交わることない月と炎
月が唄うは鎮魂歌 炎が奏でる鬨の声
互いに声上げ 手を伸ばせ
交わることは出来ずとも
寄り添うことは自由なり
「赤い月 紫の炎」
「この先まっすぐ行けば門にたどりつく。大通り通るよりゃ早くつくはずだよ」
そう言ってから少年は赤い実にかぶりついた。溢れた果汁が腕をつたって流れたが、彼は大して気にしてないようだった。
「ありがとう。助かった」
ラキアも同じように実をかじっていたが、こちらはどういうわけか全く汚れていない。何でもないことのように綺麗に食べている。その様を見せつけられると、リディスは少し惨めな気分になった。
もう実を食べ終わった彼女の手は甘い汁でべとべとになっていたから。一刻も早く手を洗ってしまいたかった。
「べつに、お礼言われるようなことじゃない」
少年はぼそぼそと呟いた。
ぐんぐん前を進む彼の表情は見えない。ラキアとリディスは互いに顔を見合わせた。
意地っ張りなこの小さな男の子の言葉の裏に、かすかな感謝の気持ちが混じっているのに気付いたからだ。リディスが忍び笑いをもらすと、ラキアも小さく笑った。
『「さいしょう」ってどういうことなのか、教えてくれると嬉しいんだけど?』
投げかけられた問いに、リディスはとっさにこう返した。
『彼の名前はサイショウと言うのだ』、と。
果たして少年がそれを鵜呑みに信じたかどうかは疑わしい限りだったが、とにかく彼は「そう」と呟いたきりしばらく何も言わなかった。
次に口を開いたときには何事もなかったように二人に話しかけたのである。それどころか、門へ行こうとする二人に大通りを通らない近道を案内してくれてさえいる。
短い会話を繰り返しながら三人は歩いた。
話すのは他愛もないことであり、その瞬間だけは、三人はただの人間で。交わす言葉にはなんの隔たりもありえなかった。
少年が導く道はお世辞にも綺麗とは言えない道で、人一人がやっと通れるくらいの狭い道などラキアにとってはほとんど初めてに近かった。
両脇にそびえるのはいかにも貧しそうな家々。頭上には所々汚れた洗濯物がぶら下がって日の光を遮った。崩れたまま修復もされていない家もある。
いくら内乱の痛手を補ったところで、それは結局のところ外見だけの話なのだ。
内側はこんなに痛ましい傷を残している。
少年が兵士たちに叫んだ言葉は真実だ。
少年たちのような者にとって、兵士たちは役立たずでしかない。戦があれば大事な稼ぎ手を兵士として奪われ、税を奪われ、それなのに壊れた建物を直すでもなし、食べ物を与えてくれるわけでもなし。
少年の言葉は真実だ。
ラキアにとっては身を切るような真実だった。
陽が中天に差し掛かろうというころ、ようやく彼らは三の郭の門の見える位置へ辿りついた。ラキアが一足先に馬を借りに行ったのを、リディスと少年は物陰で静かに待っていた。
「さっきの騒ぎが伝わってたら、あんたは門から出るのは難しいかもしれないよ」
幼い声がリディスに向けられる。
「そうですかね。帽子もかぶっていたし、そんなに印象に残るような性質でもないですから多分大丈夫ですよ」
リディスはのんびりと答える。
しかしその答えは少年の気に入るところではなかったらしい。わずかに眉を寄せて彼はリディスを上から下まで改めて見る。少女は居心地悪そうに身を硬くさせた。
「……あんた、もう少し自覚した方が良いよ。自分は目立つってこと」
視線を上げた少年がため息をつく。今度はリディスが異を唱える。
「髪さえ隠してれば目立つことはないですってば。あなたこそ気にしすぎです」
「髪、どんななのさ」
少年の眼差しに根負けして、リディスは辺りに人がいないことを確認してから帽子を取った。中からこぼれるようにして銀の髪が現れる。
「……すごい、触っても良い?」
とたんに大人びた仮面を脱ぎ捨てた少年がいた。リディスは少年の高さまで身を屈めてやる。恐る恐るといった手つきで彼は銀糸を撫ぜた。
「すごい。……売ったらどれくらいだろう」
「売らないでくださいね」
「売らないよ。今切ったら男みたいな髪になっちゃうよ」
長い髪だったら切られていたかも知れない。リディスは苦笑とともに帽子をかぶる。髪をまとめて無造作に帽子の中へ放り込んだ。
「もったいないな。綺麗なのに」
「でも目立つから」
「……目立っちゃいけないわけでも?」
少年の瞳に、ふっと鋭いものが混じる。リディスは小さく息を呑んだ。
「あれ、本当に『宰相』なんだろ? あんたの嘘は下手すぎる」
下手すぎてものが言えなかったんだ、と彼は続けた。
リディスは肯定も否定もできずにいた。何も言えないでいる彼女に少年は笑って見せた。初めて見る屈託のない笑いだった。
「あんたに免じて、騙されたまんまでいてやるよ」
「ありがとう……えっと、」
「ヴィエト、みんなヴィーって呼ぶ。あんたは?」
「私はリディス」
「じゃあな、リディス。あんたの連れが戻ってくる。サイショウがね」
意味ありげに笑って背を向けたヴィエトを、リディスは慌てて呼び止めた。
「また会える?」
「……サンティグス通りの裏路地」
「え?」
「そこが俺の根城。サンティグスのヴィーって言えばそこいらの奴が案内してくれるよ」
そう言うや否や、ヴィエトは身を翻してたちまち路地の向こうへ消えてしまう。
急に静かになった空間に取り残されたリディスの肩に、後ろから軽く手が置かれた。
「行くぞ」
至極短いラキアの言葉。いつからそこにいたのか、彼は二頭の馬の手綱を握っている。
――……二頭?
