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 雨天で延期になったおかげで体育祭に優子は来られなかった。どうしても動かせない仕事があるのだと、ずいぶん文句を言いながら一足先に家を出て行ったのだ。
 一馬の少々古い常識では、女が働きに出て男が家にいるなどということはまず考えられない。隆久も神社の神主として働いてはいるのだろうが、厳密に言えば一家の収入は優子によるところが大きい。
 常識だと思っていたことが次々に覆されると、さすがの一馬も突っ込みどころを失い閉口せざるを得なかった。


「ビデオよし、充電よし、予備テープよし! これでばっちり依良の勇士は記録に残る」
「……………何でそんなに大荷物なんだ」
 気乗りしないながらも契約を実行に移すべく、一馬は依良の体育祭に行く予定だった。出かける直前に隆久に声を掛けられ振り向けば、たかが体育祭を観に行くだけのはずの彼は信じられないほどの荷物を抱えている。
「大荷物? これくらい普通さ、何てったって依良が高校生になって初めての行事なんだから」
 依良の通う藤峰高等学校は体育祭を春に行う。ゆえに年度始めの行事は確かにそれなのだが、本当に隆久の抱える荷物の量が「普通」なのかは一馬は疑わずにはいられなかった。
 自分が現代の情報に疎いのを知っていて冗談を言っているのではないかとも考えたが、そんなことをして一体隆久に何のメリットがあるというのか。
 疑問はどんどん溜まっていき一馬を苛立たせたが、解決するために余計なことを話す気にもなれなかった。結局それ以上言及することなく、彼はさっさと玄関に向かう。
「え!? 一馬くん、一緒に行こうよ」
 慌てた声音に反射的に立ち止まってから、一馬は「しまった」と小さく舌打ちした。無視してそのまま行くのが最善だったはずだがもう遅い。
「はい、荷物。半分持って」
「………………」
 拒否できない無言の圧力を感じながら彼は隆久の荷物の半分を請け負った。
 やはり「普通」の量ではなかったのだと知ったのは、人が溢れかえる校庭にたどり着いてからだった。





 今日は先週の日曜とは打って変わって晴天。もう少しくらい曇っててもいいとさえ思える良い天気である。だから依良は少しでも早く校長の当たり障りのない挨拶を終わることをひたすら祈っていた。
『――ですから、怪我のないよう、お互い気持ちよく正々堂々戦いましょう。勝ち負けは問題では……』
「勝ち負けが問題なのよ」
 拡声器を通して伝わる校長のしゃがれた声に、依良はボソッと反論した。隣に並んでいる男子生徒が驚いて彼女を見る。
「ったく、何がみんな仲良くよ。勝負に仲良くも何もないっつーの」
 晴天の下、かれこれ三十分以上立たされている依良の中には不満がたまっている。校長は、生徒の人気を集めたいのなら五秒ほどで挨拶を終わらせるべきだと思った。
 苛立たしそうに溜め息をつく彼女から、男子生徒は黙って一歩遠ざかる。
『保護者の皆様、本日はお忙しいところおいでいただき、本当にありがとうございます。では、これから藤峰高等学校、体育祭を始めたいと思います』

 大歓声というには程遠い、覇気のない拍手の中、生徒たちは紅白それぞれの座席へと移動していった。



「阿古屋! お前の父さん来てるぞ」
「は? ……金平、敵陣に単身乗り込んでくるとは良い度胸ね」
 えっ、と訳が分からないという表情を浮かべる金平に、依良は無言で詰め寄る。顔を真っ赤にしながら少年は後ずさった。
「さっきの玉入れでは良くも私の渾身の一撃を邪魔してくれたわねえ」
「え!? ちょっ……、待っ…意味が、意味が分から――」
「私のあの玉をあんたが邪魔しさえしなければ、赤が勝ってたはずなのよっ」
 二種目めの競技であるの玉入れは三回勝負で、赤は白に三回戦目、玉一個分の差で負けた。二回戦が終わった時点で白一勝、一引き分け。最後の勝負、笛が吹かれる直前に投げた依良の球が網の中に入っていれば、紅白引き分けで四回戦目が設けられるはずだった。そして依良は四回戦目があるなら絶対赤が勝つのだという確信を持っていたのだ。だが――……
「なーんで私の投げた球に白組のあんたの玉が飛んでくんのよ!!」
「はぁ!?」
 そう、最後に彼女が投げた赤い球は、綺麗な弧を描いて網の中に入るはずだった。しかし途中でどこからか白い玉が飛んできてそれに当たったのだ。競技終了の笛を遠くに聞きながら白玉の飛んできた方向を見ると、
「金平、あんたその破滅的なノーコン何とかしなさいよね」
 見に覚えのない指摘に疑問符を浮かべつつ、ここで反論するのが得策でないことを知っている少年は取り合えず頭を上下にふった。

