セラフィーは目の前で押される煌びやかな国璽(こくじ)を疲れた気持ちで見下ろしていた。
 ゆっくりと丁寧に印を紙に押し付けているのは、見事な金髪を背中に流すアリシア・アシュハルト。アシュハルトの第一王女である。
 アリシアはこれまたゆっくりと重そうな国璽を持ち上げる。
 大陸共通語でびっしりと埋められた一枚の紙の上段には、「停戦条約」と銘打ってある。下の方にはアリシアの名と、ラキア・バシリスクの署名が並んで書いてあった。

 そう、ラキアは自らがいなくなる前に、この停戦条約の紙面を用意しておいたのだ。
 書いてある条件にアリシアは二、三の質問をしたあと同意を示し、最高責任者が不在の事実には幸いにも言及しないでくれていた。謝罪を述べるセラフィーに笑いかけたアリシアの表情には何か含むところがありそうで。そういうふとした瞬間に、セラフィーは言いようのない疲れを感じていた。
 その疲れは自分と同種の人間に相対したときに感じるものだ。
 ため息がこぼれそうになるのを必死に堪え、セラフィーは形式の整った紙面の上に視線を移した。

 茨の縁取りの中、一本の花を持つ女神イシス。
 剣と王冠を持つ双頭の鷲。
 バベル帝国とアシュハルト王国の国璽がたった今並んだのである。

「さて、ではセラフィー殿、これで両国の停戦は約束されましたわ」

 アリシアの涼やかな声が部屋に響き渡る。背後で臣下の男達がほっと息を吐いたのが分かる。
 しかし、セラフィーはこれからの事を考えると安心するわけにはいかなかった。
「これからしばらくの間、どうぞよろしく。色々お話相手になって下さいませね、セラフィー殿?」
 小首を傾げて柔らかく微笑む金髪の王女。もうとっくに結婚していてもおかしくない年齢だが、その美しさは見るものを魅了するのに充分である。現に今も、部屋には華やかな空気が満ちている。
 だが、セラフィーはとてもそんな気にはなれなかった。
 これからしばらく、彼女は文字通り「話し相手」として自分を傍から放さないだろう。そして彼女の「妹」、リディス・ゾルディックについて根掘り葉掘り聞き出されるのだ。
 はっきり言ってしまえば、セラフィーはこの女性が本当に苦手だった。
 げんなりとした面持ちで差し出される停戦条約を見下ろす。
 面倒なことを押し付けていなくなった主には、帰ってきたら嫌味の一つでも、いや二つでも三つでも言わなければ割に合わない。
 そんなことを思いながら、バシリスク家の執事はアシュハルトの第一王女を誘うために席を立った。
 これでラキアさえ無事に帰って来られれば……。
 心配に駆られる心は、ただ抑えるしかなかった。


「憎しみと赦しと」


「聞くな、リディス」

 アゼルはいくらか抑えた声音でもう一度言うと、ほんのわずかに左足を引きずりながら玉座を睨みつけた。所々服は破れ、晒された素肌からは血や痣がちらついている。
 彼の後ろから続いて入ってきたギルヴィアとニールが、捕らえられた彼を助け出したのだろう。ニールの方も怪我だらけであった。
 ニールは外へ続く扉を閉めると、そのすぐ前に立つ。リディスと目が合うと緊張しながらも笑って見せた。
「奪うも何も、元からあの女は貴方のものではなかった。それを無理に……」
 感情が入り乱れた声など、ことアゼルという青年に至っては聞くことなどないだろうとこの場の皆が思っていた。なのに今、彼は自らの衝動のままに言葉を紡いでいる。
 驚いていないのは玉座の王、ただ一人のみだった。

「貴方は、あんたは……あの女に俺を生ませたんだ。そうすれば彼女が自分の元から離れないだろうと踏んで! でも彼女は生憎、俺を置いていく事をためらわなかった!!」

 憎しみに満ちていながら、怒りに染まっていながら、どこか悲痛な叫びに聴こえるのはリディスだけではなかったはずだ。
 疑いようがなくなってしまった真実。
 彼と自分が同じ母を持つという真実。
 本当の両親の記憶など何も持たないリディスには、アゼルにかける言葉などなかった。慰めの言葉などかけることなど出来やしなかった。
 ただ、どうしようもなく哀しい叫びが胸を刺す。堪えるように、少女の手が傍らのラキアの服の裾を握った。

「いい加減に目を覚ませ。あんたがしている事は、子供と同じだ。欲しいものが手に入らないと駄々をこねているただの子供だ。お前の我が侭のおかげで、一体どれだけの人間が不幸になったか……無念の中で死んでいったか知っているのか!!」

