「ヒーローは遅れて登場する」


 冬の匂いが全身にまとわりついていた。
 馬を走らせ予定通り七日で、二人はバベルとアシュハルトの国境に辿りつきほっと胸を撫で下ろす。途中さしたる問題も起こらなかった道中は二人にとって楽しいことこの上なかった。
 しかし順調に事が運んだのも今日までだ。
 国境にはバベルからの流入者を拒む警備が敷かれているだろうし、例え上手くそこを通過できたとしても問題は山積みなのだ。

 どうしたものかと眉を寄せたラキアの背後で、カサッと枯れ草を踏みしだく音が聞こえる。とっさに身構えた彼の目に、鮮やかな銀髪が映った。
「予想はしてましたけど、やっぱり駄目ですね。厳重すぎて進入を試してみる気にさえなれません」
 国境の様子を見てきたリディスが枝を踏み分けラキアの傍に寄った。少女は困ったようにため息を吐いてみせるが、本当に落ち込んではいる訳ではなさそうであった。その証拠に彼女は置いてあった荷物を手に取る。すぐにでも移動を始めるつもりのようだ。
「どうする?」
「イーサ山脈を突っ切りましょう。私なら行けます」
 ラキアの問いに間髪いれずに少女は答えた。その言葉には自信がみなぎっている。彼女が可能と言うなら誇張などなく本当に可能なのだろう。頷いて彼もすぐ身支度を始めた。
 馬はすでに返してしまっている。
 バベル帝国の一番外れの村で馬達を返すとき、再びここを訪れることが出来るだろうかとふと考えてしまった。ここまで来て臆したか、と自らの心に問うてみたが答えは曖昧で形にはならない。
 不安かと問われれば不思議にも根拠のない自信が溢れていて、隣りにこの少女がいる限りどんな問題も踏み越えていける気がしていた。
 荷物を背負い支度を終えたラキアが、不意に視線を感じて顔を上げる。紫紺と深紅の視線が一瞬絡み合い、またすぐ解けた。
「本当に、良いんですか?」
 リディスが低く呟く。
 息を潜めた冬の森が、ざわりと揺れる。
「何もかも、取り返しがつかなくなるかも知れないんですよ? 貴方にはまだやるべき事が残ってるのに」
「やるべき事の一つに、これも含まれるんだ。それに、俺一人いなくなって崩れるようなやわな国じゃあない」
 答えはあまりに真っ直ぐで、発した本人さえも束の間呆然とさせる。よくもこれだけ大それた台詞がすらすらと出て来たものだった。
 縫い止められたかのように動かないラキアの先で、リディスの口元にふっと笑みが浮かぶ。それは一瞬で消えてしまったが、とても優しく穏やかなものだった。
「行きましょう。今日は日暮れまで歩かなくてはなりません」
 かける言葉を手探りで探す暇もなく、ラキアは足を踏み出した。
 陽は頭上の森に遮られ、昼前だというのに足元は薄暗い。荷物を背負うという行為自体初めてに近いラキアは、先を行くリディスの銀髪 を追うことだけを考えて歩いてゆく。
 長い一日になりそうだった。




 足が地面に引っ張られているようだった。
 「鉛のように重い」、とは正にこの事なのだと、ラキアはようやく実感する。忙しさにかまけて運動を怠っていたツケが一気に振りかかっているのだ。
 だけど弱音を吐くことなんて出来っこなかった。前を進む少女がいる限り、自分から休憩を提案するなどなけなしのプライドが許さなかった。

 上げかけたつま先が這い回る木の根に突っかかった時だった。
 規則正しく運んでいた足を不意に止め、少女は軽く首を傾げる。そのまま鋭い視線で辺りを見回すと、じっと耳を澄ませてラキアの疑問を手で制す。
「出て来い」
 鋭い声が飛んだ。
 聞いたことのない少女の声。
 勢いよく振り返った先にあったのは、リディスの赤い双眸。彼女の手がそっと腰の剣柄に触れて微かな音を立てる。
 枯れ草を踏み割る音がラキアの鼓膜を揺らす。

 灌木の裏から現れたのは一人や二人ではなかった。
 ずっと前から狙われていたのだろう、数人の男達が慣れた様子でラキアとリディスを取り囲む。ちらりと少女を見やれば、表情こそ険しいがそこに焦りや動揺は見受けられない。
 ラキアは護身用に身につけた剣を意識する。技量はお世辞にもあると言えないが、一通り剣の指南は受けた身である。いざとなれば自分の身は自分で守ると覚悟を決めて、今は目の前の少女の判断に任せることにした。

