届かぬ太陽に手を伸ばす。
 触れれば灼熱の炎に焼かれると知りながら。
 見れば両の目を焼かれると知りながら。

 届かぬ太陽に手を伸ばす。
 交わることは出来ぬと知りながら。
 この身を焦がす、想いを静かに抱えたまま。


「Junction in the sun and the dark」


 ニール・ランディットは実に的確な道案内者だった。
 彼は手際よくラキアとリディスを変装させると、山道を迷うことなく先導した。

「一人で来たんですか?」
 アシュハルト城の侍女姿に黒い上着を羽織ったリディスが、前を歩むニールに声をかける。
 ギルヴィアの使いだと名乗ったから、てっきり背後には何人も控えているのだと思っていたが、どうやら彼は一人でこの道を来たらしい。もっともな少女の問いに、ニールは振り向くことなく答える。
「王子があまり他の人に知られたくないと仰ったんだ。お前だったら必ずこの道を通ってくるだろうと言われて、俺が使わされた」
「そうですか……」
 道と言っても獣道に近いしろもので、間違っても王族に縁のある者が使う道ではない。リディスがこの山道を歩いたのは五年も前のことだ。あの時彼女を導いてくれたのは、冷たい目をした寡黙な青年だった。
 この広大な山の中でニールに遭遇した。その時感じた疑問が、いま確信に変わる。
「この道を、ギルが知ってるはずない。だから……、絶対に義兄上が絡んでるはずなんです」
「……罠だと思うのか?」
「違いますっ」
 ラキアの問いを、少女は間髪入れずに跳ね除けた。彼女には否と言えるだけの絶対の確信があった。
 アゼルが、自分を不利な立場に陥れようとするはずがない。根拠もなくそう信じられるだけの絆を感じていた。でも、とリディスの心が不安に揺れる。
 自分はともかく、ラキアのことはどうなのか。アゼルがラキアのことを良く思っていないのが気がかりだった。今ならまだ彼を追い返すことは可能だ。ギルヴィアの使いとしてやって来たニールを信用しないわけではないが、アゼルの存在が気になって仕方ない。
「大丈夫だ」
「え?」
「大丈夫だよ」
 不安など全部見通しているかのような口調で、ラキアはそっと言う。反論しようとしたリディスを制して、
「それよりも、この服の方がさし当たって重大な問題だ」
 至って真面目な表情で青年は言い放った。不満は明らかに前のニールに向かっていて、ニールはニールで知らない振りをして先を急ぐ。
 リディスは改めてラキアの服装を見つめた。今までからは想像できないような粗末な……服とも呼べないような布に身を包んだ彼は異様だった。格好が粗末なわりに表情は毅然としていて返って目立つ。
「ニール・ランディット、君は俺に何か恨みでもあるんだろうか」
 ラキアは横を歩くリディスを見やった。彼女に用意されたのが侍女の服なら、自分は侍従でしかるべきではないのか。
 そんな彼の不満もそ知らぬふりでニールは傲然と答えた。
「アシュハルトでも貴方の顔を見知っている者がいるでしょうからね、山を下りる前にその顔も汚してもらいますよ。貴方は俺に捕まった犯罪者って役どころです。……いや俺としても物凄く心苦しいのですが、何卒ご容赦下さい」
「全く心がこもってなくて、いっそのこと気持ち良いくらいだ、ニール・ランディット」
 憮然と言い返すラキアの様子がどうにもおかしくて、リディスは堪えきれず笑い出した。
 青年の恨めしそうな視線さえ、今の彼女にとっては笑いのツボで。
 疎になり始めた木々の間から人工の道が垣間見えるようになるまで、少女の楽しそうな笑い声が途切れることはなかった。





