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 冬の澄んだ空気の中、朝特有の清々しさが依良の部屋にも流れ込む。既に朝一番の掃除をしている彼女の父親の境内を掃く音が、遠くから聞こえてくるような気がした。そんな爽やかな朝で今日という日も幕を開ける。

「最悪の朝よ」

 疲れと怒りと諦めを同時に滲ませた彼女の声が、六畳の和室に漂う。
 いつもの通り朝六時に目を覚まし布団から上半身を起こせば、いつもの通りのはずの部屋の光景が目に入るはずなのに――……
「……何であんたがいるのよ」
「それより起きてからの自分の第一声の酷さを気にしろ」
 布団の暖かさを求めて再び沈み始めた体は、部屋にいた一体の人形のおかげで二度寝の危険から救われた。
 救われたからといって依良が一馬に感謝するはずもなく、すっかり冴えてしまった意識全てを彼に向ける。不信感をあらわにした顔は、お世辞にも爽やかとは言い難かった。
「何でいるの」
 一馬の指摘には一切応じずに、依良はもう一度問う。一馬は隅の壁に預けた背を起こすと、依良に一瞥をくれてから視線を落とした。
「本当は泣いて頼まれても良い位なんだぞ。それがお前ときたら俺の有り難さを全く理解してないな」
「言っとくけど私、女よ?女子高生よ?眠ってる女の子の部屋に一晩一緒にいるってどうなのよ。せめて部屋の外にいなさいよ、馬鹿」
「へー…、お前が世間一般に言う女と同じ生物だとは思わなかったぜ、悪かったな」
「……そうね。あんたも世間一般に言う男と同じ扱いをしたら失礼だったわね。このポンコツ人形」
 外ではスズメが可愛らしくちゅんちゅんと鳴いている。元々この界隈は静かな方だが、まだ六時過ぎである。境内を掃くほうきの音が聞こえてくるほど静かなのだ。そのせいで彼らの言い争いは必要以上に大きく響く。

「じゃあ聞くけどな。いい年した女子高生が、服のボタン掛け間違えてんなよ」
「……ふぁ…ファッションよ…」
「ふん…」
 一馬に言われて見てみれば、なるほど、わざとなのかと思うほど壮絶な掛け間違え方だった。でもそれを認めてしまうのは余りにも屈辱的で、依良は耳を赤くさせながら言い返す。
 一方一馬は勝ち誇った笑みを浮かべ、馬鹿にしたように鼻をならすと、引き戸を開けてそのまま階下へ降りていった。
「む…むかつく〜っ!」
 開けたきり閉めもしないその戸から、廊下の冷えた空気が流れ込んでくる。全く人のことを考えていない一馬の行動は、いっそ見事としか言いようがない。
 拳を震わせながら彼が消えていった戸口を睨む依良の頭からは、昨日の境内で見せた彼の意外な一面など、綺麗さっぱり消え去っていた。



 昨日も、その前の日も、同じよう通った学校への道を歩く。
 ただ一つ違うのは、少し後からやる気のない足音がついて来ること。
「ねぇ……、もうちょっと存在感消しなさいよ」
「俺はこそこそするのが大っ嫌いなんだ」
 振り返らずとも、後ろを歩く人物の表情が手に取るように分かる。依良はまだ人通りの少ない通学路を眺めながら、後方の生意気な人形が早く消えてくれることだけを祈っていた。
「あんたの好き嫌いなんか聞いちゃいないわ。私が迷惑なの」
「お前の迷惑を、何で俺が考えなきゃいけないんだよ」
「いっぺん……」
 「死ね」と思わず続けようとした言葉を飲み込み、こんな口の悪いことを言いそうになった元凶を、想像の中でボコボコに殴った。ぐったりとなった一馬を投げ捨てる自分を想像し、一通りすっきりした面持ちで依良が振り返る。
 さすがにこれ以上連れ立って歩いていくわけにいかない。学校が近くなるにつれて道を歩く生徒達も増える。知り合いも増える。
 後ろを歩く一馬のことを聞かれたら、自分は何と答えれば良いのか。
「ほら、さっさと消えないとあんたを私の『生き別れの兄』って紹介するわよ」
「………見たら嘘だって即効ばれるだろ」
「うるさいわね! 良いから私の傍から早く消えてっ!!」
 確かに自分と彼とは全く似てないが、彼は顔だけは良いのだけれど、それをはっきり奴の口から聞くのは屈辱だ。両手の拳を震わせ、俯いたまま大音量で叫ぶ。かなり近所迷惑な騒音だった。

「………阿古屋…、俺、何か悪いことしたか? だったら謝るし、本当、悪いと思うし……。だから、消えろとか言うなよ…」
「……えっ!?」
 予想の範疇を超えた言葉に驚き、依良はバッと顔を上げた。そして自分がちょっとした誤解を招いてしまった事に気付く。
「かっ…金平……」
「いや、確かに…確かにさ。挨拶もなしに、朝から膝カックンしようとしたのは悪いと思う。だけどさ、そんな…消えろとか言うことないじゃん」
「馬鹿……」
「え?」
「あんたに向けて言ったんじゃないわよ」
「えっ!?あ、そうなんだ。……でも、俺以外誰もいないじゃんか」
 そう言って照れたように頭をかく金平を無視し、依良は視線を辺りに彷徨わせた。
 そうやって見回しても求める姿が見つかることはない。その代わり探している自分は、どこかに潜む彼に見られているのだろうかと思うと無性に腹立たしく。
 眉を寄せて見えぬ相手を一度睨むと、依良はぼそぼそ何か言っている金平を引っ張りながら、学校への道のりを歩き始めた。



