律儀にも、彼は全ての書類を処理し終わってからここを離れたらしい。
 綺麗に片付けられた台の上に、申し訳程度の薄い紙が、重しを乗せられ揺れていた。

『あとは任せた。宰相代理殿』

 続く文章などしばらくは読む気にもなれず、セラフィーは主のいない執務室で軽く舌打ちした。


「King in throne」


「……もう一度言ってみろ」

 いつもは無感情な主の声が、滲み出る怒気に震えている。
 気の毒な侍従はやっとの思いで再び口を開いた。
「バベル城から対象者が出奔したのは明らかでございます。また、宰相の姿もその日を境にして見られなくなりました。考えにくいことですが、宰相が対象者に同行した可能性は捨て切れません」
 哀れな侍従は今や全身で恐怖を感じていた。押し潰されるような強い恐怖だ。
 体中を締め付ける圧迫感は全て、目の前の青年から発せられるもので。ほとばしる怒りに心臓が震え、床についた手が嫌な汗をかいた。
 下がれ、という救いの命令はそれからすぐ出され、侍従は弾かれるようにしてその場を立ち去った。

 王の間。荘厳なだけのだだっ広い大広間に、アゼルは一人残される。
 高窓から差し込む淡い光が彼を包んでいた。それを避けるように、彼は玉座へ歩み寄る。いくつもの段の上にある玉座は王その人しか座れない。ここに座す者は並びない至高の存在であると同時に、並びない孤独な存在だった。
 ひやりと冷たいそれに、そっと手を触れる。

「なぜだ……」

 言葉は何の力も持っていなかった。
 疲れきったため息に混じるその言葉は、威厳に満ちた王のものでは有り得なかった。ただの一人の、心色あせた青年のものでしかなかった。
「全ては上手く……収まるべきものが、収まるべき場所に、やっと収まったというのに……。なぜ、お前は、自らそこを飛び出した?」
 半ば崩れるようにしてアゼルは玉座に腰を下ろした。
 黒い髪がほつれ、額にかかる。伏せられた瞼の奥で、琥珀の瞳は以前の輝きの一切を失っていた。
「リディス、お前は一体どこへ行こうとしてる……」
 呟いた直後、彼にはそれが意味のない問いであることを自覚した。
 彼女に帰る場所などどこにもない。
 幼少のころ過ごした家は、今やただの廃屋同然であり。次に落ち着いた山中の小屋に、彼女の帰りを待つ者はもういない。
 彼女に帰る場所などどこにもない。
 このアシュハルトとバベルを除いて。
 バベル城から抜け出したのなら、彼女が向かう場所などもう知れている。

「あれだけ手を尽くして、この毒蛇の巣から逃がしてやったのに、愚かなお前は自分からここへ戻ってこようとしている」

 嘲りを含んだ声の裏には、隠しきれない焦りがあった。
 ここにきて初めて、アゼルは本気で焦っていた。
 今、急な代替わりを経たアシュハルトは文字通り火の車であった。人員は不足し、しかしすべき事は山のようにあった。アゼルには寝る間もなかった。
 もともと色んな物事が、ケゼフの心が病み始めたころから滞っていたのだ。遡ってそれらの処理をすると同時に、バベルとの和解、他国との信用回復、国内の治水、貴族間のわだかまりの解消、数え切れないほどの責務がアゼル達にはのしかかっていた。
 決定的に彼には時間がなかった。
 リディスのために割いてやるだけの時間が。
「………くそっ!」
 その口から悪態が漏れるところなど誰も見たことがなかった。だが、今彼は軽い舌打ちとともに煌びやかな玉座を蹴っていた。いくら蹴っても足りないくらいだった。

「…………ア…ゼル?」

 聞こえた呼びかけに、青年は珍しく目を見開いた。
 振り返れば遥か下に麦穂のような金髪がある。その金髪の下で、少年の瞳も驚いているのが手に取るように分かった。アゼルは考えられない程の速さで自らを取り繕うと、何事もなかったかのように少年に向き直った。
 少年の方もそ知らぬ振りで口を開く。
「話したいことがあったんだ。忙しいことはよく分かっていたんだけれど………アゼル、何があった?」
 ギルヴィアは先ほどの光景を無視しないことに決めたらしかった。鋭く見上げてくる栗色の瞳には、一歩も引かぬ気概があって。今のアゼルには抵抗するだけの気迫も気力も見当たらず、押されるままにしてゆっくりと話し始めた。
「リディスが、こっちへ向かってる」
「……え」
 それきり彼は口をつぐんだ。たった一言だったけれど、それはギルヴィアには充分すぎる一言だった。