 話をつけてくると言い残して去ったニールを、ラキアとリディスはまばらになった林の影で待っていた。もう少し先に行けば城下町へと続く街道があって、時おり人や馬車が通る音が山林にまで響いてくる。
 じっと耳を澄ましているリディスの横で、あからさまに嫌な顔をしたラキアが地面の土と睨み合っていた。ちらりと見やった少女が小さく笑みをこぼす。
「仕方ないですよ。確かに貴方の顔を知っている者に遭う可能性はあります。落ち着いたら洗ってしまえば良いんです」
「分かってる」
 憮然と言い返す青年の様子は日常生活においてあまりないもので、嫌がると分かっていながらリディスの目は彼から離れられなかった。視線を察したのかラキアが緩慢な動きで顔を上げた。
「その必要性は嫌と言うほど分かってるし、誰に言われずともそうしようとは思っていた」
「じゃあ……」
「でもあいつに従ったようで何だか癪なんだ」
 浮かんだ表情が「帝国の宰相」からはかけ離れたものであったので、リディスはとうとう声に出して笑ってしまった。

 和やかな時間は長続きしない。
 遠くに聞こえた馬車のひづめの音が、二人の時間に終わりを告げた。




「どうぞ、こちらでしばらくお待ち下さい」
 女は俯いたまま静かに言うと、くるりと背を向け廊下の先の曲がり角で姿を消した。
 残された二人は顔を見合わせ、示された扉の取っ手に手を伸ばす。予想より軽く、扉は彼らを招き入れた。
「あっ、ほらラキア様」
 リディスが指さすテーブルの上には、水の揺れる大きな容器と柔らかそうな布が揃えて置いてあった。ラキアが近づけば、ここに来る道中で自ら汚した黒い顔が水面に映って歪む。
「さすが、用意は万端か……」
 呟いた言葉はリディスの耳に届くことなく、彼の顔を洗う音にかき消される。
「さすがヴォルタ様のお屋敷ですね。細かいところまでよく気配りされてます」
 リディスがどこか夢のような口調で言った。
 迎えに来た馬車の中で、ここがヴォルタ・シューリングス所有の屋敷であることは既に知らされてある。リディスはその名を聞いただけで途端に安心してしまったようだった。ラキアとてアシュハルト随一の有力者である彼の名は知らないわけではないが、その人となりは正直よく分からない。
 リディスが警戒を解いてしまったことが、逆に彼の不安を高めさせた。
 ニールは彼を使わせたギルヴィア王子に連絡するため二人の傍を離れている。彼らは屋敷の主、ヴォルタ・シューリングスに呼び出されるまでこの場で待っていなくてはならないのだ。
 リディスのように信頼しきれないラキアにとって、ここはいわば敵陣の真っ只中であった。覚悟はしていたが、それでも緊張が薄らぐことはない。
「ラキア様、服も用意してくださってますよ。私、外に出てますからどうぞ着替えてください」
 水のつたう顔を布に押し付けていた青年の耳に、少女の溌剌とした声が届く。ラキアが顔を上げた時にはもう、彼女は扉の取っ手に手をかけて廊下に出ようとしているところだった。
 外へ向かったリディスの足は結局一歩も踏み出せなかった。
 ほとんど同時に内側へ開いた扉が、無防備な彼女の額にぶつかって派手な音を立てる。
 ついこの間見た覚えのある光景だ。ラキアがどこか遠いところで考えた。

「……何をしている」

 ぼんやりしていた思考はその一言ではっきりと覚醒した。
 俯いて額を押さえていたリディスもバッと顔を上げる。
 そこにあったのは相変わらずの琥珀の瞳だったが、一瞬呆気に取られたかのような空白が妙に人間らしくて。それがラキアの警戒をわずかに揺るがせた。
「………義兄上」
 リディスは呆然と呟いたが、次の瞬間緊張に身を硬くさせた。
 片やその原因であるアゼル・アシュハルトはちっとも気にせずに、ただじっと少女を見ている。しばらくしてから彼は口を開いた。
「その格好は一体どうした」
 リディスは今初めて気が付いたかのように自分の服装を見下ろした。屋敷の侍女姿は自分に全く似合わない気がして、慌ててひらひらとしたスカートのはしを握り締める。
「あっ、これはニールさんが用意してくれた変装用ので……、ラキア様も――」
「そいつのことはどうでも良い」
 ぴしゃりと放たれた言葉にリディスは身をすくませた。一方ラキアの方はと言えば、むしろなんとも思われていない事実がいっそ気持ち良いくらいで。かつてこれほど正直な言葉をアゼルという青年から聞いたこともなく、返って気が楽になったようだった。
「それはご挨拶ですね、アゼル様」
 嫌味なほどの笑顔を貼り付けながら放ったラキアの言葉に眉一つ動かしただけで答え、アゼルは再びリディスへと視線を戻す。

