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「……で? 何? あんたの目的は私じゃなくてこいつ一人なわけ?」

 依良の棘を含んだ声が張り詰めた空気をぶち壊す。歪んだ表情のまま桐谷は小さく頷いた。
「いかにも。私はそいつに会えさえすれば良かった。阿古屋のおぬしに興味はない」
 言いながらも、桐谷の鋭い視線は一馬から離れない。怪訝そうに眉間にしわを寄せ彼は黙っている。その背中を依良はふつふつと湧いてくる怒りをこめて軽くこづいた。文句を言おうとした一馬が振り向く前に、これでもかと言うほど大きな怒声が響き渡る。
「一馬っ、あきらを……晶を覚えているだろう!!」
 憎悪を宿した瞳が一馬を貫く。依良が恐る恐る見上げれば、そこには戸惑った表情を浮かべる彼がいて。一目で彼が「晶」という人物に心当たりがないことが分かった。
 第三者である依良にさえ察しがついたのである。問いかけた本人である桐谷にそれが分からぬはずがなかった。答えられない一馬を映す瞳が、みるみる怒りに染まっていく。
「貴様っ……貴様! 覚えていないだと!? 晶を、あいつを……お前が覚えていないと言うのか!!!」
 一際大きな怒鳴り声は校舎中に、いや普段であれば外にまで届くのではないかと思うほどで。依良は身を強張らせて二人の男を見守った。
 さすがの一馬も居心地が悪そうに押し黙り、じっと桐谷を睨んでいる。痛い沈黙の合間を縫って場違いな雰囲気のアナウンスが入る。

『ただ今の障害物競走、白組の勝ちです! 続いて前半騎馬戦です』

 あ、と依良の表情が一変する。もうそこには目の前の状況に対する心配などは微塵も残ってはいなかった。今だ睨み合っている両者の間をずかずかと突っ切って、
「私行くわ。後はご自由に……と言いたいとこだけど、桐谷!」
 そこでやっと少年は依良に注意を向けた。
「あんたも出るんでしょ? ほら、行くわよッ!」
「……おいお前、状況分かってんのかよ」
 呆気にとられている桐谷に代わり、一馬が信じられないものでも見るような目つきで少女の後ろ姿を眺める。向けられる二つの視線を依良はキッと睨み返した。
「『分かってんのか』ですって!? 分かってるわよ! あんたへの私怨に私が巻き込まれたってことでしょ!?」
「………………」
 彼女のあまりの剣幕に、一馬は何も言い返せなかった。口をつぐんだ彼から視線を外すと、依良は止める間もなく桐谷の腕をがしっと掴んだ。
「桐谷、そいつはあんたにあげるから、煮るなり焼くなり埋めるなり…好きにしなさいよ」
「……おい、何言って――」
「体育祭が終わった後なら何したって良いから、今はさっさと歩きなさいよっ。遅れるでしょ!? バカ!」
 すでに桐谷に対する配慮など全くない。あるのは騎馬戦への情熱のみ。
 依良は、言うべき言葉を見つけられずにいる一馬を残して、呆然としている桐谷を無理やり引っ張っていく。半ば引きずられるようにして桐谷の姿は一馬の視界から消え失せた。
「………なんて女だよ…」
 一人きりの教室で、一馬の呟きはぽつんと寂しく漂った。





 一足遅れてグラウンドへ戻った一馬はしばしの逡巡の後、結局隆久の元へと戻った。
 桐谷と名乗るあの人形が今すぐ依良をどうこうするとは正直考えられなかったし、皆が見守る競技の最中にまで、彼女の側に張り付いているわけにもいかない。依良が競技をすっぽかす気がない以上、見晴らしの良い場所で桐谷を見張るのが最善だと判断したのだ。
「一馬くん? 何かあった?」
 隣に戻ってきた一馬のただならぬオーラに、隆久はセットしていたビデオから顔を上げる。
「別に……」
 一馬の答えから何かあったのは明白だったが、隆久はそれ以上問うこともせず、再びビデオに視線を落とす。
 何事かごそごそといじっている彼の横で、一馬はじっとグラウンドを見つめていた。
 障害物競走に使われた遊具が全て取り払われたグラウンドの向こうの入場門には、次の騎馬戦の選手たちが控えていた。視力の良い一馬には遅れて現れた依良と桐谷の表情までよく見える。
 先ほど駆けつけるのが遅れた原因である彼女のクラスメイトの少女たちも、今はじきに始まる騎馬戦に意識を集中しているようで、後ろに立つ一馬には気付く気配がない。安堵の溜め息をもらした彼の耳に、拡声器を通した明るい声が届いた。

『お待たせいたしました。午前の部最終種目、前半騎馬戦を始めます。一学年四組選出、計十二組の選手が紅白に分かれて戦います。盛大な拍手でお迎えください!』

 言い終わるや否や、そこら中から割れんばかりの拍手が沸き起こる。一馬のすぐ横でも、必死に手を叩く音が聞こえた。
「よし、ビデオセット完了! 用意万端!!」
 呆れるほど晴れ晴れとした表情で言う隆久に、一馬はわざとらしく肩を落としてみせた。
「よくそんなにのん気に成長できたな。………阿古屋の女と結婚したなら、少しは大変な思いもしただろうが」
 周囲の騒音に呑まれそうな呟きに、隆久は入場してくる依良たちをレンズ越しに見つめたまま口を開いた。
「うん、したねぇ。俺も阿古屋の分家の人間だからねぇ……」
「……じゃあ尚更思い知ってんだろ。だったらどうしてあの女を、あんな脳天気でおめでたい奴に育てたんだ」
 責めるような一馬の言葉は、辺りの歓声に所々消されてしまう。ちょうど選手たちが騎馬を組んだ所だった。
「思い知ってるから、だから、同じ思いは……して欲しくない」
「するぞ。あいつの力は、あいつを平穏に過ごさせやしない。望むと望まずとに関係なく、必ず争いに巻き込まれる」
 顔を上げた隆久は騎馬にまたがる依良を眩しそうに見やった。つられて一馬も同じ方向に視線を向ける。少女の赤いはちまきが黒髪と共に風に激しく揺れていた。
「それでも、守るさ」
「お前に守れるのかよ」
「守るさ」
 一分の隙もなく、あっさりと言い切る男を一度見てから、一馬は少女へと視線を戻した。開始の笛が鳴り響く。

「……俺だって、仕方ねぇから守るけどさ」
「あ!! 依良っ、行け! そこだ取れっ。あッ、後ろ後ろ後ろ!!!」

 ビデオそっちのけで隆久は叫んでいる。紅白入り乱れ戦うその中で、依良の騎馬はよく立ち回っていた。
「あぁぁっ! 依良がっ、依良がはちまき取った!! よし、その調子だどんどん行けェ!! 見た!? 一馬くん!!」
 誰よりも、多分生徒よりもはしゃいでいる隆久と距離を置こうとした一馬は、名を呼ばれ思わず立ち止まった。
「やっぱ強いなぁ依良は……あ、そういやさっき何か言った?」
 興奮した面持ちのまま一馬に視線さえ寄こさないで隆久は言う。
「………別に」

『赤強い! 赤強いです!! 白っ、頑張れ!』

 まるで生死を賭けたかのような熾烈な戦いを繰り広げた騎馬戦は、赤の勝利に幕を閉じた。






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