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 この学校の屋上は生徒に開放されていないようで、五階建ての校舎の上は、校庭にいる彼女を見張るに当たって都合が良い。
 自分の中のもやもやした感情とは裏腹に、空は憎らしいほど爽やかで。鳥のさえずりさえ聞こえる陽気な午後の穏やかな時間が、一馬には不快以外の何ものでもなかった。

 何をためらうことがあるのだろう。
 敵ならば排除すれば言いだけの話。情けをかける分だけ、我が身に危険が降りかかるという図式を、あの世間知らずな女は知らないのだ。
 だからあんなことが言える。
 自分なりの結論を出すと、苛ついて波立った気持ちにどうにか一応のおさまりがつき、これ以上考えても所詮人間の考えることは分からないと、一馬はそうそうに諦めた。


 対象者の護衛についてもう二週間が経とうとしているが、今だに彼女の行動パターンは読めなかった。と、いうより、現代のシステムそのものが一馬には理解不能だった。
 最後に意識があった時から、ゆうに六十年は経っている。その六十年の間に阿古屋は瓦解し、人の価値観も変わり、人形師は「人形師」ではなくなっていた。ただの人間になっていた。
 やりにくいことこの上ない。
 自らの保身のみを考えていれば良いのに、やたらと他人に口出ししてくる。彼女の両親にしてもそれは言えることで、父親は自分の昔の服を引っ張り出してきては着せようとし、母親は一馬が食べられない体ではないと知るや否や、毎度四人分の食事を作るようになってしまった。
 隆久に渡される服は、およそ神主になる人間とは結びつかない派手なものばかりで、彼が昔どんな生活をしていたか、想像させるには充分だった。
 今着ているのも一馬が今まできたことのないタイプの服だ。出かけに、優子が今度服を買いに行こうという話題で依良と盛り上がっているのを聞いた。


 止まらない思考に無理やり一区切りつけて、ぼんやりと視界に入れていた校庭に、改めて焦点を合わす。すぐに彼女は見つかった。高いところで括った長い黒髪を揺らして、騎馬戦に熱中している。
 本当は一昨日の日曜日にあったはずの体育祭は雨で中止になり、今度の日曜に延期されたらしい。何をあんなに張り切っているのかは知らないが、彼女たちは昼休みにもこうして練習している。
 クラスの中でも紅白に分けられ、彼女は赤。大体いつも一緒にいる友人も同じく赤のようだから、多分その組は強いだろう。
 そしてあの人形は白。体育祭当日は紅白離れて校庭に座るから、お互いが接触する機会は少ないだろうと、人が多い当日は守りにくいと不平をもらした一馬に彼女はそう告げた。ちゃんと別々の組に分かれるよう細工したのだと自慢げに言ってきたのを覚えている。

 実際、「気をつける」という言葉は実行に移された。
 例を挙げるなら、そう、座席についてだろうか。自分を狙っている人物を背後に座らせておくのは確かに危険で、彼女もそれを分かっていたのだろう。約束した次の日、「桐谷くんは目が悪いから」と、勝手に彼を前の席に移してしまった。
 強引な彼女も彼女だが、特に何を言うでもなく()すがままになっていた人形の方も、ある意味大したものだった。

 低級の人形ならばその木組みの体に感情などは宿すことがない。
 元々が木組みであることは一馬も他の人形も同じことだが、自我があれば、そしてそれが強固であればあるほど、体は「人間」になっていく。外見では「人間」と「人形」の区別がつかなくなる。つまり「人間である」という無意識の意識が、その人形の体を人間に近くしていくのである。
 一馬にとってそれは苦痛以外の何ものでもなかった。
 人形を人形として誰よりも見限っているはずの自分が、他のどの人形よりも人間に近くて。それはつまり自分が「人間である」と無意識に思っているということに他ならなくて。
 自分の浅ましい本能に、吐き気がする気分だった。


 遥か下の校庭から騎馬戦をしている生徒の掛け声が聞こえる。それ以外にも校庭で遊んでいる生徒は沢山いて、それはそれはのどかな風景であった。


 桐谷は――あの人形は、高度な技術で作られた人形だった。自分と同じか、あるいはもっと上か。「人間である」という自我の強さという点では、自分よりきっと上だった。
 自我を持つほどの上級の人形に出会うのはごく稀で、大概の人形は「殺せ」、または「さらえ」などのたった一つの命令しかその体に留めておくことが出来ない。それくらいの人形ならば、一馬の敵ではなかった。
 だから久しぶりに現れた強敵に高揚する。こうでなければ面白くない。
 あの女には悪いが、自分も彼女を狙う人形も、そんな甘い世界では生きていないのだ。どんなに衝突を止めようとしても、自分たちは必ずぶつかるだろうし、最後に立っているのはどちらか一方だ。あの女の努力など、風の前の塵に同じ。
 そして彼女も気付くだろう。自分が望むと望むまいとに関わらず、阿古屋の力を持って生まれてきた時点で、平穏な生活などありはしないことに。

 依良、あんたの生きるのはそういう世界だ。

 昼休み終了の鐘がなり始め、生徒は一斉に校舎に吸い込まれていく。
 依良が屋上を見上げた時には、彼女を守る彼の姿はもうそこにはなかった。






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