「お前だって充分ノーコンだったじゃねえか」

 突然頭上から降ってきた低い声に、依良はばっと頭を上げる。最初に視界に入ったのは風に揺れる白いシャツ。袖口から伸びる、白くて細くて長い指――が抱えている大量の荷物。依良は片眉を怪訝そうにつり上げて一馬を見やった。
「……何? 家出でもするつもり?」
「つまんねえ冗談言ってんじゃねぇよ」
 心底迷惑そうに眉を寄せて青年は答える。不機嫌なオーラがだだ漏れになっている彼の後ろから、ひょいと隆久が顔をのぞかせて笑った。彼の肩に掛かっている大荷物を見て全て了解した依良は呆れの滲んだ溜め息をつく。
 娘が漂わす諦観のオーラに気付く様子もなく、隆久はビデオ片手に意気揚々と語る。
「依良の勇姿はきっちり撮るからな! 優子にも見せたいし」
「はいはい。ぜひ赤組が優勝する所を撮ってちょうだい」
 そう言い捨てて依良は視線を運動場へと戻した。ちょうど綱引きで赤組が勝ったところで、彼女は小さくガッツポーズをする。
「おい」
 高圧的に落とされた呼びかけに眉をしかめながら依良は再び振り返る。と、以外にも真面目な顔の一馬がいた。
「あいつは?」
「……桐谷君? 反対側の白組の席……多分あの辺。だけどここからじゃ見えないでしょ」
 指し示してやりながらも依良の目に桐谷は判別できない。彼女も視力は良い方だが、この混雑したグラウンドの中で人一人見つめることは不可能に近い。そう思いつつ黙っている一馬へちらりと視線をやった。
「俺をお前ら人間と一緒にすんな馬鹿女。はっきり見えるっつーの」
「あんたいい加減に――」
「何てこと言うんだ!」
 依良は続くはずの罵倒を呑みこみ隣の友人を見た。一馬と、彼を睨み上げる金平とは頭一つ分身長の差がある。もちろん背の高いのは一馬の方だ。
「……俺がこいつのことなんと言おうがお前には関係ないだろうが」
 あからさまにムスっとした口調で一馬は言い返す。全く気にしていなかった存在から突然怒鳴られて、さすがの彼もいささか戸惑っているようだった。
「あんた、阿古屋の何なんだよ」
 金平の大声に、今まで競技に注目していた周囲の生徒たちが振り返る。上手く一馬に気付かれないで済みそうだと思っていた依良は脱力感に襲われ肩を落とす。隆久はといえば脚立の設置に忙しくこちらを気に掛ける様子さえない。
「俺はこいつの――」
「世間知らずの留学生なの!! うちの家にホームステイしてんのよっ!!」
 一馬に口を開くことを許せば、そこからどんな問題発言が飛び出てくるか分かったものではない。
 咄嗟に口をついて出てきた嘘はなかなかのもののように依良には思えた。彼女の勢いに押され金平が頷きかける。
「依良っ、まだこんな所にいたの?」
「……あ、葵」
 割り込んできた明朗な声。いつの間に来たのか、依良のすぐ後ろには軽く汗をかいた葵がいた。今しがた終了した綱引きに出場していたのだろう。
「お疲れ様、葵。……『まだ』って?」
「次の次、騎馬戦午前の部よ。他の選手はもう入場門に向ってるわよ」
あ、と小さく叫んで動きかけた依良を葵の一言が呼び止めた。
「どなた?」
 葵は一馬に会釈しながら問う。
「あ、えっと、うちにホームステイしてる留学生」
「へえ……」
 動く目を見開く葵に少女は不安を覚えた。この親友は金平同様にあしらうなど出来ないことを、嫌というほど彼女は知っていた――はずだった。
「お名前は?」
「一馬だ」
 依良より先に一馬が答えるが、彼も少し戸惑っているようだった。対照的に葵は爽やかな笑顔を浮かべている。それがさらに依良の不安を煽った。
「初めまして、佐々木葵です。よろしく」
「……よろしく」
 半ば引きずられるように一馬がつぶやいた。そんな彼の様子に驚いていたが、彼以上に依良が一番驚いていた。こんな『普通』の会話をしている一馬を初めて見たのだ。
 思わず呆然となった彼女に葵が振り返った。
「あら、まだいたの? さっさと行くわよ」
「え、あ、うん」
 依良は固まった足を無理矢理動かす。湧き上がった感情をどんな言葉で表せば良いのか分からない事に苛立ちながら。
 すれ違いざまの隆久の応援にも反応できなかった。

