獣は満面の笑みで「お前が必要だよ」と言った。
少女は「どうして」と訊いた。
獣はいたわるような声で「お前が必要だよ」と言った。
少女は「なぜ」と訊いた。「何を求めているの」かと。
獣は言う。「お前が必要だよ」と。何度でも何度でも。
「獣と少女」
「十七年前の内乱は、貴方が扇動なさったのですね? 帝国の要でもあったディンバーグ家、そしてディアナ様の従兄弟にあたるガルフ。両者を焚き付けたのは貴方ですね?」
久しく口にしていなかった二つの名前は、ラキアに当時の混乱を思い出させた。
ディンバーグ家は確かに王家に反感を抱いていたし、ガルフは愚かな男だった。しかし自ら王家を相手に乱を起こすかといえば、そこには絶対的な壁があるはずで。それを乗り越えて反旗を翻すに至るには、それだけ強力な後押しが必要だったはずで。
彼らを踏み込ませたのがケゼフ・アシュハルトであるならば、彼以上の強力な存在は有り得ない。
ケゼフは緩慢な動作でラキアをゆっくり、時間をかけて見下ろした。
まるで初めて彼の存在に気付いたというように、金髪の王は目を細めた。
王の目はもう長いこと光を受けてないかのごとく濁っていて。だからこそふとした瞬間にちらつく眼光が異様に目立って不気味だった。
目が合った瞬間、ラキアの背中を何かがざわりと這う。それは喉元まで這い上がってきて、彼の言葉を奪っていった。
「そうだよ、バシリスク家の一人息子。ディンバーグ家は元より王家に、いやウォルス自身に敵意を持っていた。奴らは私が王家の血をくむ者を保護しているとアゼルを見せたらそれを信じ、容易に寝返ってくれた」
『容易』だったはずがない。
相手が賢君と呼ばれたケゼフ・アシュハルトだったからこそ。だからこそディンバーグ家も信じて騒乱の口火を切ったのだ。
「奴らは、ウォルスを亡き者にしたあとアゼルを擁立すれば良いと言った私に感謝さえしていた」
ディンバーグだって馬鹿じゃない。念入りにアゼルを調べたはずだ。しかしケゼフはその遥か上をいっているのである。この王にはディンバーグ家を信頼させるだけの実力と実績があったのだ。
「ウォルスは年若く、奔放な性格だったから、反感を抱いていた臣下は少なくなかった。ウォルスと懇意にしていた私が言うことは、皆が信じた」
ケゼフは不自然なほど饒舌だった。まるで世間話のように、実に楽しげな様子で話している。顔だけ見れば子供のような無邪気さが溢れていた。
「ガルフは愚かな男だった。奴は浅ましくもディアナに好意を抱いていた。彼女がウォルスに苦しめられていると話したらこちらの味方になり、権力を手にした後はディアナを我が物にする気だったのだろう」
吐き捨てるようにケゼフは言った。
すでにラキアやリディスの姿など彼の視界には入っていないようだった。
「そして貴方は……」
ラキアは思わず歯噛みする。
こんなことで……、こんな理由で自分は父を、リディスは両親を、いやそんなものでは足りなかった。バベルに住む全ての民の人生が、こんな理由で狂わされたのだ。
高ぶった気持ちを抑えるのは容易ではなかった。リディスが心配そうにこちらを窺っているのを肌で感じる。一度深く息を吸い、彼はケゼフを見上げた。
玉座の王は黙ってこちらを見下ろしていた。
「そして貴方は……その混乱に乗じて、ウォルス様の元からディアナ様を奪うつもりだったのですね。いや違う、奪うだけならこんなことしなくても良かったんだ。貴方はただ、ご自分の八つ当たりのためだけに、バベルをめちゃくちゃにしたんだ」
ラキアの血の滲むような訴えも、ケゼフの前では無意味だった。彼には言葉などまるで通じなかった。
金髪の王はどんなに必死に話し掛けても、決して自分の世界からは出てこようとしなかった。
どうしようもない無力感がラキアの心を掠めた瞬間、
「そうだ……そうだ。それなのに……ああ、ディアナは死んでしまった! 私をおいて! 何もかもウォルスのせいだ。彼女を縛ったバベルのせいだ。私からディアナを奪った!!……しかし、」
ケゼフの視線が揺らめく。濁った瞳がギラギラと煌いて何かを探した。ぴたりと、ある一点で視線は止まる。リディスの紅い瞳がビクッと震えた。
「しかし、リディス。お前は私の元へ来た」
少女の組み合わされた白い手に力がこもる。
「私と同じ、憎しみを抱いた瞳をして、お前は私の元へ来たんだ、リディス」
獣が獲物を見つけた。
獲物は竦んで動けない。
ラキアが少女の肩に手を伸ばしたその時だった。
乱暴な音と共に玉座の間の扉が押し開かれる。振り返った紫紺の瞳が捉えたのは、見たこともないほど感情を顕わにしている青年。
「聞くな、リディス」
彼、アゼル・アシュハルトはたった一言、よく通る声で言った。
王と同じ琥珀の瞳が、これ以上無いと言うほどの怒りで満たされていた。