 アゼルは、ギルヴィアが自分のことを「アゼル」と呼ぶわけをちゃんと知っていた。決して、二人きりの時に「兄」と呼ばない理由を知っていたつもりだった。それは自分達の間に明確な線引きをするためだと思っていた。本物の兄弟ではないのだと確認するためだと思っていた。彼の母親を狂わせる原因となった自分への、罰だと思っていた。

「アゼル、君は……君には、僕と姉さんがいるんだってことを覚えておいて欲しい。使えるものは使うべきだ。例えそれが、王族でも。だって僕らは兄弟なんだから。頼るべき時は、頼るべきだ」

 アゼルは初めて出会ったのだというようにギルヴィアを見つめていた。
 その視線を真正面から受け止めて、ギルヴィアはおもむろに玉座への階段を上り始める。臣下が見れば咎める行為だ。だが少年は全く怯む様子もなく上りつめると、背の高いアゼルを見上げ、言った。

「言って、アゼル。応える用意は、とうに出来ている」

 こんなに間近に少年の声を聴いたのは久しぶりだった。いや、初めてかもしれない。
 緩く波打つ金髪、栗色の瞳。アリシアとギルヴィアは良く似ている。
 真っ直ぐ伸びた黒い髪、琥珀の瞳。アゼルが譲り受けたのは、ケゼフの獣のように底冷えするその瞳だけだ。
 優しい光を浴びる資格のある者とない者。傍にいるとそれを思い知らされるはずだった。
 しかし、今、ギルヴィアは確かにアゼルの前に立ち、手を伸ばしている。

「俺は……」

 アゼルは掠れる声で言う。

「俺には、時間がない。リディスがこちらへ向かってる。もしかしたら、向こうの宰相も同行しているかも知れない。俺には、時間がない。……あいつを、頼む」

 とたん、ギルヴィアが満面の笑みを浮かべた。心底嬉しそうに笑う彼の顔など、アゼルはとうの昔に忘れてしまっていた。それくらい、久しぶりに見たのだ。

「やっと僕を頼ったね、アゼル」

 何と答えていいか分からずにいるアゼルの耳に、美しく澄んだ女の声が聴こえてきた。

「ならば私が、バベルへ参る使者になりましょう」

 アリシアが、極上の笑みを浮かべ王の間に立っていた。
 驚いた様子のアゼルを見とめて、彼女は一層笑みを深くしたが、傍らに立つギルヴィアに向き直ると口を尖らせる。
「ずるいわ、ギル。さっさと一人で話を進めるなんて! アゼルの驚いた顔を、私より先に見るなんて!」
「悪かったよ。だって姉さんがどこかへ行っちゃうから……。アゼルの貴重な休憩時間だっていうのにさ。あ、ごめんアゼル、そうそう貴重な休憩時間だったんだ。リディスのことは任せといて、ちゃんと無事に連れてくる。それから、バベルへの使者に姉さんは適役だよ」
「ギル? わざわざ進言しなくとも、私が適役だということは私が一番知ってます」
 はいはい、とおざなりな返事と共に段を下り始めた少年を、アゼルは小声で呼び止めた。
 振り返ったギルヴィアの瞳に、事態についていけてない様子の青年の顔が映って、思わず少年は噴き出した。笑われたアゼルの顔が不機嫌に曇る。それさえも、今は愛おしくてたまらなかった。
「僕らは、最初から君の敵に回ったつもりはないんだよ、アゼル」
 にっこり笑うと、少年は足早にアリシアの元へと下りてしまう。広間を出る前に、アリシアが思い出したようにアゼルを振り返った。
「そうそう、貴方が牢に閉じ込めたあの文句の多い使えなさそうな三等兵ですけどね。私達、脱獄させてしまいましたけど、多めに見てくれるわね、アゼル?」
 答えを待つまでもなくアリシアは部屋を後にする。変わらず強引な彼女に苦笑を残して、ギルヴィアも退出していった。
 再び取り残された青年の足元に、位置を変えた太陽からの光が差し込んでくる。ゆっくりと玉座を照らすその淡い白い光が、大広間に充満してゆく。
 嵐のように訪れて、嵐のように去っていった二人。
 思い出して、青年の口元に淡い微笑が広がる。
 そうしてみると、ずいぶん長い間笑っていなかった事実に気がつく。顔の筋肉がどうやら凝り固まっているようだった。

 ふと、さっき言い忘れたことに気付いて彼は笑みを消し去った。

『ケゼフには絶対に知られるな』

 その伝言をギルヴィアに伝えようと、彼は外に控えているはずの侍従を呼んだ。

 さっき怖がらせたことも一緒に詫びておこう。そう考えて、彼は玉座に座りなおした。
 光は、もう足元にまで広がっていた。






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