「不穏な報せ」
何か言うべき言葉があるはずだとでもいうように、少女は薄く口を開いてはまた閉じる。
アゼルは一度そんな彼女の様子を見てから、再び視線をラキアへと戻した。
「この事はお前も知らないか、ラキア・バシリスク」
「知っているわけが……ないだろう」
思わず敬語を忘れたラキアの言葉が、彼の喉をさらに乾かせる。この状況でどんな言葉を使おうとも、それはしらじらしく、また無意味に思えた。それくらいこの事実は予想の範疇外のことであった。
アゼルは二人の言葉を待つことはしなかった。かき上げた黒い髪は、確かにラキアの記憶に残るディアナと同じ、何よりも濃い黒だ。
「あの三人、ケゼフとウォルスとディアナの確執は思っているよりずっと深い。今言ったことからも想像がつくだろう? 今さら俺達がどうこうできる問題じゃないんだ。引き返せ、リディス。バベルでなら、お前が幸せになる可能性が残されているだろう?」
そう言ってアゼルの琥珀の瞳が意味ありげにラキアを捉える。それが意味するところを察して、ラキアもまた青年を静かに見返した。
「いやです」
唐突に、いやにはっきりとした少女の声が落とされる。
静かに放たれた言葉だったが、その意思が揺らぐことなど有り得ないと容易に想像できる一言だった。だからアゼルは反論しかけた口をつぐむ。無意味な論争をしている暇は残されていない。
「……これ以上状況が混乱する前に、ケゼフは部屋に閉じ込めてある。話が出来るよう状況を整える。少しここで待っていろ」
必要なことだけ簡単に言い残して、アゼルは部屋を後にした。
残された二人の間に重い重い沈黙が横たわっている。
それを破ったのは新たに扉を開けた人物。眩しいほどの金色の髪と、それによく合う茶色い瞳は、ラキアも見覚えのあるものだった。
少年は開けた扉の前にいた少女に満面の笑みを浮かべて呼びかける。しかしラキアに気付くと、一瞬で少年らしさを捨て真面目な面持ちで丁寧な礼をした。
「失礼しました、ラキア・バシリスク殿。不自由な思いをさせてしまい申し訳ありません。只今こちらの屋敷の主、ヴォルタ・シューリングスが参りますので今しばらくお待ち下さい。服はそちらに用意してございますので、どうぞお着替え下さい……あ、申し遅れました、私はギルヴィア・アシュハルトと申します」
さらさらと流れるように言葉を並べると、少年はごく自然にリディスの手を取って、
「では、こちらの方は別の部屋でお待ちいただきます」
「お、お待ち下さい。……リディス、」
大丈夫か、と続けようとした彼の言葉は、リディスの笑顔に遮られた。彼女は安心させるように小首を傾げて言う。動きにつられて服の裾がふわりと揺れる。侍女の衣装に身を包んでいながら、彼女の雰囲気がただの侍女ではないと言っていた。
「大丈夫です、ラキア様。ギルは私の義弟ですから、彼は全部知っているんです。心配要りません」
「そうか、なら……また後で。ギルヴィア様、こちらこそ失礼いたしました。数々の御心づくし感謝いたします。どうぞ彼女をよろしくお願いいたします」
「かしこまりました」
にっこりと魅力的な笑みを残して、リディスとギルヴィアは扉の向こうへ消える。
一度に降りかかってきた色んな出来事が、ラキアの脳の回転を鈍らせていた。それでも部屋にはすぐヴォルタ・シューリングスがやって来るだろうし、その時にぼろぼろの服で出迎えるわけにはいかないのも承知していた。
だから重たい手を気だるい動作で動かし服を着替える。
仕上げに袖の留め金をしめたところで、控えめな扉を叩く音が聞こえた。
「どうぞ」と答えた一拍後に扉は静かに開けられる。現れたのは白髪の老人で、臆することなく自分を見つめてくるその瞳が、彼こそがアシュハルトの総務大臣ヴォルタ・シューリングスであると主張していた。
「初めまして、私が屋敷の主、ヴォルタ・シューリングスにございます」
「わざわざお越し頂きまして有難く存じます、ラキア・バシリスクです。このたびは急なことにも関わらず、格別のご配慮痛み入ります」
「いえ、こちらこそこのような場所にて失礼しました。……しかし、なにぶん――」
「ヴォルタ殿」
青年はかすかに苦笑を浮かべ、目の前の老人を見やった。
考えてみればおかしな状況だ。
つい最近国境で戦を繰り広げた両国の要人が、屋敷の一室で向かい合っている。これ以上にないおかしな状況だった。
そしてこの状況をもたらした張本人たる銀髪の少女は彼を置いてどこかへ行ってしまっている。
