「子供といえど……もう容赦できん」
すらりと男が剣を引き抜いたとき、リディスの足が勝手に前へ出た。
「待って下さい」
「……なんだお前は。こいつの保護者か」
突然の乱入者に面食らって、男の声が掠れてしまう。リディスは「いいえ」と小さく答えながら、少年を背にかばう。肌越しに、彼の体が極度の緊張に硬く強ばっているのが感じられた。
「少し、乱暴すぎるのではないですか? こんなこと、この国の宰相殿はお許しにならないと思います」
リディスは思ったままを冷静に述べたに過ぎないが、これは言い方が悪かった。もともと彼女はこういう場を収めるのに適した性格ではないのだ。この苦言は場を収めるどころか火に油を注ぐようなものだった。宰相の名を出されて、兵士たちもとうとう後に引けなくなってしまったのである。
「貴様のような小娘が宰相殿のことを語るなぞ……身の程を知れ!」
言いながらスッと剣の切っ先が伸びてくる。刺す気はなかったのだろうが、長年染み付いた習性がリディスの体を動かした。
なんなく避けて逆に兵士の背後に回った少女の右手が、反射的に剣柄に触れた。
――このまま峰打ちで叩き伏せてしまおうか。
なんだか面倒な展開になってしまった。相手の兵士は激昂している。もう穏便な解決など望めそうにない。
リディスの思考があくまで冷静に物騒な考えにいたった時だった。
「逃げるぞ」
耳元で聴こえるはずのない声が聴こえた。
と、次の瞬間ものすごい力で引っ張られ、輪を描いていた人の群れにぶつかる。驚いて身動きできない人々の間を押し分けながら、リディスはぼうっと目の前の背中を見た。
手はまだしっかりと繋がっていて、ぐいぐい彼女を引っ張ってゆく。背後で兵士たちのがなり声が聞こえた気がしたが、全ての音が急速に失われていくような妙な感覚がした。自分を引く手が触れる場所だけが現実で、あとのものは色を失くしていくような。
リディスはただ、前を走る背中だけを見つめていた。
どこをどう走ったのか全く分からず、気付いたら人気のない狭い路地裏に立っていた。
ぼんやりとした意識の中、ここまで自分を導いた人間が肩で息をしているのを見つめる。リディスの方はといえば全く呼吸は乱れていなかった。
紅い瞳に、振り返った人間の顔が映る。
黒い髪。日焼けしていない肌。そして……紫の澄んだ目。
しばし言葉を失ってから、リディスはごくりと唾を呑んだ。開いた口からは、なかなか音が出なかった。
「な……何でいるんですか!!」
「それはこっちが訊きたい!!」
今まで聞いたことがない青年の剣幕に、思わずリディスはたじろいだ。
怒鳴ったくらいでは腹立ちは収まらないらしく、彼はなおも言い募る。
「お前、俺がこの間言ったことちゃんと覚えてるか!? 俺は、『二度とこんな思いはしたくない』って言ったんだ!」
「え……あ、は、はい」
確かにあの大広間で再会したとき、そんなことを言われた気がする。それはリディスも覚えている。
「俺はお前の微妙な立場のことも話したな!? それなのになんで勝手に城を抜け出す!?」
「だ、だって……」
「だっても何もないだろう! なぜ一言俺に相談しないんだ!!」
それは、相談なんかしようものなら絶対に反対されると思ったからだ。だがこの状況で反論できるほどリディスは図太くなかった。小さくなってしまった少女を見て、ラキアはようやく口を閉じる。彼が乱れた呼吸を整えるあいだ、重い沈黙があたりを支配していた。
「覚えてるか? 俺は、『今度は逃がさない』と言ったんだ」
弾かれたように顔を上げたリディスの目に、小首を傾げ不敵に笑うラキアが映る。
――『今度は逃げませんよ』
過去にそう答えたのは自分だった。
「……ごめんなさい」
彼は約束を守ったのに、自分は舌の根も乾かぬうちに破ってしまったのだ。どうしようもなく申し訳ない気持ちに襲われて、リディスは俯いた。彼は追いかけてきてくれたと言うのに――……
――追いかけて?
「あの……」
恐ろしい事実に思い至る。
「あの、まさか……一人で来たわけじゃないですよね? ちゃんと、セラフィーさんとかが近くにいるんですよね?」
確認するように発せられたリディスの声には答えず、ラキアはふいっと顔を逸らした。
それが全ての答えだった。
「……ば、馬鹿宰相!!!」
「なっ……誰が馬鹿だ! さっきまでの神妙な態度はどこへ行った!!」
「馬鹿馬鹿馬鹿っ……なんてことしてるんですか! 信じられない!!」
非生産的な言い争いはしばらく続いた。二人が息を切らし始めたころにようやく一応の収まりはついたが、未だ双方睨み合ったまま目を逸らそうとはしなかった。
「ねえ、気はすんだわけ?」
第三者の声が聞こえたのはちょうどラキアが口を開きかけた時。二人が同時に声のした方を振り返る。そこにいたのは事の発端となった一人の少年であった。
ラキアが「あ」と声を漏らす。彼はとっさに引っ張ってきた少年の存在をすっかり忘れていたし、リディスに至ってはこの少年が一緒に走っていたことも気付いていなかった。
二人に同時に見つめられて、居心地悪そうに小さな少年は視線を落とす。
「痴話喧嘩がすんだなら、さっきの……『さいしょう』ってどういう事なのか、教えてくれると嬉しいんだけど?」
至極可愛くない声で、彼は言ったのだった。
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