「依良?」
 人ごみを押し分け進む彼女の耳元に、突然囁きが落とされる。ビックリして振り返れば、微笑をたたえた親友の笑顔があった。
「……なに?」
「髪も目も黒くて、名前も日本的で日本語のイントネーションも完璧な彼」
 浮かべている笑みは綺麗なのに、なぜか依良には彼女の背後に悪魔を見た。
「一体どこの国の留学生なのかしら?」
「それは――……」
 言いよどむ少女に畳み掛けるように悪魔は囁く。
「早く行きなさいよ。後でゆっくり……ね?」
「……………」
 言うだけ言ってさっさと先へ進んでいく葵の後ろ姿を、依良は脱力感と共に見送った。後ろで一馬が暮らすの女子に囲まれているのが視界に入ったが、無視して歩き始める。
 無意識に体育着のポケットに入れた手があるはずのものを掴めず、
「あ……ハチマキ忘れた」
 次の競技は障害物競走。二十分はかかる競技の上、まだ綱引きの片付けさえ終っていない。
 絶対に間に合うのを確認して、彼女は教室へ戻るべく踵を返した。
 人ごみの中掛けていく少女の後ろ姿を、長い髪をくくった少年がじっと見ていた。





「ハチマキ、ハチマキ……っと、あった!」
 外とは打って変わって静寂が支配する教室で、依良はやっと赤く細長い布を見つけて叫んだ。
 探すためにひっくり返した荷物は当然のごとくそのままに、戸口へと向き直った身体がビクっと固まった。
「…………桐谷……くん」
 無言で戸口にたたずむ少年に気圧されるようにして、依良は一歩後ずさった。それに合わせて少年は同じ分だけ距離を詰める。

 出口は二つある。桐谷がいる戸とは別に、もう一つある。
 しかし、この教室は廊下の突き当たりにあるのだ。もう一つの出口から出ても、あるのは行き止まりの壁だけ。逆へ逃げれば桐谷がいる。
 前へ進んでも希望は無いが、後退してもそれは同様だった。

『死にたくなかったら、俺の忠告は受け取っておいた方が良いぞ』

 桐谷の踏み出す一歩が、一馬の突き放したような言葉を思い起こさせる。

『お願い、一馬。桐谷君には、まだ手を出さないで』

 言い返した自分の言葉が、今この瞬間ひどく浅はかなものに思えた。
 背中がトンと窓ガラスに触れる。心臓が跳ね上がり、呼吸が辛い。それでも瞳は無表情な少年から逸らせなかった。

 そうだ。忘れていた。バカで能天気なクラスの中にいたから見落としていた。
 彼はいつだって無表情だったのだ。いつだって変わらず感情の見えないその目で自分を見ていたのに、一体自分は何を勘違いしていたのだろう。

『知らねぇぞ、どうなっても』

 うるさい、と少女は心の中で怒鳴った。何も聞きたくはなかった。

『お前に危害が及ぶようなら、俺は容赦なくそいつを処分する』

 桐谷が数歩先で立ち止まった。
 依良はちらりと窓の外へ目をやる。地面は遥か下。
 四階のここから飛び降りればそれは自殺以外の何物でもない。
 視線を再び前へ戻すと、じっと見つめてくる桐谷と目が合った。
「何よ……」
 弱くなりそうな心を叱咤して、少女はキッと睨み返す。
 守るって言ったくせに。不意に浮かんだセリフを呑み込み、変わりに込み上げてきた怒りに身を任せた。
「何よッ、何か用!? どきなさいよ、そこ、邪魔っ……邪魔!!」
 眉一つ動かさない相手に、依良の怒りは止まりようがなかった。
「だっ、だいたい……あんたも私も騎馬戦の選手よね!? こんなとこにいて良いわけ!? 私はもう行くから、そこどいてよッ!!」
 一気にまくし立てた少女は荒い呼吸を繰り返す。
 刹那、少年の瞳に明らかな殺意が走った。燃えるような、激しい感情。
 そのあまりの変わりように、依良の全身が総毛立つ。

「……来たな」
 え、という形に依良の口が動くが、音にはならない。
 不意に桐谷の視線が依良を通り越し、背後の窓の向こうを見た。少女もつられて振り返ったが、それより先に耳をつんざく高い音が、ガラスの割れる音が響く。
「ほら見ろ。……分かったかよ、馬鹿女」

 頭上から落とされた低い声は、いつもなら腹を立てずにはいられないほどの暴言だった。でも、この瞬間だけは、真逆の感情が湧き上がる。
 窓枠に足を掛け、一馬は桐谷を睨んだ。桐谷の表情が歪む。
「おい、あの約束はもう知らねえからな」
「…………っ」
 答えない依良には構うことなく、一馬は教室に身を乗り入れた。
 桐谷は距離をとりながら、怒りに歪んだ顔で叫んだ。
「一馬…………!!」
 突然呼ばれた一馬は依良を後ろへ押しやり、怪訝そうに眉をひそめる。
「お前だ……」
 絞り出すような憎しみに満ちた声だった。
 一馬の出現に一変した少年に、依良も不安を隠せなかった。
「探したぞ……八十六年、八十六年だっ!!」
「……………?」
「その女などどうでもいい!! 私は、お前を探していた! 一馬ァ!!!」
 静かな教室に桐谷の憎しみに溢れた叫びが駆け抜けた。

「………は?」

 思わず依良は呟いた。






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