ラキアはもう一度かすかに笑うと、言葉を待っている老人に瞳を据えた。
「美辞麗句はお互い止めにしましょう。建て前も気遣いも今は無用です。それより、この馬鹿げた争いを早く終わりにしたいと願うのは、私だけでしょうか」
あまりにも率直に、簡潔に青年は言った。紫紺の瞳が相手の答えをただ待っている。
ヴォルタは笑った。声は出さずに笑った。心から笑みを浮かべたのは、思い返せばずいぶんと久しぶりのことであった。
「良いでしょう、バベルの宰相殿。私も、願うところは同じなのです」
「それは良かった」
そう言って二人は腰を下ろした。
昼の光が清廉な空気をまとい、ラキアの黒髪を揺らしていった。
「ずいぶん心配したんだ」
心なしか責めるように少年は言った。
そのたびに「ごめん」と少女は繰り返す。まるでおまじないかのように。
「姉さんも心配していた。会いたがってたんだけど、今は停戦条約を結ぶためにバベルへ行ってる」
「じゃあすれ違ったんだ……姉さんにも謝らなくちゃ」
冬の庭園にはあまり花は見られなかったが、よくよく手入れの行き届いた広大な庭園は充分に綺麗だった。その中を少女と少年は手を取り合って進んでゆく。少女はともかく、少年は少しでも手を離すと彼女がどこかへ行ってしまうとでも言うように、片時もその手を離そうとはしなかった。
「アゼルに聞いたの?」
「ギルは知ってたの?」
一瞬の間に、深紅とこげ茶の瞳が合わさったかと思うと、次の瞬間にはギルヴィアは視線を空中へと漂わせていた。
冬の風に彼の黄金のやわらかい髪が揺れている。少女を握る手にわずかに力がこもる。
「僕は、ずいぶん昔から知っていた。ディルタニア……母上に聞かされたから。アゼルは、自分からは誰にも言わなかった」
「兄上は、知っていて私を連れてきたのかな」
「違うと思う。アゼルが、リディスと兄妹だと知ったのは、君がアシュハルトへ来て少し経ったころだと思う」
「どうして?」
ギルヴィアは迷うように黙る。直感的に、彼が答えを与えようとはしないことにリディスは気付いたが、ただ黙って彼の言葉を待っていた。着慣れない服が風に煽られはためいている。
「アゼルは、君と兄妹であろうとなかろうと、君の事を大事に想ってるよ」
やっと返された言葉は疑問に対する答えではなかったものの、ギルヴィアの本心から出た思いであるに違いはなかった。
「うん……」
「アゼルは不器用なんだ。自分の考えてること、上手く伝えられないんだよ。伝わらないと思ってる。だからいつも言葉少なで、いらない誤解を与えるんだ。本当に、こういうことに関しては不器用なんだ」
「うん、知ってる」
冷たい仮面の下に隠れた優しさを知っている。
酷薄な言葉の裏に含まれる気遣いを知っている。
「兄妹って聞いてびっくりしたけれど、結構嬉しいかもしれない」
「アゼルに言ってあげて、きっと、また要らぬ心配をしているだろうから」
「うん。兄上って意外に――……」
その時だった。
人よりはいく分良い彼女の耳が、不穏な音を拾い取る。
紅い瞳に鋭い光が走ってギルヴィアを緊張させた。
すぐ傍の道を走る音を聞いて少女は瞬時に駆け出した。立ちふさがる植え込みを力任せに飛び越えて、急ぐ伝令の男の腕を引き止める。男はなんとか体勢を立て直すと少女の手を振り切って叫ぶ。
「……!? どっ、どけ!! 急ぎの知らせなんだッ」
「何があったの!?」
「侍女に教えるような内容ではない!」
「教えて、一体何があった?」
なおも言い募ろうとしたリディスの後ろで、まだ高い少年の厳しい声が上がる。
ギルヴィアの姿を見止めた瞬間、伝令役は緊張に体を固めた。サッと表情を取り繕うと形式ばった口調で言う。
「ケゼフ王が玉座にお戻りになりました! アゼル王子は謀反の罪により取り押さえられ、ギルヴィア王子、アリシア王女に対しましても至急城へ戻るようとの知らせです。ヴォルタ様も出頭せよと……それから、これはよく分かりませんが、ヴォルタ様の屋敷に招かれている客人を城に呼ぶようにと」
リディスの銀髪が風に舞う。
はためく裾を押さえることも忘れた少女の手が、力なく下ろされていた。その手を少年がきつく握る。大丈夫だとでも言うように。
しかし、少年の手もまたかすかに震えていた。
「ギル、どうしよう……兄上が……」
「大丈夫、アゼルは、まだ大丈夫……」
言い聞かせるように繰り返す。
選択肢は残されてはいなかった。