 視界の端で、男が一人足を踏み出すのが見えた。と、ほとんど同時にリディスが剣を抜く。抜きざまに一番近くにいた男を剣の平で叩き上げる。男は何も分からぬまま地面に崩れ落ちた。
「ちょっと待て! お前はどうしてすぐ実力行使なんだ!!」
 ラキアの脳裏にバベル城下での出来事がよぎる。あの時も、自分が止めに入らなければ剣を抜いていたはずだ。
 見た目よりもずっと短絡的なリディスの行動を実感した気がして、ラキアは自分の判断を早くも後悔していた。
 あまりの早業に怯んだ男たちの隙をついて、リディスはもう三人を地に伏せている。立ち直った一人がラキアに剣を構えたのを見て取って、リディスが振り返った。
 踏み出そうとした彼女の足を、ラキアは剣を抜くことで制す。
「自分の身ぐらい自分で守るから、お前はもう自由に動いててくれ」
 半ば諦めとともに吐き出す。もう起こってしまったことなら仕方がない。彼らが何者であろうとも、とにかくこちらが圧倒的優位に立ってから話を始めれば済むことだ。
 腑に落ちない様子で青年を見ていたリディスも、向かってくる男を捉えて応戦する。
 ラキアも剣を構えると相手の出方をうかがった。背中ではリディスが剣を交えているのが気配で分かる。
「先に手を出しておいて言うのも申し訳ないが……君たちは一体何者だ?」
 相手の隙をついてラキアが問う。男はにやりと口元を歪めた。
「山賊だ。お前達も訳ありで関所を通れないんだろうが。有り金置いてけば通してやる……つもりだったが気が変わった」
 やはり穏便に事が済む相手ではなかったようだ。結果的にリディスの行為は正解だが、果たして彼女がこれを予想していたのかどうか……。
「お前ら殺して金を奪った方が手っ取り早い!」
 ため息をついていたラキアの手が反射的に持ち上がる。握った剣が相手の剣を受け止めた。
 力任せに弾き返して体勢を整えようとした彼に別の男が襲いかかる。
 とっさに避けたが間髪入れず振り下ろされる剣をそう何度もかわし続ける力量はラキアにはない。逃げ遅れた左手に剣が伸びる。
 利き手でないだけまだましか、などと冷静に考えるラキアの視界にリディスの銀髪がやけに鮮やかに映る。帽子が脱げてこぼれ落ちた髪が風になびいている。目前に迫った刃に思わずギュッと目をつぶる。

 だがいくら待っても左腕に激痛はなかった。
 人間あまりに痛いと感覚がなくなるというのは本当か、と考えたラキアの耳に、不機嫌な少年の声が響いた。

「これで貸し借りなしだぜ」

 目を開ければ茶色い後頭部がそこにあって。状況を理解するより先に派手な金属音が鼓膜を揺らした。
 くるくると弧を描きながら地面に突き刺さったのは山賊の男の剣。弾き返したのは――

「ニールさん!!」

 リディスが駆け寄る。ニールは止めとばかりに男の側頭部を剣の平で殴り倒す。一瞬戸惑ったところを見るに、彼もどうやら人を殺すことには慣れてないらしい。
「ニールさんニールさんニールさん!」
「三回も言わなくっても分かってるよ!」
 リディスは嬉しそうに少年のそばに立つと、その手を強く握った。とたん、少年の顔が真っ赤に染まる。湯気が出ないのがおかしいくらいだった。
「無事だったんですね?」
「まあ……なんと言うか、無事っちゃあ無事だな」
 歯切れ悪く彼が答える。もう山賊たちはみな地に伏していた。微かなうめき声が聞こえている。
 ラキアは剣を鞘に戻すと二人の間に割って入った。呆れるほど分かりやすい感情に自分でも驚いていた。
「ニール……ランディットだったか? 危ないところをありがとう。行くぞ、まだ仲間がいるかも知れない」
「あ、大丈夫ですよ。さっき聞いたら仲間はここにいるだけだって」
 いつの間に訊ねたのか、リディスが自然に言い放つ。少年の無事な姿に隠しきれない笑顔が顔に浮かんでいた。
「いや、さっさとここは離れよう。それから服も着替えてもらうからな」
 ニールは毅然とした表情で二人に向き直った。すぐにラキア一人に視線を合わせると慇懃無礼に礼をする。

「ようこそアシュハルトへ、バベル帝国宰相殿。俺はニール・ランディット第三師団三等兵。ギルヴィア王子の密使としてお二人をお迎えにあがりました」

 ニール・ランディットの口上は完璧だった。
 彼はご丁寧にも、最後にラキアを睨むことも忘れなかったのである。






←「King in throne」  TOP↑  「Junction in the sun and the dark」→