「本当に可愛くない女だな」
 どこにいるのか分からないだろうに、おそらく自分に向けて睨みをきかせたのだろう依良の後姿を見ながら一馬が呟く。
 そう易々と姿をさらすほど自分は愚かではないし、鈍くもない。路地からこちらに向かってくる人の気配を感じ、さっさと民家の木の上に退避した。
 そのままその家の屋根に上り、足音一つ立てずに眼下を歩く人物を追う。屋根から屋根へ飛び移りながら、一馬は溜め息をつく。
 まるで子守だ。
 こんなに平穏であって良いはずがない。慣れない"平和"が身に馴染まずに、ざわざわと心が波立って落ち着かない。
 自分はもっと死と隣り合わせの生活を送るべきなのだ。
 背が丁度同じくらいだからと隆久に借りたシャツとズボンも、何故だか着心地が悪い。貸してくれた時の彼の笑顔が脳裏を掠めて苛つく。
「くそっ……」
 自分が求めるのは"平和"じゃなく、それを乱す"敵"だ。自覚はないが人形師であるあの女がいれば敵は幾らでも寄って来る。
 本人は気付いていないが、それ以前に比較対照がいないのだから仕方ないのだが、彼女の力は過去の人形師の中でも一際強い。
 きっと昨日襲ってきた雑魚人形は偵察だ。戻って来ないとなれば、もっと強い人形を送ってくるだろう。そしたらそれをまた暇潰しに使えば良い。
 賑やかに笑いながら歩く依良達から目を逸らし、一馬は途切れた乳白色のアパートの屋根から、電信柱伝いに無機質なコンクリートに飛び移る。
 それは依良が通う藤峰高等学校の、元は真っ白な校舎の屋根だった。





 教室に一歩踏み入った瞬間、いつもと微妙に異なる空気が依良を包んだ。
 依良のクラス、一年A組は意図的に集めたと言われたほうが納得がいく位、陽気な生徒を集めたクラスで。言い換えれば(良い意味で)馬鹿ばかり集めたクラスだと依良は言う。
 テスト期間中だろうが何だろうが時期を問わず賑やかなのだ。先日行われた体育祭の予行演習など、むしろ騒音でしかなかった。
 そんなクラスだから、朝のHRまでの時間が例え僅かであっても、彼らは精一杯楽しむ。一日中の精気を使い果たすくらいに騒ぐ連中にはもう慣れたが、今日は慣れた依良でさえも驚くほどの騒ぎっぷりだった。
「おっ、金平っ!阿古屋!知ってるか!?」
「なっ……何をよ…?」
「転校生だよ!転校生っ!!うちのクラスにだぜ!?」
「へー……、で?男?女?」
 何だ、そんな事かと溜め息をついた依良の横で、金平が口を開く。彼もあまり興味はなさそうだった。あくまでも"阿古屋依良"と比べて、の話だが。
「女だよ!女っ。俺、後姿見たもん。なっがいポニーテールだったぜ!」
 絶対美人だと瞳をキラキラさせて意気込む男子に呆れた笑いを送りながら、依良は黙って席に着いた。
「………転校生かぁ」
「おはよう、依良」
「あ…おはよう、葵」
 机に頬杖をつき、ぼんやりと窓の外を見ていると、頭上から聞き馴染んだ声が降ってくる。顔を上げずとも誰だか分かるその声の主に、あくび混じりに挨拶を返す。
「気になる?」
「…別に。まぁ、よりにもよってこのクラスに転校…ってところで同情は禁じえないわね」
 再び視線を窓の外に移す依良の背後で、葵が椅子を引いて座る音が教室の雑音に呑まれていく。
 自分の視界のどこかに、あの生意気な人形も気付かないだけで映っているのだろうか。何とはなしにそんな事を考えながらのどかな風景を瞳に映す。
 昨日自分がどれだけ危険な立場にいるか説明されたが(あれを"説明"と呼んで良いのならばの話だが)、いまいち危機感が湧いてこない。どれだけ言葉で説明されても、体がそれを受け止めてはいない。
「はぁー……、私にしてみれば、あんた自身が災難」
「何か言った?」
「別に」
 実感の湧かない危険よりも、否が応でも身近に感じるあの唯我独尊の人形自体が、今の依良にとっては災難だった。




「初めまして」
 紡がれた言葉はどんなに脳が拒否しても完全に「男」の声で。
 黒板に白く浮かび上がった四文字の漢字も完全に「男」の名で。
 確かにポニーテールなのだが、あの男子は一体何を見たのかと問いたくなるほど、制服は男子生徒のズボンにしか見えなく。
「桐谷歳三……男じゃない」
 悲鳴とも歓声ともつかない声援が、一年A組の教室を包んでいく。

 これが自分の日常が崩れる、最初のひび割れの音だとは、この時考えもしなかった。






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