リディスの頭が一瞬遅れで事態を把握した。
「ま、まさか……あなたも一緒に行くつもりですか!?」
ギョッとなったリディスを無視してラキアは歩き出す。少女が彼の服のすそを掴んだ。ラキアが振り返る。
その顔には全てを振り切ってしまった者特有の笑顔が浮かんでいた。
「俺は俺のしたいようにする。それに、お前の身に何かあったら亡き陛下に申し訳がたたない」
「……そんな、だって……私は、違うかも知れないし……貴方の方がずっと――」
焦って言葉を紡ぐリディスに有無を言わさず手綱を握らせ、ラキアはさっさと門へと急ぐ。どうやら彼は開き直ってしまったようだった。もう自分には彼を止める力なんて残されていないのだ。
諦めに近い覚悟を決め、少女は青年の背中を追いかけた。
「………凄いな」
ラキアの感嘆の声を浴びてリディスは訳もなく慌てた。持っていた木の枝を目の前の焚き火にブスリと刺す。パチンと火の粉がはじけた。
「ずっとジルと山の中で暮らしてたんです。だから、こういうことは慣れてるんです。別に凄くも何ともないんです」
「いや、やっぱり俺から見れば凄い。正直七日分の食料にしては少ないと心配してたんだ。でも、これなら納得できる」
ラキアの目は炎にあぶられる小さな獣に釘付けだった。
これはリディスが捕ってきた獲物だ。彼女が獲物を探している間、彼は焚き火の番をしていた。ちなみに火をおこしたのもリディスであり、今夜野宿する場所を見つけたのも彼女だ。その点ラキアは全く役に立たなかったと言っていい。
宰相という肩書きの元、糧となる獲物を捕まえたり、火を起こしたりする機会に恵まれないのは当然だ。それは仕方ないと諦めて、次からは出来るよう彼はリディスの手元を注意深く観察していた。
「本当に、手際よくさばいたな」
「ずっとやってましたから。……最初は下手でしたよ? よくジルに注意されてました。食べられてくれるもの達に感謝して扱いなさい、って」
「……ジャラルダン殿は、どういう方だった?」
洞穴の中にラキアの低い声がこだます。
城壁を越えたあとは馬に乗ってひたすら駆けた。ラキアにとって馬は嫌な思い出しかない存在だったが、リディスは割り当てられた馬をよく可愛がっていた。
陽が沈むずっと前に適当な場所を探し出し、今こうして二人で火を囲んでいる。
例年ならもう雪が降っていてもおかしくない時期だ。流れる空気は無情な冷気をはらんで二人を襲う。ただ、火にかざしている手の平だけが熱かった。
「真面目な人」
ポツリとこぼす少女の声は燃え上がる炎に吸い込まれる。
「真面目で、礼儀正しくて、自分に厳しくて……優しい人」
リディスの双眸は焔をぬけて、ずっとずっと遠くへ向けられている。
「そしてすごくすごく強い人。……万の人を救うこと出来ずに苦しんで、人知れず涙を流す人」
そこでようやく、彼女の瞳はまっすぐラキアに据えられた。赤い瞳の中で炎がゆらゆら揺れている。深紅の瞳はさらにその深さを増して美しく輝いていた。
「貴方と似てる人」
その瞬間ラキアの全身にかすかな電流のようなものが走った。言葉は力を持っていた。まどろむような心地よい空間にいた思考が一気に冬の冷気に晒され、心は落ち着かなくざわついた。
「ヴィエトに私が名を聞いたとき、貴方はこう言おうと思ったんでしょう? 『その子一人救っても、その後ろにはまだ何百、何千のヴィエトがいて、冬を越せずに死んでいるんだ』って……。根本的に救えなくちゃ、意味がないって」
その通りだった。
少年を見送る彼女の後ろ姿を見て、リディスはいつか彼を探すだろうと思えた。彼を放ってはおけないだろうと思った。
