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 桐谷歳三という厳つい名を持った少年は、依良のすぐ後ろの空席に落ち着いた。
 こんな名前に似合う日本男子が今の世にいるのかと甚だ疑問に思う。一見すれば繊細で優男の印象を受ける彼だったが、それは女に間違われた原因であるポニーテールが一役買っている。
 程なくして、彼の「深窓の美少年」のイメージはガラガラと崩れていった。



「阿呆のような女子ばかりだな」

 一時間目の退屈な数学の授業を、窓の外を眺めることでやり過ごしていた依良の耳に、この不穏な声が突如響く。ぼそりと小さく呟かれたその言葉を受け取ったのは、どうやら自分だけらしい。出来る事なら自分も聞きたくは無かった。
 僅かに首をめぐらし、背後の人物を肩越しに捉える。相変わらず涼しそうな無表情を浮かべている転校生が、さっきの言葉を吐いた張本人だとはにわかに信じ難い。信じ難いが彼以外に考えられる人物もいない。
 気付かれないよう注意深く様子を伺っていた依良と、伺われていた転校生の目が合った。
 びくっと大きく肩を揺らし、依良が前を向き直す。背後の気配が乱れることはない。おそらく彼は無表情を守っていることだろう。
 とんだ転校生だ。
 依良はげんなりと白紙のノートに目を落とす。
 確かに……、確かに少し見目良い男だ。切れ長の瞳、色素の薄い肌と髪、年頃の女の子が騒ぎたい気持ちも分かる。授業中幾度と無く一番後ろの席の彼を振り返って見たくなる気持ちは分かる。
 しかし当の男ときたら、そんな騒ぐ彼女らを『阿呆のような』で一刀両断だ。幾らなんでもそれはあんまりだと依良は思う。
 しかもさっき後ろを振り返って分かった事だが……、彼は授業を受けていない。
 少なくともノートは取っていない。筆記用具の類が一切机の上に出ていなかった。出していても書いていない依良が言える事ではないが、"転校生"というものはもう少し緊張感を持っているものじゃないだろうか。

 教室中にカリカリとノートにペンを走らしている音が充満している中、依良とその後ろの席の転校生の所だけは静寂が支配していた。





「桐谷くん、どこから来たの?」
「兄弟いる?」
「髪長いねーっ!」
「前の学校は何て言う学校?」

 特に捻りの無い、転校生が受けるべき洗礼を浴びる彼、桐谷歳三。先の彼の発言を裏付ける今の現状を、依良は遠目に眺める。こうなることを見越して、休み時間に入ると同時に避難した自分の判断は正しかったと一人頷く。
 クラスメイト(といっても女子が大半を占めるが)の生垣の中心には相変わらず無表情な彼がいた。この状況でまだ無表情を保ち続けているのは、ある意味賞賛に値するかも知れない。

「………ここから南南東の方角、兄弟はおらん。髪の事は主らには関係ないことだ。通った事のある学校は尋常高等小学校という」

 数秒の沈黙が訪れる。
 その沈黙はただ純粋に、彼が言った事を必死で理解しようとしている間であった。さして興味の無かった依良でさえ、持ち得る限りの理解力を総動員して結論を急ぐ。そして行き着いた答えは皆同じ。

 この転校生は変である。

 ただでさえ色物揃いのクラスであるのに、今日また一人そういう類の輩が増員されたらしい。
 それでも多分このクラスはあまり抵抗感無く受け入れるだろう。嬉しい事でもあると同時に、どうしようもなく脱力感が湧いて来る。
 依良は微妙な空気に包まれている桐谷歳三から目を離し、小さく溜め息をついた。






「それでね、その転校生、何気に運動神経も良かったのよ」
 つまり口さえ開かなければ充分美少年なのだと、依良は食卓を囲む自らの両親に説明する。
 阿古屋家の食事の時間は遅い。母親である優子が会社から帰宅するのが九時を過ぎるのが主な原因だ。さすがに帰宅してから夕飯の準備をするのは大変なため、食事の用意は依良がする。
 父親である隆久も神社の雑務に追われてそれなりに忙しい。休日でも大体晩御飯は九時過ぎに取るのが常であった。

「依良……それはちょっと、その男の子が可哀想じゃないか?」
 遠慮がちに隆久が言った。彼は家でも作務衣や浴衣や甚平などを愛用する。以前一度スーツ姿を見たことがあるが、どうにも似合わないと依良は思った。
「でもね、『おぬし』とか『致し方あるまい』とか……、一人称は男なのに『私』だし、語尾に『おらん』とかつけちゃうのよ?」
「素敵じゃない。武士になりたいのかしらねぇ」
「違うと思うよ、優子」
「あら」
 幾らなんでもそれはないだろうと、依良はちょっとずれた母親を見やる。これで会社では結構な役職に就いているというのだから驚きだ。人材不足もそこまで深刻化しているのだろうか。
 デザイナーという仕事じゃなかったら、多分早々に首になっていたに違いない。かなりずれている母親だが、天職を見つけ出せたのは幸運なことだった。
 依良は両親の穏やかな会話を耳に入れながら、味噌汁をすする。舌に丁度良い温度だった。


