「Beast in throne」


 見ているこちらが苦しくなるほど、銀髪の少女は今や完全に狼狽していた。蒼白となった顔に、両の深紅の瞳はいっそおかしい位に目立っている。
 ここまで息もつかずに走ってきたのが容易に想像できるほど彼女の髪は乱れてほつれている。伝令役の男よりも先に報せをもたらした少女の耳に、ラキアの言葉など届いてはいなかった。
「どうしよう、兄上が……どうしよう」
 震える彼女の唇からは、無意味な言葉しか生まれない。遅れてやってきたギルヴィアがラキアとヴォルタに詳細を話す。彼の顔色も良いとは言えなかったが、話す言葉はまだしっかりとしていた。
 少年の唇からは血の気が失せ、半ば紫色に染まっている。
「どういうわけか、情報が漏れています。貴方達がこの屋敷にいることを、王は知っていました。アリシア姉さんは良いとして、僕は逃げるわけにはいきません。父上に会いに行かなくては……アゼルは多分幽閉されているんでしょう。彼を助けるためにも、僕は城に行かなくては……」
「私も参ります」
 ヴォルタの乾いた声が落ちる。彼にしても城へ行けばただで済むはずがなかったが、それよりも若い王子の身が何よりも心配だった。今ここでケゼフが玉座へ戻っても状況はより深刻さを増すだけであり、唯一の打開策を可能にするのはアゼル以外にはいなかった。
 そしてバベルの宰相であるラキアの身に何かあっては、両国の停戦などもはや不可能であり、同時にかの地へ赴いたアリシアの無事は望めなくなるのである。
 しかし、色々な計算をするより先に、あの青年が冷たい瞳のままで死んでいくのだけはどうにも耐えられなかった。
「わ、私も行きます」
 リディスの声が大気を揺らす。
 駄目だ、と言う暇はラキアに与えられなかった。有無を言わさぬ迎えの馬車の音が聞こえたからである。




 回廊は以前にも増して陰湿な暗さを感じさせた。
 まるで空気は泥水のように足にまとわり付いて彼女を押し戻そうとしているかのようだった。

 リディスは隣りを歩むラキアを見上げた。こんな事になったと言うのに、彼は普段と変わりないように思えた。紫紺の瞳はしっかりと前を見据えており、口元はきつく閉じられている。
 彼の静かな空気を感じて、少女も深く呼吸を繰り返す。大丈夫だ、と自分に言い聞かせながら玉座の間へと歩を進める。

 迎えの馬車は一切の拒否権など与えずに彼らを城へ導いた。
 ラキアとリディスは同乗させられたが、ギルヴィアとヴォルタは別の馬車で別の場所へ連れて行かれたようだった。
 たった二人しかいないという事実が彼女を不安にさせる。ケゼフはこの青年がラキア・バシリスクだと承知でいるのか。それともリディスのみが目当てなのか。もし彼に何かあったら自分は守りきれるのだろうか。
 考え出すときりがない。不安は無尽蔵に溢れて彼女の視界を覆ってゆく。

 ――前を見ろ、リディス・ゾルディック

 ありったけの意思の力で何とか目の前の闇を見据える。
 目を閉じていれば闇を見ずに済むが、同時に光も見つけられないから。
 隣りを歩く青年にもらった勇気を振り絞って彼女は歩く。全てに決着をつけねばならなかった。




「もっと近くへ」
 繰り返される言葉に従うことは、今のリディスには出来なかった。
 ともすれば踏み出しそうになる足を、彼女が必死に意志の力で抑えているのが隣にいるラキアにはよく分かった。
「もっと近くへ」
 虚ろな呪文のような声は、既に人間のものではないように思えた。それは人間ではない別の生き物の発する声だった。こちらが何を言っても言葉は彼に届く前に何か分厚い壁にぶつかって砕けてしまうのだ。
 玉座の間には彼ら三人の他には誰もいなかった。そこには空虚な空間が広がっているだけであった。広間が荘厳であればあるほど、たった三人しかいないこの状況はひどく滑稽なものに思えた。
 夕暮れの赤い光が、高窓で四方に屈折しながら降り注いでいる。床に落とされるそれらの光はぎらぎらと眩しく、見る者の目に突き刺さる。まるで燃える火の中にいるようだった。
 冷静にそんなことを考えられるほど、今のラキアは落ち着いている。状況は最悪と言って差し支えなかったが、返ってその方が気が楽だった。とにかくこれ以上悪化することはないのだから。
 遥か壇上の玉座。当たり前のようにそこに座っている老人が、果たして自分の存在を認識しているのかどうか疑わしい。彼の淀んだ瞳にはリディスの姿しか映っていない気がした。
 微かに震える彼女の肩に手を置いて、ラキアはケゼフ・アシュハルトを真っ直ぐ見上げる。
「お聞きしたい事があります、ケゼフ王」
 ラキアの澄んだ声は薄闇を切り裂いて玉座の王の耳にまで届いた。
 ゆるりと首だけを巡らし、ケゼフはラキアの姿を捉える。
「お聞きしたい事があるのです、王。十七年前の内乱について、そして彼女を引き取ったその理由を」
「全て貴方が仕組んだことだったのですか!?」
 リディスの悲痛な叫びが広間に反響する。どこに向かえば良いのか分からない衝動が、結局行き場を失くして空気の間を彷徨っている。
「十七年前の内乱も、私を拾って養女にして下さったことも!! 指輪のことを知っていたのだって……貴方は何もかも、全部承知で――」
「リディス」
 老人の一言に少女の体が硬直する。実のない声からは、どうしたって歩み寄れない両者の隔たりしか感じられなかった。言葉は全くもって無意味だった。
「リディス、お前は本当にディアナに似ている。お前がいてくれれば、私は他に何も要らないのだ」
 どこか夢見るような瞳でケゼフは言った。
 彼はもうこの世から半身を乗り出してしまっていた。もう何と話しているのかさえ定かではなかった。
 目の前にいるのはケゼフ・アシュハルトの皮を被った違う生き物だった。そのせいで言葉が通じないのだとすれば、そちらの方がまだ救いがあった。同じ人間なのに、同じ言語を話しているはずなのに、言葉が届かないよりかはよっぽど良かった。

 リディスは声を失くして呆然としている。
 ラキアは一度深く目を閉じた。
 ここで引き下がるわけにはいかないのだ。
 うやむやになっていた色んな事柄に終止符を打たねばならないのだ。その機会があるとすれば、今が最初で最後の時だった。
 目を開く。朝焼けのような瞳が、揺らぐことなくケゼフを捉える。

「お答え下さい、ケゼフ王。もう真相を知る方は、貴方以外には残っていないのです」

 ウォルスもディアナももういない。
 キースもアンも、ジルもいない。
 ラキアの父ラウロも、彼の叔父も、かつての渦中にいた者たちはもう誰も残ってはいない。
 このケゼフ・アシュハルト以外には。

 なんとしてでも訊かねばならなかった。それが例え残酷な真実であろうとも。
 優しい嘘に包まれて生きるのは、もうたくさんだった。






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