でも彼一人に情けをかけたところで、同じように苦しんでいる者たちは大勢いるのだ。彼一人を救ったところで、事態は何も変わらない。
無言で肯定を示すラキアに、リディスは緩やかに微笑んだ。何もかも分かっていると、言外に含んだ微笑だった。
「それは、その通りで……貴方は、きっと、どんな時も、何百何千の人を救おうとするんでしょう。貴方にはそう出来る力と、意思があるから。でも……私は貴方とは違う」
パチンと火の粉が巻き上がる。
リディスは手元の枯れ枝を無造作につかんで炎にくべた。
「私には、何百何千の人を救うよりも……すぐ目の前にいる人を救うことの方が遥かに大切なんです。貴方の剣は国です。貴方の闘う場所は国であり、立ち向かう相手は人一人の手に負えない巨大なもの。私の剣は小さいけれど、目の前にいる人を救う役には立つはずです」
「そして君は、アシュハルトへ向かうんだ」
「そうです。アシュハルトに、救いたい人がいるから」
「君はその剣でもって、俺は宰相として。俺に出来ないことは君が、君が出来ないことは俺がやる」
明確な決意は誰にも動かしようがない。
リディスももう観念するしかなかった。だけど最後の抵抗として一言呟く。
「……だったら、後方に控えていてくださった方が遥かに力添えになったでしょうに」
バベルに残り、アシュハルトとの外交に力を注いでくれた方が、ずっと有益だったのではと言いたいのだろう。もっともな進言に、しかしラキアは一笑にふせた。
「これは俺のわがままだ。大丈夫、手は打ってあるさ」
開き直った彼に、もうかける言葉なんてない。
ならば自分が彼を守ればいいのだと決意して、リディスは静かに瞳を伏せた。
「あ、そうだ。忘れるところだった」
寝かけようとしたリディスの耳に、ラキアの声が届く。何事かと身を起こした彼女の前に、すっと何かが差し出される。よくよく見れば、それは見事な装飾の施された短刀であった。
「街で見かけた。綺麗だったから」
「………私に?」
「じゃなかったら渡さない」
ずいぶん遠まわしであるが、贈り物に相違ないはずで。リディスは慎重に短刀を手に取った。「綺麗」と感嘆のため息が漏れる。
「装飾品だからな。実際の切れ味は保証できないが……。本当は、どっちにしようか迷ったんだ。隣りに見事な指輪もあって……、だけどそれは、また今度にする」
「あ、ありがとう……ございます」
しどろもどろにリディスは呟く。彼女の顔は耳まで真っ赤になっていた。
不意に、ラキアの心に悪戯心が芽生えて口元に笑みが浮かぶ。
「いえいえ。お喜び頂けて何よりです。リディス様」
「あっ……だから、私は――」
「贈り物ついでに一つお願いがありまして。貴方が以前私を殴った夜に、私にしたことを、今もう一度しても構いませんか?」
「え………っ!? あ……あの」
その行為に思い至ったとたん、リディスの白い顔は極限まで赤く染まった。
対するラキアは憎らしいほど冷静だ。いや、楽しんでいる。
「いや、別に文句をいうわけではありませんが、次の日ずっと殴られた箇所が痛みまして……いえ、別に恨んでいるわけでは決してないんですけどね」
リディスの口からは断片的な音しか出ない。
ラキアはさらに何か言おうと口を開け、しかしリディスを見てそっと口をつぐんだ。
「何度逃げてもいい、俺は何度でも君を追いかけるから」
紫紺の瞳は澄んでいた。
もう、そこに過去の負い目は存在していない。
「何度でも追いかけて、何度でも言うよ。俺は君が――」
そっとラキアが身をかがめる。
リディスの真っ赤に染まった耳元で何か囁くと、そのまま静かに唇を重ねた。
炎が揺れる。
漆黒の空には月が浮かんで、優しく彼らを照らしていた。