「俺も違うと思うな」

 和やかな食卓の雰囲気を切り裂いて、低い深い声が響く。
 三人が一斉に見た方向には、ソファに寝そべっている一馬がいた。一馬は顔を上に向けたまま口を開く。
「そいつには近づくなよ、馬鹿女」
「……近づくなって言われても、同じクラスだし、席は前後だし………無理ね」
 少々の思案の後、物理的に考えて彼の提案の実現不可能を再確認する。至極当然の口調で依良は切り返した。一馬が不満そうに眉を寄せる。
「死にたくなかったら、俺の忠告は受け取っておいた方が良いぞ」
「あのねぇ……、何でそういう考えに至るのか、ちゃんと教えてくれる?」
 理由も聞かされずに一方的に命令されて素直に聞けるはずがない。特にこの阿古屋依良には無理な芸当である。
 ちらりと一瞬一馬の瞳が依良を捉える。深い闇色の瞳から読み取れる感情はなく、ただ「見る」という行為のためだけにその瞳は使われる。
 再び視線を天井に戻してから、一馬は面倒くさそうに切り出した。
「……俺も遠目に見たけどな、そいつ、敵の可能性が高い。大方人形だろうさ。明日にでも処分してやる」
「ちょっと! 仮にもクラスメイトなのよ!?……処分って…、そんな言い方…」
 一馬の物言いに依良は味噌汁のお椀をテーブルにおいて立ち上がる。長い黒髪が揺れる。

「じゃあ何て言えば良い? 『壊す』? 『解体する』?…『殺す』なんて言えないぜ? 俺ら人形は生きちゃいない、だから『殺す』ことは不可能だ」
「そんなこと言ってるんじゃないわよ。桐谷くんは私のクラスメイトなの。充分な確証も無いまま手を出したりしないでッ」
 ソファに座りなおした一馬が、眉間にしわを寄せた。整っているはずの顔のパーツが、ダイレクトに「不機嫌」を表す。
「お前馬鹿か? そんなこと言ってる内にばさりと殺られるぜ?」
「要は二人きりとかになんなきゃ良いんでしょ? もうちょっと様子見てからにしてよ」
「分かってねぇな、お前。二人きりになんなくたって殺す方法なら幾らでもあるんだっつーの。それに人前で人殺し出来る奴も掃いて捨てるほどいるんだよ。警戒心が無い馬鹿はすぐ死ぬぞ」
 小馬鹿にしたように言う一馬に、依良の身に憤りが流れる。

 彼の言っている事が分からないでもない。いや分かる。でもだからといって「理解」は出来ないのだ。仮にもクラスメイトになった人物が、例え彼が自分に危害を加える人形であったとしても、依良はむざむざ見殺しには出来なかった。
 知り合ったばかりで、彼のことなど何も知らなくて。その上狙われているかも知れなくても、一馬によって彼が消され、それでも何も知らない振りをして学校に通い続けることなんて自分には出来ない。
 それに……、依良はたった一日の「桐谷歳三」を思い出す。言葉遣いは変だし、ぼそりと呟く一言は何気に辛辣なものだったりしたが、どこかに人間味が感じられた。仲良くなれそうな気がした。だから――…

「桐谷くんには手を出さないで! 私も充分気をつけるから」

 精一杯の想いを、目の前の青年にぶつける。そうでなくては、彼はきっと明日には桐谷を排除しにかかるだろう。
 出会って数日、未だ自分の声が、想いが彼に届いたことはないし、自分もまた受け取ったことはない。言葉は交わしても全てが素通りしていって、何一つ分かり合えることなどない。だけど、依良は真っ直ぐ一馬を見る。瞳と言葉に全ての気持ちを込めて。

「お願い、一馬。桐谷くんには、まだ手を出さないで」

 痛いほどの沈黙が、二人を包む。一馬の深い黒い瞳が、初めて依良をちゃんと映す。永遠ともとれる束の間の静寂を打ち破ったのは、一つの溜め息だった。

「知らねぇぞ、どうなっても」
「そこはあんたの腕の見せ所じゃない」
「もう『あんた』に降格か」
「………そっ…そっちだって私のこと一度だって名前で呼ばないくせに!!」

 からかうような一馬に指摘されて、依良は自分が彼のことを名前で呼んだことを思い出す。そう言えば会ってそれなりな時間を共有したにも関わらず、「一馬」と名前で呼んだことはなかった。自覚して急に火照ってきた顔を必死で誤魔化す。

 立ち上がった一馬が、大きく伸びをして関節を鳴らした。そのまま居間を後にしようとして、ふと足を止める。
「ぎりぎりまで手を出さないでおいてやる。だけどな……」
 急に冷たくなった声音に、依良の頬から熱が引いていった。

「お前に危害が及ぶようなら、俺は容赦なくそいつを処分する」

 その時止めてももう聞かないからなと、そう言い残して一馬は姿を消した。
 ひとまず危機は脱したらしい。しかし一馬が手を出す前に、何とか桐谷歳三の件を片付けてしまわないとまた振り出しに戻る。

 力が抜けたようにすとんと椅子に腰を下ろし、依良は食べかけのお椀に手を伸ばした。先程まで美味しそうな湯気を立てていたそれは、既に冷め切っており、口をつけてしまったからには鍋に戻して暖めなおすことも出来ない。仕方なく冷めた味噌汁をすする。

「依良……、あなたの気持ちは良く分かるけど…でもお母さん一馬くんの言ってることも良く分かるの」
 二人の口論の最中、多分言いたい事を我慢していたのだろう。優子が真面目な表情で語りかける。
「分かってる。分かってるの。でも……」
 割り切る事は出来ない。


 一体これから何度、こんな場面に遭遇するのだろう。

 割り切りたくても割り切れない、心が痛むこんな場面に………。






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