 アゼルのきつく噛み締めた歯の音が聞こえてきそうだった。
 乱れた黒い髪から覗く琥珀の瞳。
 ケゼフと同じ色を受け継いでいながら、その瞳に宿る光は対照的だった。
 鈍く曇った目を持つ王には、アゼルの叫びは届いていないように思えた。彼は緩慢に左手を上げて、「捕らえろ」と一言呟く。
 問い返す間もなく、玉座の背後の垂れ幕から数人の兵士が姿を現す。アゼルとニールが剣を構える気配がした。
「おやめ下さい父上!!」
 ギルヴィアの声が広間にこだます。それでも兵士は止まらない。
「もう止めてください!! 貴方は……確かに、母上を不幸にしました」
 少年の視線は向かってくる兵士を通り越し、自らの父親に据えられている。震える声は、今までずっと隠していた感情を吐露したせいだ。アゼルが小さく「無駄だ」と吐き捨てる。
「それだけじゃないさ、リディスの育ての親を、間接的にせよ追い詰めたのも貴方だ。そして引き取った男を殺させたのも貴方だ。……俺が駆けつけた時、こいつがどんな状態だったかあんたに分かるか!? ぼろぼろで、何もかも壊れてしまっていたんだ!! それで、よくこいつの前に立てたな!!!」
 最初に近寄ってきた兵士を瞬時に叩き伏せ、アゼルは叫んだ。
 剣は刃こぼれしていてもう何も切れそうにない。ニールにしても同じ状況だが、迫る兵士はまだ何人も残っている。
 どう考えてもこちらが不利だった。

 何とかして取り押さえようとアゼル一人に群がる兵士から視線を逸らし、玉座を見上げたラキアの背中が凍りつく。
 あれは何だ。
 玉座に座る、あれは何だ。
 人間の皮を被っていた生き物が、その皮を脱ぎ捨ててしまったような、何かが壊れてしまった生き物がそこにはいた。これ以上彼を追い詰めるわけにはいかない。
 抵抗しながらなおも叫び続けるアゼルを止めようとラキアが振り返った時、人間の言葉ではない獣の慟哭が広間を満たした。
 聞いたもの全てを残らず凍りつかせるような叫び。一瞬で世界の音が鳴り止む。
 獣は高く低く叫びながら目にも留まらぬ速さで玉座を駆け下り、次の瞬間には硬直していた銀髪の少女の腕をつかんでいた。
 少女の手がラキアの服から離れる。
 その衝撃で我に返ったラキアが彼女を引き止めようと手を伸ばすが、錯乱した獣の腕に腹を叩かれ届かなかった。
 痛みの中でラキアは冷静に思った。
 彼は気付いていたのだ。
 ケゼフ・アシュハルトは何もかも気付いていたのだ。
 自分のしている愚かな行為を何もかも本当は気付いていたのだ。
 気付いていて、だけど知らぬ振りをしていたのだ。でなければ心が壊れてしまうから。
 奥へ奥へと沈めて隠して封印していた心が、今、一気に開け放たれた。

 ああ、自分と同じだ。

 罪から逃れたくて心を封印した自分と、この孤独な王は同じだ。
 だけど、巣食う闇の深さは底知れなかった。
 彼には一点の光も見出せなかった。
 それでも、ラキアは顔を上げる。今は見出せなかったとしても、過去の彼の笑顔全てが嘘だとは思えなかったから。それだけを頼りに、口を開く。
「お止め下さい、ケゼフ様」
 リディスを半ば引きずり玉座への段を上るケゼフが青年を見下ろした。
 アゼルもニールも多勢に無勢で兵たちに取り押さえられている。ギルヴィアも身動き出来ないほどに両脇を固められていた。
「貴方の心は、本来そんなに闇ばかりではなかったはずです。ウォルス様とだって、親友だった時が全て嘘だったわけがありません。……覚えていらっしゃいますか? 貴方は、私の父とも親しかった。会うと、必ず、内緒だと言って私を抱き上げて下さった。同じくらいの息子がいると……そう言って貴方は笑っていたじゃありませんか! それが全部嘘だったわけがない!!」
 ほとんど必死だった。
 もう形振りなど構ってられなかった。
 自分が何を言っているのかさえ、すでによく分からなかった。
 押し付けるようなことを言っている自覚はあったが、ラキアには止めることなど出来なかった。
 ケゼフの腕に締め付けられている少女のためにも、そしてかつての面影など微塵も残していない金髪の王のためにも。
「これ以上、ご自分を傷つけるのはお止め下さい」
 懇願するようにラキアは言う。
 ケゼフは初めて、穏やかに笑った。人間の笑顔だった。
「私はもう、戻ることの出来ない所まで来てしまったんだよ、ラウロの息子」
 それは決定的な決別だった。
 狂って、言葉の通じぬ方がまだましだったと思わせるくらい。
 王ははっきりと決別の言葉を述べて、笑みを浮かべた。

「まだ、戻れます」

 しっかりとした少女の声が響く。
 ケゼフの腕の中で苦しそうに顔を歪めながらも、彼女の言葉は揺らぎなかった。
「まだ、戻る場所ならあります。私が、貴方を赦しますから……」
 リディスが言い終わるより前に、外へと続く扉がけたたましい音を立てて開かれた。
「王! ご無事ですか!!」
 雪崩れ込んで来た兵たちはさっと状況を見て取るや、一人立っているラキアに向かって剣を振り上げた。
「おのれ反逆者め!!」
 振り返ったラキアの目に、怒りに染まった兵士の表情が映る。
 一瞬で切り替わった思考が迫る剣を捉えて、ここで死ぬわけにはいかないと訴える。しかし一方で、どう考えても間に合わないと冷静な自分が告げていた。こんな状況はこれで三度目。三度目の正直とはこのことか。
 ああ、まだ伝えていないことがあったのに。
 そんなことを考えながら、ラキアはそっと目をつぶった。

 遠くで少女の呼ぶ声が聴こえた。






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