「赦しと終わりと」
くぐもった、鈍く重い音が辺りに響く。
訪れるはずの痛みは一向に感じられず、恐る恐る開けたラキアの瞳に映ったのは、なぜか白目を剥いて崩れ折れている先ほどの兵士だった。
視界の端にきらめく物を捉え目を移せば、どこからこぼれたのか幾つかの細かな宝石が散らばっている。
呆然としていたラキアの視線がある一点でぴたりと止まった。
鞘に収まったままの小さな短剣。
こんな所に落ちているはずのない短剣。
全ての時間が束の間凍りついていた。
兵士たちは突然目の前で倒れた男に驚いて動けずにいる。
目を閉じる前と一つ違うのは、拘束されていたはずの少女だけだ。王の腕を力ずくで振り切って、彼女の右手は真っ直ぐ前へ伸びたまま静止していた。
ちょうど、何かを投げた後のように……。
「下がれ」
空白の時間を縫って、重く厳しい男の声が轟いた。
誰の声かすぐには判別できず、首を巡らして初めてはっと瞠目する。
ケゼフ・アシュハルトが手だけで兵たちの動きを制していた。彼がもう一度重ねて言って、ようやくアゼルたちの拘束が解かれる。
今やかの王の声に虚ろな闇は感じられなかった。はっきりとした声音にはかつての威厳さえ漂っていて、何もかもが元に戻ったのではないかという夢さえ見てしまう。
ラキアは再び視線を床へ落とした。
やはり短剣はリディスに渡したものだ。
彼女は遠く離れた段上からこれを投じ、彼に迫っていた兵士を昏倒させたのだろう。改めてその腕に感嘆しながら、ラキアは少女を見やる。と、遠目にも見て取れるほど彼女の顔は蒼白で、荒く呼吸を乱しているのが感じられた。
短剣を投じた右手がだらりと力なく垂れ、やっと少女は口を開く。しかし震える唇から音が出るには間が要った。
「……ラ、ラキア様っ、ラキア様!!」
泣きそうになりながら少女は叫び飛び出した。煩わしいとでもいうように最後の数段をひとっ飛びにして青年のそばへ駆け寄る。
「……この馬鹿宰相! なんで諦めるんですか!!」
無事を確かめるなりリディスは盛大に怒鳴った。心配顔から一転、今や彼女の顔は怒りに真っ赤に染まっている。
「馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿!! 信じられないっ、諦めるなんて…私が、私がどれだけ――」
「悪かった」
途方に暮れた青年の口からはたった一言しか出なかった。それ以外の言葉は思い浮かびさえしなかった。
俯いてしまったリディスの足元に、ぽたりと小さな雫が落ちる。いよいよ困ってしまってどうするか迷った挙句、こわごわ少女の背中に手をやってなだめるように優しく撫でた。
この腕の中の彼女の存在が、本当に愛しいと心から想う。
失いたくない。手放したくない。悲しませたくない。これから彼女の身に訪れるのが全て幸福なことであれば良いと願う。
そのために、今は重要な局面だった。
不意に視界が影って顔を上げれば、眼前にアゼルの背中があった。
ラキアとリディスを庇うように立った彼の視線の先には、ゆっくりと近づいてくるケゼフの姿があって。今にも崩れ折れそうな頼りない立ち姿に思わず手を貸してやりたくなったが、彼がまとう鬼気迫った気配に押しとどめられる。
あと一歩の所、ちょうど装飾の弾け飛んだ短剣の所で、王は決められた事のように足を止めた。まるでそこが境界線だとでも言うように、彼はそれ以上前へ進もうとはしなかった。
気配を感じてリディスが顔を上げる。
無意識に踏み出しかけた少女の体をアゼルが止めた。
実の子にそんな態度を取られながらもケゼフは何も気にしていないようで、ただ一つ、リディスの紅い双眸のみをじっと見つめ、言った。
「ありがとう」
言葉を反芻する間はなかった。理解する間も、問い返す間も。
彼の突然の行動を止める隙は、そこには存在しなかった。
ケゼフは別段急ぐでもなく足元の短剣を拾うと鞘を投げ捨てそのまま自らの胸に突き刺したのだ。
広間にいた誰一人として、瞬時に事態を把握することは不可能だった。それでもいち早くラキアが動き、ぐらりと傾いだ老人を抱きかかえた時には全てが終わりを告げていた。
生を手放した老人の体は哀しくなるほど軽かったけれど、それでもラキア一人で抱えるには無理があって。もつれ込むように床へ崩れた彼をアゼルが支える。
さっきの激情なんて嘘のように沈黙を守るアゼルに不安を感じて、ラキアは顔を見ようと振り返りかけて視線を留めた。
そこには見覚えのある一つの鍵が落ちていた。
古く錆びれた銅の鍵。ケゼフの手から零れ落ちたのであろうそれを、近くにいた少女の手が拾い上げた。
リディスの瞳が動かぬ王の胸を捉える。そこに光る、自分の短剣を捉える。
「私が……」
「違う、君のせいじゃない」
決然とラキアは言い切った。赤い双眸が否定するように揺らぐ。だが青年は一歩も譲る気はなかった。
「もう、とうにこの人は死んでいたんだ。親友と愛した人を亡くした時点で……。ただ、妄執だけが行き場を失ってこの世に取り残されて彷徨ってたんだ。でも、リディス、君が最後にこの人を救ったんだ。戻るべき場所に導いたんだ」
「でも、でも私が」
「それに、この短剣は俺が君にあげたんだから、責任があるとすれば俺にもある。責めを負うなら、二人一緒に、半分ずつ負おう」
ラキアの表情に気負うところなどどこにもなく、本心から放たれた言葉だと痛いほど感じられた。それでもすぐには頷けず、もう一度、動かぬ王を見下ろす。
糸の切れた操り人形のようにぐったりと動かない彼はすでに「王」ではなく、ただのか弱い老人でしかなかった。胸に突き立った短剣が痛々しかったが、抜けば大量の血が噴き出すだろう。
この人はこんなに小さかったか。
あんなに大きく、抵抗できない存在に思えたのに……。
『ありがとう』
なぜ最期の言葉にそれを選んだのか。
問い返す暇も彼は与えてくれなかった。最期の最期まで強引な男。
「リディス、責を負うのは……僕も一緒だ。アゼルだって一緒だよ」
いつの間にか近くにいたギルヴィアが呟いた。
「父上を、赦してくれてありがとう」
「ギル、だけど私は……」
間に合わなかったのではないか。
何もかも遅すぎたのではないか。
不安な心が何度も何度も己に問いかける。
少年は泣きそうな顔で微笑んだ。言いたいことは分かっている、とでも言うように。
「間に合ったよ。だって、父上がこんなに穏やかな顔してるもの」
言われて見てみれば、確かにケゼフの顔に狂気の色は残ってはいず、口元は穏やかに緩んでいて。
「後悔するなよ。お前は最後に間に合ったんだ。俺もギルも、非難の言葉を止められなかったが、お前が赦してくれたから……。だから、お前は後悔するな」
やっと口を開いたアゼルの声音はいつもの通りを装っていたけれど、どこかやはり弱々しい。
リディスは思わず彼の手を取って優しく力を込めた。
「ラキア様、一緒に……背負ってくれますか?」
真っ直ぐ、紫紺の瞳を見据えて言う。
青年は怯むことなく赤い双眸を受け止める。
「もちろん」
何が正しかったかなんて分からないから、今は前だけを向いて歩いていこう。
懐かしむにはまだ早く、後悔するにはもう遅い。
過去を思い悩むより、今なにが出来るかを。
未来に何を願うかを。