「なぜ戻って来た」
「え………」
「なぜ戻って来たんだ」
「なぜって……ここで、私がすべきことが残っていたからです」

 少女はきっぱりと言い放つ。
 言葉は力となって部屋に充満した。それに押されるようにしてアゼルは重たそうな口を開いた。
「お前は戻って来る必要なんてなかったんだ。ここではもう全てに決着がついた。ケゼフはもうとうの昔に狂っていたんだ。お前に出来ることなんて何もない。する必要もない」
 拒絶の言葉は、しかし以前ほどの力は有してなかった。どこか頼りないいびつな冷たい言葉は、少女を諦めさせるには力足りなかった。
「必要があるかないかは、私が決めるんです。それに、私は、ケゼフ王にももちろんそうですが……アゼル様、あなたに会いに来たんです」
 リディスはありったけの勇気を振り絞って立っているようだった。彼女の手はきつく握られ、その拳はわずかに震えている。
 それでも今、ラキアは傍へ行って手を取ってやることは出来かねた。それをするわけにはいかなかった。
 だからせめて、同じ空間で張りつめた均衡を保つ少女をじっと見守る。暖炉には薪がくべられ、火は赤々と燃えていたが、部屋はピリピリと冷たい空気をはらんでいた。
「貴方は一体どこまでご存知だったんですか?」
「どこまでとは?」
「……私が、もしかしたら、バベルの王族かも知れないと知ってて、引き取ったんですか?」
 リディスの言葉は時おり酷く震えていた。均衡が崩れる一瞬前の細い糸のような危うさが、部屋の空気を不穏に揺らしていた。
 アゼルはたっぷり間を置いてから答えた。
「知っていたさ」
 時間をかけた割には驚くほど簡潔に、いとも簡単に答えは与えられたように思えた。だがラキアの瞳には琥珀の瞳の青年もまた、目の前の少女と同じくらいの傷を自らに負わせている風に映った。
 少女の紅い瞳が必死に続く言葉を探している。
 青年は見事としか言いようのない無表情でその続きを待っている。
「私、多分、もうアシュハルトには……戻りません。リディス・アシュハルトとしては、生きていけません。義兄上のことも、もう、義兄上とは呼べません」
「……お前がもうアシュハルトに戻らなくとも、二度と俺たちが会うことがなくとも………」
 青年は一度言葉を切ると、細く長く息を吐いた。
「お前が何者になろうとも、リディス、お前が俺の妹であることに変わりはない」
「でも……」
 リディスの反論をアゼルは目だけで遮った。
「俺とお前は、同じ女の腹から生まれたんだ」
 少女は何を言われたか正しく把握できないようで。
 ラキアとて一体どういう意味が今の言葉に含まれているのか瞬時に判断できなくて。
 アゼル・アシュハルトはもう一度、今度はラキア・バシリスクを見据えながら言った。

「俺は、ディアナ・ル・リヴェイラと、ケゼフ・アシュハルトの間に生まれたんだ」

 そう言って青年は、再び長く長くため息をついた。
 何もかも吐き出すように。
 体中に溜まった毒が、そうすれば全て吐き出されるとでも言うように。
 しかし、彼が隠していた毒はそれくらいでは消え去りそうもなかった。






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